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「本気」で動けば、何だって変えられる——著書『あなたの中のリーダーへ』、「はじめに」より(西水美恵子)

元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年。分野や立場を問わない様々な方たちから、「本気のリーダーシップ精神に火が付いた」という感想をいただいてきた本書から、10周年を機に特選した10のエピソードを公開してまいりました。

この連載の締めくくりとして、西水さんが「今でも変わらず、読者に伝えたいメッセージ」だと語る、著書『あなたの中のリーダーへ』の「はじめに」をお送りします。

これまで公開してきた10回と今回の記事が、みなさんの「本気で取り組みたいこと」への情熱がますます強まるきっかけとなれば幸いです。

(注)本文中の漢数字は、WEB掲載に際し読みやすさを考慮して算用数字に改めた部分があります。また謝辞にあたる記述は割愛しています。


パキスタンの山奥で鬼を見た……。


貧困の体験学習を勧める現地NGOの世話になって、パキスタン北部カシミールの離村にホームステイに入ったときのことだった。

やっとの思いでたどり着いた村は、ヒマラヤの急斜面に拓かれた棚田にへばりついていた。その片隅にひっそりと、まるであたりをはばかるかのように、目指す農家が立っていた。粘土遊びで作ったような小さな家に一歩踏み入れて、アマ(お母さん)と呼ぶべき人に会った途端、鬼が暴れだした。

「嫌だ! 水道も電気も何もない貧しい村で、読み書きもできない無学な人に身の安全を委ねることなど、できやしない!」

その鬼を醒めた目で見つめるもう一人の私が、そこにいた……。

貧困解消を使命とする世界銀行で働いているくせに、貧しい人を見下していた自分を見た。無意識な偏見とは言え、無意識だからこそ、恐い。悪寒が背筋を走り、ザワザワと鳥肌が立った。

アマが何か言いながら、私の背中をさすり始めた。「かわいそうに。ヒマラヤの夕暮れは急に寒くなるから」と、付き添いのNGO職員が訳してくれた。自分のショールを外して私の肩にかけ、アマはさも満足したようにうなずくと、翌日からの日課を語り始めた。


「早朝、日の出前、まず水汲みに出る。
 泉まで1時間裏山を登り、また1時間かけて下る」

「それから子供たちと朝食。
 朝はお茶とパン一切れ。
 そしてヤギに餌。
 涼しいうちに畑仕事に出る。
 麦と野菜は家族で食べるだけ。
 売るほど作る土地はない」

「昼前、また水汲みに山へ入る。
 1時間山を登り、また1時間かけて下る。
 山の日差しは強いから、昼の水汲みはつらい」

「昼食は子供たちにはお茶。
 あなたと私は水だけ。
 午後は家の掃除、ヤギの餌集め、薪集め。
 水が余っていれば洗濯もする」

「日が落ちる前、また水汲みに山に入る。
 疲れているから夕方は時間がかかる」

「夕食はヒラマメのスープとパン。
 そして寝るまで暗闇の中で子供たちと話す。
 私はこの時間がいちばん好きだ」


アマは、一息つくと、こう付け加えた。


「くる日もくる日も、同じことの繰り返し。
 気が狂ってしまうかと思う時さえある。
 これは人間が営む生活ではない。
 動物のように、ただ体を生かしているだけ……」

「夢はただひとつ。
 子供たちが教育を受けて、こんな生活を繰り返さないように。
 けれど、それさえかなわない。
 自分が病気になったら皆飢え死にする。
 それが恐ろしい……」


諄々(じゅんじゅん)とまるで私の鬼を諭すかのようなアマの語りが終わったとき、涙が堰(せき)を切った。痩せ細ったアマの手が、また私の背を優しくさすってくれた。その温かさが体の隅々まで染み渡ったとき、まるでポケットを裏返すように、体がひっくり返った気がした。

あのとき、本気にスイッチが入ったのだと思う。自分という洋服を、それまで裏返しに着ていたようなあの感触は、今でも体に残っている。

人間、本気のスイッチが入ると、傍から見ればとんでもないとさえ思えることを、平気でするようになるらしい。見逃してしまうようなありふれたことに、だからこそ捨て身でかかる意気込みが、自然体になってしまうのだろう。


世界銀行の官僚的な組織文化を変えなければいけないとはわかっていても、それまで長年躊躇(ちゅうちょ)し続けていた。が、やっと肝が据わった。

「アマの夢をかなえる! それができる世銀をつくってみせる!」

ホームステイを終え、米国首都ワシントンの世界銀行本部に戻ったとき、本気のスイッチがカチカチと音をたてた。上司と同僚、部下たちにホームステイの体験を報告して、こう結んだ。

"Watch out! Mieko you knew is no longer."(要注意! あなたが知るミエコはもういない)


世界銀行の現場では、貧困解消の夢を妨げる権力者の腐敗と戦うリーダーを探し、彼らの補佐に徹した。皆そろって本気のスイッチが入った人々だった。だからこそ、自分の仕事は「憎まれ役」だと笑って盾になり、「どうせやるなら大々的に」と、喜んで喧嘩(けんか)を買い続けることができたのだろう[1]。

仕事を共にしたリーダーたちから授かった教えは、カシミールのアマの夢をかなえうる世界銀行の改革に応用し続けた。本書につづった組織文化の改革や、女性差別への挑戦に関する数々は、その貴重な学習と結果のいろいろを紹介している。


しかし、カシミールでの体験以来、妙に母国のことが気になりだした。現場にいても、職場に戻っても、いつも日本を気にかけていた。

本書で取り上げたいろいろなテーマのほとんどは、長年胸に抱いてきた気がかりにつながっている。政治と行政に携わる人々の仕事意識と組織文化。政策や経営の品質。国家と企業の危機管理への覚悟。財政問題はもとより、人口減少や高齢化など、国が抱える長期課題への対処。そしてまた国際的なオピニオンリーダーらが眉をひそめる日本の男女雇用格差や、国民の大半が支持する死刑制度……。

どれひとつをとっても、なぜか「本気」が見えないと感じていた。長い海外生活のせいで、情報がつかめず、自分の感覚が麻痺しているのだろうかとも思った。

しかし、世界銀行を辞して帰国する機会が増えると、同胞の多くも同じ懸念を抱えていると感じるようになった。報道界や出版界から巷にあふれ出るさまざまなリーダーシップ論が、本気のスイッチが入ったリーダーへの渇望を示唆しているように見えた。

だから、自分の小さな体験を母国の未来を担う人々に伝えたいと願うようになった。本気のスイッチを入れるのは、誰よりもまず自分からなのだと、知ってもらいたかった。


この本が、我が同胞、特に日本の未来を担う若い世代にとって、本気のスイッチを入れる小さなきっかけとなれたら、この上ない喜びである。

愛する母国の未来のために。


平成24年皐月吉日
英国領バージン諸島にて

[1]参照:『国をつくるという仕事』(英治出版、2009年)。


※著者の意向により上記書籍の印税はすべてブータンのタラヤナ財団に寄付され、貧しい家庭の児童の教育費等に役立てられます。タラヤナ財団とそれを設立したブータン王妃(当時)について西水さんが綴った「歩くタラヤナ」もぜひご覧ください。

著者紹介

新プロフィール写真(クレジット入)

西水美恵子(にしみず・みえこ)
米国ガルチャー大学を卒業(経済学専攻)。ジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程(経済学)を卒業。プリンストン大学経済学部(ウッドロー・ウイルソン・スクール兼任)助教授に就任。1980年、世界銀行経済開発研究所に入行。諸々のエコノミスト職や管理職を歴任。IBRD(世界銀行グループ・国際復興開発銀行)のリスク管理・金融政策局長などを務めた後、1997年、南アジア地域担当副総裁に就任。2003年、定年を待たずに退職。以来、世界を舞台に様々なアドバイザー活動を続ける。2007年よりシンクタンク・ソフィアバンクのパートナー。著書に『国をつくるという仕事』、『あなたの中のリーダーへ』、『私たちの国づくりへ』(いずれも英治出版)などがある。

連載紹介

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元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年。一国の王から貧村の農民まで、貧困のない世界を夢見る西水さんが世界で出会ってきたリーダーたちとのエピソードが綴られる本書は、分野や立場を問わない様々な方たちのリーダーシップ精神に火を付けてきました。10周年を機に、ぜひもう一度西水さんの言葉をみなさんに届けたい——。そんな思いから、本書の全36章より特選した10のエピソードを順次公開いたします。徹底的に草の根を歩き、苦境にあえぐ一人ひとりの声に耳を傾け、彼らの盾となって権力者たちと戦い続けた西水さんの23年間の歩みをご覧ください。

連載:いまもう一度、『国をつくるという仕事』を読む。
第1回:はじめに
第2回:カシミールの水【インド、パキスタン】
第3回:偶然【トルコ、バングラデシュ、スリランカ】
第4回:雷龍の国に学ぶ【ブータン】
第5回:売春婦「ナディア」の教え【バングラデシュ、インド】
第6回:改革という名の戦争【パキスタン】
第7回:神様の美しい失敗【モルディブ】
第8回:ヒ素中毒に怒る【バングラデシュ】
第9回:殺人魔【インド】
第10回:歩くタラヤナ【ブータン】
特別回:「本気」で動けば、何だって変えられる——著書『あなたの中のリーダーへ』、「はじめに」より
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