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歩くタラヤナ——『国をつくるという仕事』特選連載10(西水美恵子)

元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年。分野や立場を問わない様々な方たちから、「本気のリーダーシップ精神に火が付いた」という感想をいただいてきた本書から、10周年を機に特選した10のエピソードを順次公開いたします。
今回は、貧しい民のもとを自らの足で歩き回るブータン王妃(当時)のことを綴った「歩くタラヤナ」をお送りします。

(注)本文中の漢数字は、WEB掲載に際し読みやすさを考慮して算用数字に改めた部分があります。また、数値データはすべて執筆当初のままとなっています。


「雷龍の国」ブータンを初めて訪れて、どの国でも初訪問には欠かせない離村ホームステイに向かう前日のこと。首都ティンプーで挨拶回りをしていたら、某大臣が言った。「我が国は、国民平均所得などの物差しで計れば貧しいが、他の開発途上国とは違う。農民の生活は自給自足には近いが、豊かだ。町には物乞いをする民もいない。我が国に貧しい民はいない」。半信半疑でも、聞き逃せない言葉だった。

滞在したベムジ村は都から遠い。ブータン中部のトロンサ県まで車で丸一日。二日目は険しい山路を登った。日没前、やっとの思いでたどり着いた村には、収穫を終え越冬支度も整えた、喜びの時間が流れていた。たわわに実る山椒が香り、山並の彼方にヒマラヤの白銀を望む、美しい在所だった。

電気も水道もない村だが、小学校がある。診療所も完備している。獣医もいる。陽当たりの良い急斜面に段々畑を拓き、古代米を作る農民の衣食住は、予想をはるかにこえて豊かだった。

民家は、農家と呼ぶには大きすぎて、英国の田舎によく見る小荘園主の邸に似た風情だった。家畜用の1階は、分厚い土壁が白い漆喰(しっくい)に光る。住居にあてられる2階と客室や祭壇のある3階は、木組み様式の木造建築。壁や窓枠に、色とりどりの吉兆紋が躍る。風害防止に重石を配した杉板葺きの古来の屋根に、銀色のトタン屋根がちらほらと混じる。森林保護政策の一環として助成金つきで普及してきたそうだ。

洗顔や水仕事は井戸端ですますが、バケツの水で流すとは言え、水洗式の室内便所には驚いた。贅沢だが、露天風呂も楽しめる。真っ赤に焼いた石を風呂桶の片隅に投げ込むと、ジューッと大きな音をたてて蒸気が飛ぶ。岩石に含まれた成分が溶け出たころを見計らって実のなるネズの葉を浮かべれば、医療効果があると教わった。

野良仕事に手織りの民族衣装をまとう村人のこと、見事な正装姿には目を見張ったが、仰天したのは食生活。ヤクのチーズと唐辛子を絡め炒めたキノコ。ほんのり苦い食用ランの蕾(つぼみ)のおひたし。川藻の香り高いおすまし。山椒の佃煮。古代米の赤飯を片手でにぎり、おかずを添えて、にぎり寿司の要領で口にほうりこむ。思い出しただけで頬が落ちる。自家製の焼酎や濁酒も美味しい。「精力がつくから要注意」と笑って、卵酒が振舞われる。野良仕事で疲れたときは、ランや寄生木の葉をゆでてヤクのバターをたっぷり溶かし、岩塩で味つけしたバター茶で生き返る。

しかし、その豊かさの陰に、貧しい村人の生活があった。授業時間のはずなのに、水汲みに、掃除に、とくるくる働く子供たちに気付いた。両親とも流行病で亡くした孤児だった。漆喰が剥がれ、土壁が崩れかけている家に気付いた。主人の大病で、土地を切り売りしながら生き延びていると言う。昼間はひっそり音ひとつなく、夜はロウソクの灯りが漏れないぼろ家に疑問を持った。家族全員が盲目に生まれ、施しに頼る生活だった。耕す土地と労働力に恵まれた豊かさから外れた人々が、細々と生き延びていた。

頭にきた。首都に戻ってあの大臣を訪ね、かんかんに怒った。「国民の大半は、車道から徒歩で半日以上の距離に住む。車窓から見るのは貴国ではない。自分の足で歩いて見てきてください」と怒った。


翌年、ドルジ・ワンモ・ワンチュク王妃と雑談していて「昔の大臣たち」の話題になった。内閣大改造があり、指導者層の世代交替のときで、王妃は国民の声が届く政府になったと喜ぶ。あの大臣の名を伏せて初訪問の経験を話しはじめると、王妃が「隠さなくてもいいわよ。『我が国に貧しい民はいない』でしょ!」と大笑い。あのときの自分の怒りと言葉が、そのまま王妃の口からころがり出た。「いつもかんかんになって怒ったわ。車窓から見るのは我が国ではない。自分の足で歩いて見なさいとね」

驚いた。

子育てが一段落したころ、王妃は「今歩かなければ母国を知らぬまま一生を終えてしまう」と、僻地行啓の旅に出た。ブータンの山歩きは並大抵の苦労ではない。インド国境は海抜200メートル前後の熱帯ジャングル。中国・チベット国境は7,000メートル級のヒマラヤ連峰。その間直線距離にして約200キロの国を無数の激流が貫く。平面面積は九州程度でも、立体地図上では決して小国とは言えない。

厳しい地形に輪をかけて、人口密度は1平方キロあたりたった15人。約67万人の国民の大半が、日照時間の多い山肌を求めて散在している。僻地の多くは、徒歩で片道1週間前後の距離にある。

行啓を始めてすぐのこと。王妃は、貧困という名の罠に捕らわれた国民の存在を知る。孤児。身寄りのない老人。身体障害者。義務教育は無料でも、制服を買う余裕のない親と、通学できない子の嘆き。外界から閉ざされがちな僻地に多い口蓋破裂症に悩む人々。このままでは国がいくら豊かになっても取り残されてしまう民を、王妃は「傷つきやすい民」と呼び「歩き続ける情熱の源」と言う。酸素の薄い大気にあえぎ、雨期には蛭(ひる)に血を吸われ、高山病にまでかかっても、止めなかった。自らに野宿を強いて歩き続けた。

「傷つきやすい民」に出会うたび、一時金を渡し、必要に応じて年金の手配もした。しかし「私のお小遣いでは賄いきれなくなってしまった」と笑う王妃。「自由にできる自分名義の貯金」をはたいて、タラヤナ財団[1] を設立した。2003年5月吉日のことだった。

画像3離村を訪ね帰路につくブータン王妃。後方には見送る村人たち


タラヤナすなわち観音菩薩。その本願のごとく、財団は大慈大悲で民を救い、幸せな国づくりへの貢献を目的とする。孤児、身寄りのない老人、身体障害者等への年金制度。貧困家庭の負担になる学費の支給。離村の現金収入となる工芸品の技術訓練やマーケティング。年に一度、欧米医師奉仕団体による口蓋破裂症の集団整形手術も可能にした。スイスなど欧州の政府援助機構から個々のプロジェクトへの援助も受けるようになった。国内はもとより、日欧米の個人寄付も届きはじめている。

王妃の情熱は、ブータンの若者を鼓舞した。国家公務員のエリートたちも、政府のできない国づくりをと、休日返上で奉仕する。タラヤナ財団は、運営経費を最低限に抑え、寄付金のほとんどを救済に使う。世界中、多くのNGOを見てきたが、小さくても貴重なお手本だと感心する。

質の高い仕事は需要を呼び、財団の台所は火の車。王妃は「財団の基金へ寄付を募り財政状態を安定させなければ」と考えはじめている。立派なリーダーのもとで良い仕事を成す組織に対しては、そういうお金の使い方が本当の援助だと思う。しかし、プロジェクト融資にこだわる政府系援助機構には無理な話らしい。ビジョンと価値観と業務成果の質を見極め、健全な運営を条件に、基金の寄付に動く柔軟性は、民間に期待すべきなのだろう。

王妃は今日も歩き続ける。タラヤナは衆生の求めに応じて姿を変える変化観音。信心深い国民は、王妃を「歩くタラヤナ」と呼び、財団の活動をささやかな寄付と労力奉仕で支え続ける。

[1]タラヤナ財団(Tarayana Foundation) http://www.tarayanafoundation.org/


※著者の意向により本書の印税はすべて、本記事で紹介されているブータンのタラヤナ財団に寄付され、貧しい家庭の児童の教育費等に役立てられます。

著者紹介

プロフィール写真

西水美恵子(にしみず・みえこ)
米国ガルチャー大学を卒業(経済学専攻)。ジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程(経済学)を卒業。プリンストン大学経済学部(ウッドロー・ウイルソン・スクール兼任)助教授に就任。1980年、世界銀行経済開発研究所に入行。諸々のエコノミスト職や管理職を歴任。IBRD(世界銀行グループ・国際復興開発銀行)のリスク管理・金融政策局長などを務めた後、1997年、南アジア地域担当副総裁に就任。2003年、定年を待たずに退職。以来、世界を舞台に様々なアドバイザー活動を続ける。2007年よりシンクタンク・ソフィアバンクのパートナー。著書に『国をつくるという仕事』、『あなたの中のリーダーへ』、『私たちの国づくりへ』(いずれも英治出版)などがある。

連載紹介

連載紹介バナー

元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年。一国の王から貧村の農民まで、貧困のない世界を夢見る西水さんが世界で出会ってきたリーダーたちとのエピソードが綴られる本書は、分野や立場を問わない様々な方たちのリーダーシップ精神に火を付けてきました。10周年を機に、ぜひもう一度西水さんの言葉をみなさんに届けたい——。そんな思いから、本書の全36章より特選した10のエピソードを順次公開いたします。徹底的に草の根を歩き、苦境にあえぐ一人ひとりの声に耳を傾け、彼らの盾となって権力者たちと戦い続けた西水さんの23年間の歩みをご覧ください。

連載:いまもう一度、『国をつくるという仕事』を読む。
第1回:はじめに
第2回:カシミールの水【インド、パキスタン】
第3回:偶然【トルコ、バングラデシュ、スリランカ】
第4回:雷龍の国に学ぶ【ブータン】
第5回:売春婦「ナディア」の教え【バングラデシュ、インド】
第6回:改革という名の戦争【パキスタン】
第7回:神様の美しい失敗【モルディブ】
第8回:ヒ素中毒に怒る【バングラデシュ】
第9回:殺人魔【インド】
第10回:歩くタラヤナ【ブータン】
特別回:「本気」で動けば、何だって変えられる——著書『あなたの中のリーダーへ』、「はじめに」より

~西水さんとの対話会レポート~
竹内明日香:いつの時代も、世界の変化は「草の根」から
宮崎真理子:組織拡大期のリーダーのあり方に光が差した夜
三田愛:勝負の10年。夢物語への想いを本気にさせてくれた言葉
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