売春婦「ナディア」の教え――『国をつくるという仕事』特選連載5(西水美恵子)
元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年。分野や立場を問わない様々な方たちから、「本気のリーダーシップ精神に火が付いた」という感想をいただいてきた本書から、10周年を機に特選した10のエピソードを順次公開いたします。
今回は、エイズのリスク管理をめぐりバングラデシュとインドで出会ったリーダーシップについて綴る「売春婦『ナディア』の教え」をお送りします。
(注)本文中の漢数字は、WEB掲載に際し読みやすさを考慮して算用数字に改めた部分があります。また、数値データはすべて執筆当初のままとなっています。
12月1日は世界エイズデー。毎年この日には出張し、HIV/エイズ問題にそっぽを向く国家首脳連に説教し歩いたものだった。エイズは単なる病気ではない、経済や国体の維持までをも脅かす貴国のリスクなのです、と。
エイズは社会の最適生産年齢にある青壮年層を襲うから、国家経済の生産性を構造的に脅かす。また、人の抵抗力を直撃するので、負担医療費はエイズのみにとどまらない。まん延状態に至らなくても、国家財政そのものに大影響を及ぼす。すでにアフリカの数カ国は、国家経済そのものが溶けはじめている。
感染経路は、輸血や血清薬品の安全性はもとより、麻薬、売春、性生活と、個人の品行、習性、私生活のふるまいに深く関わる。人と人との深いつながりと信頼関係を腐食し、家庭までをも破壊しうる。人間の幸せの根を揺さぶり、放っておけば国家社会安泰の基礎までをも犯す。
手遅れにならないうちに貴国のエイズ管理対策をと、いくら説いても、馬の耳に念仏ばかりだった。エイズのようにタブー的な社会問題の対策は、まずトップリーダーが動かずには始まらない。なのに、頭でわかってくれてもハートにつながらないから、行動に出てくれない。動いてくれてもたまの演説くらいで、長続きしないし、実になることをしてくれない。政治家は皆近眼だと、いいかげん頭にきていた。
そんなとき、ある売春婦のグループに会ってくれと、バングラデシュ担当の部下に頼まれた。国民意識を高めるために、報道界にエイズ問題を真剣に考えてもらいたい。有能で信頼できる新聞記者数人をまず釣りたい。餌になってくれと頭を下げられた。もちろん喜んで、オフレコなしの取材許可とした。
首都ダッカの下町、貧民街の一角に、売春婦の休憩所がある。早朝、路地奥から湧き出るように集まってくる売春婦たちに、あるカリスマを感じて驚いた。彼女らは、ナディアという名のリーダーに率いられて共済組合を運営していた。明るい顔に目がきらきらと輝く美しい人たちだった。水浴、食事、洗濯や、老いた仲間や子供の世話をすませ、健康診断、共済預金や会費の集金、読み書き、護身術、職業訓練と、休む暇もない。想像を絶する苦境におかれた彼女たちの、その強さとやさしさに、同行の記者たちと共に泣いた。
一息ついたナディアが「世界銀行のシスター」にエイズのことを教えようと、みんなと輪になって床に座った。「エイズと予防法に無知では身の破滅を招きますよ」と、噛み砕くように教えてくれる。コンドームの使い方まで手とり足とりのていねいさに赤面すると笑い、女性用コンドームなど見たこともない我らを叱ってくれた。
帰り道、自動車と人力車が芋を洗う渋滞を車窓からぼんやり見ていたら、ナディアが手を強く握って言った別れ言葉が脳裏をよぎった。「シスター、知識は良い人生を築く力だということ、忘れてはいけませんよ」。その途端、バングラデシュが自動車事故世界一の国だという事実を思い出した。
背筋に冷たいものが走った。もしも今、交通事故にあったらどうなる。ダッカで入院させられたらどうなる。汚れた針で注射されるかもしれない。HIVに感染した輸血を受けるかもしれない。
心臓がコトリと鳴った。エイズは彼女たち売春婦も私も差別しない、と肌に感じた。その瞬間、ハッと気づいた。自分の頭とハートが、今の今までつながっていなかったのだ。エイズを自分自身の危機としてとらえていなかった。首脳連への説得力に欠けたのは当たり前だ。「姉御」ナディアよ、ありがとうと、心の手を合わせてまた泣いた。
翌日、シェイク・ハシナ首相と会見の日、朝刊の一面トップに「世界銀行副総裁、売春婦からエイズ講義を受ける」と写真入りで載った。コンドームをかぶった木製の男根を囲んで、ナディアと彼女の仲間と「世銀のシスター」が、楽しそうに笑っていた。
国会議事堂の首相控室に着席するなり「今朝の新聞、読んだわよ」と微笑む首相。待ってましたとばかり、姉御ナディアの共済組合の活躍を話した。そして、ナディアのおかげで得た帰路の車中の体験を語った。バングラデシュで輸血される血液の9割は、HIVの検査がされていない事実も付け加えた。ご用心、感染リスクは首相でさえ同じですから、とくくったら、彼女の顔色が変わった。サリーからのぞく首相の腕に、鳥肌が立っていた。
翌年の世界エイズデー。バングラデシュは、大々的なエイズ知識の普及運動を開始した。ハシナ首相自らの先導は言うまでもない。いばらの道、先は長い。しかし、人口1億4,000万人の国がようやく動き出した。
シェイク・ハシナ首相(左)に、前日会ったナディアの活躍を報告。この写真が撮られた直後、首相の顔色が変わった
代わってお隣インドでは、1986年、世界がエイズに無関心のころ、すでに対策を開始していた。当時の厚生省次官と数人のリーダーが、インド初の感染者発見に危機感をもったためと聞く。即時エイズ対策委員会を設立、翌年には国家エイズ管理機関を立ち上げた。感染率は低いが大国インドのこと、HIV人口は今日世界第3位。20年前、先見の明ある指導者らが動かなかったらインドは今どうなっていただろう。想像するだけでゾッとする。
99年世界エイズデーの前夜、私は、インド南部タミルナド州の首都チェンナイ(旧名マドラス)郊外、国道5号線の脇で棒立ちになっていた。南はインド大陸の先端から、北はバングラデシュ、ブータン、ネパール、パキスタン、果てはアフガニスタンまでつながるハイウェーは、一日7,000台のトラックで、ごう音をたてて流れる川のようだった。一台平均3人の男が乗り込むから、ここだけで毎日2万人以上が国道沿いに春をひさぐ女たちに誘われる。この膨大なエイズリスクを管理するなど人間技ではない、と唖然とした。
しかし、それを人間技とするNGOの一団がいた。全員がHIVに感染した元運転手や売春婦たち。「赤い丘」と呼ばれる休憩所にたむろする運転手や売春婦を集めては、エイズ教育をし、安全なセックスの紙芝居を見せ、カウンセリングをしていた。裸電球に黄色く染まったテントのなかは和やかで、笑い声が絶えなかった。「初めは昔の仲間に殴られ、唾(つば)をかけられたけれど、母国が危ないと励まし合った」と言う。
彼らのリーダーシップと粘り強い努力は、政府の援助を受けるまでに成長し、多くの人々を励まし奮起させた。全インド・トラック運転手組合は、我らの団結力を国のためにと運動に参加。組合員のトラックは「ハイウェーで予防」と書かれた丸い大きなシールを貼って、行き会う組合員と警笛を鳴らし合う。あるコンドーム製造会社も、国のためにも商売のためにもなると協力。活動の資金援助と共に、暗いイメージを一転するマーケティング戦略を実施、何万といる小売業者教育に乗り出した。
リーダーシップの輪は輪を呼び、多くの人を鼓舞し続けている。そして数年前、タミルナド州のHIV感染上昇率が減速の傾向を示しはじめた。
日本のHIV感染人口は2万人に足らぬと推定される。しかし、10代20代の若者に広がりつつあり、感染者の急増が危惧されている。安堵は禁物。エイズは国境を知らない。
※著者の意向により本書の印税はすべてブータンのタラヤナ財団に寄付され、貧しい家庭の児童の教育費等に役立てられます。タラヤナ財団とそれを設立したブータン王妃(当時)について西水さんが綴った「歩くタラヤナ」もぜひご覧ください。
著者紹介
西水美恵子(にしみず・みえこ)
米国ガルチャー大学を卒業(経済学専攻)。ジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程(経済学)を卒業。プリンストン大学経済学部(ウッドロー・ウイルソン・スクール兼任)助教授に就任。1980年、世界銀行経済開発研究所に入行。諸々のエコノミスト職や管理職を歴任。IBRD(世界銀行グループ・国際復興開発銀行)のリスク管理・金融政策局長などを務めた後、1997年、南アジア地域担当副総裁に就任。2003年、定年を待たずに退職。以来、世界を舞台に様々なアドバイザー活動を続ける。2007年よりシンクタンク・ソフィアバンクのパートナー。著書に『国をつくるという仕事』、『あなたの中のリーダーへ』、『私たちの国づくりへ』(いずれも英治出版)などがある。
連載紹介
元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年。一国の王から貧村の農民まで、貧困のない世界を夢見る西水さんが世界で出会ってきたリーダーたちとのエピソードが綴られる本書は、分野や立場を問わない様々な方たちのリーダーシップ精神に火を付けてきました。10周年を機に、ぜひもう一度西水さんの言葉をみなさんに届けたい——。そんな思いから、本書の全36章より特選した10のエピソードを順次公開いたします。徹底的に草の根を歩き、苦境にあえぐ一人ひとりの声に耳を傾け、彼らの盾となって権力者たちと戦い続けた西水さんの23年間の歩みをご覧ください。
連載:いまもう一度、『国をつくるという仕事』を読む。
第1回:はじめに
第2回:カシミールの水【インド、パキスタン】
第3回:偶然【トルコ、バングラデシュ、スリランカ】
第4回:雷龍の国に学ぶ【ブータン】
第5回:売春婦「ナディア」の教え【バングラデシュ、インド】
第6回:改革という名の戦争【パキスタン】
第7回:神様の美しい失敗【モルディブ】
第8回:ヒ素中毒に怒る【バングラデシュ】
第9回:殺人魔【インド】
第10回:歩くタラヤナ【ブータン】
特別回:「本気」で動けば、何だって変えられる——著書『あなたの中のリーダーへ』、「はじめに」より
~西水さんとの対話会レポート~
竹内明日香:いつの時代も、世界の変化は「草の根」から
宮崎真理子:組織拡大期のリーダーのあり方に光が差した夜
三田愛:勝負の10年。夢物語への想いを本気にさせてくれた言葉
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