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はじめに——『国をつくるという仕事』特選連載1(西水美恵子):夢は、貧困のない世界をつくること。元世界銀行副総裁の闘いを綴ったベストセラー特別公開。

元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年が経ちました。
一国の王から貧村の農民まで、貧困のない世界を夢見る西水さんが世界で出会ってきたリーダーたちとのエピソードが綴られる本書。その「はじめに」には、こんな言葉が綴られています。

「国づくりは人づくり。その人づくりの要は、人間誰にでもあるリーダーシップ精神を引き出し、開花することに尽きると思う」

本書は発売当初から大きな反響を呼び、分野や立場を問わない様々な方たちから、「本気のリーダーシップ精神に火が付いた」という感想をいただいてきました。それらの言葉に触れるたびに、私たちはこの本が持つ大きな力を感じてきました。

10周年を機に、ぜひもう一度西水さんの言葉をみなさんに届けたい——。

そんな思いから、本書の全36章より特選した10のエピソードを順次公開いたします。
まだ読んだことがなかった方には新たな出会いとして、すでに読んだことがある方には再読の機会として、ぜひご覧いただけたら幸いです。

徹底的に草の根を歩き、苦境にあえぐ一人ひとりの声に耳を傾け、彼らの盾となって権力者たちと戦い続けた西水さんの23年間。
まずはそんな西水さんの原点が語られた「はじめに」をお届けします。

(注)本文中の漢数字は、WEB掲載に際し読みやすさを考慮して算用数字に改めた部分があります。また謝辞にあたる記述は割愛しています。


はじめに

あれは、たしか1980年の春のことだった。当時、経済学を教えていた米国プリンストン大学の、研究室での昼下がり。訪れる学生の姿もなく、論文の構想を練るには最適で、大好きな時間だった。その静寂を、一本の電話が永遠に破った。

世界銀行のチーフ・エコノミストとして、開発政策と研究所を担当していた著名な経済学者、ホリス・チェネリー副総裁からだった。その年の夏から始まるサバティカル(研究休暇)の一年を、世銀の研究所で過ごさないかという誘いだった。

経済開発論は部門外もいいところで、興味さえなかった。首都ワシントンにいる夫の勤務先でもあるIMF(国際通貨基金)は、熟知していた。が、IMFと姉妹機構の世銀が、いったい何をする銀行なのかさえ知らなかった。躊躇して、しばらく考えさせてもらったが、「好待遇で好きな研究に没頭できるうえ、単身赴任の時間的なロスがない一年間は、断るには良すぎる」と答えた。

チェネリー副総裁は、そんな不真面目な私を笑いながら、契約にひとつの条件を出した。

「一国でもいい。発展途上国の民の貧しさを、自分の目で見てくるように……」

プリンストンの修士課程を終えて世銀で活躍していた教え子が、それならエジプトがいいと誘ってくれた。彼が率いる開発五カ年計画調査団に同行して、首都カイロへ飛んだ。

週末のある日、ふと思いついて、カイロ郊外にある「死人の町」に足を運んだ。邸宅を模す大理石造りの霊廟がずらりと並ぶイスラムの墓地に、行きどころのない人々が住み着いた貧民街だった。

その街の路地で、ひとりの病む幼女に出会った。ナディアという名のその子を、看護に疲れきった母親から抱きとったとたん、羽毛のような軽さにどきっとした。緊急手配をした医者は間にあわず、ナディアは、私に抱かれたまま、静かに息をひきとった。

ナディアの病気は、下痢からくる脱水症状だった。安全な飲み水の供給と衛生教育さえしっかりしていれば、防げる下痢……。糖分と塩分を溶かすだけの誰でも簡単に作れる飲料水で、応急手当ができる脱水症状……。

誰の神様でもいいから、ぶん殴りたかった。天を仰いで、まわりを見回した途端、ナディアを殺した化け物を見た。きらびやかな都会がそこにある。最先端をいく技術と、優秀な才能と、膨大な富が溢れる都会がある。でも私の腕には、命尽きたナディアが眠る。悪統治。民の苦しみなど気にもかけない為政者の仕業と、直感した。

脊髄に火がついたような気がした。


帰途の機上では一睡もできず、自分が受けた教育は何のためだったのか、何をするために経済学を学んだのかと、悩んだ。ワシントンに近づき、機体が着陸体勢に入っても、鬱々としたままだった。が、車輪がドシンと音を立てて滑走路に接した瞬間、目の奥に火花が散った。結論が、脳に映った写真のように、はっきり見えた。学窓に別れを告げ、貧困と戦う世銀に残ると決めた。

契約を延長してくださいと頭を下げに行ったチェネリー副総裁は、「薬が効きすぎたかな」と、また笑った。「ナディアの死を無駄にしないように」と添えてくれた彼の言葉は、いまだに脳裏に焼き付いている。

「世銀の使命は、貧困のない世界をつくること。この使命を背負う仕事の究極は、正義の味方になることだ。政治力のない貧民のために正しいことを正しく行う、勇気あるリーダーたちの味方になる。この精神を本気で貫かないと、世界一流の知識や技術の提供が無駄になる。融資は途上国の借金を増やし、国民を苦しめるだけに終わる。やる気があるようだな」

転職の報告に、父が怒った。「教壇の神職から、金貸しになり下がるのか!」

それからの23年間は、「貧困のない世界をつくる」夢を追う、毎日だった。

いざ入行してみて、チェネリー副総裁が諭した「正義の味方」の精神が、多くの世銀職員の姿勢に浸透していると知り、驚いた。自然にナディアが仕事の尺度になった。何をしても、ナディアに問うのが習慣になった。「生きていたら喜んでくれるかしら。あなたを幸せにできるかしら……」

さらに驚いたのは、世銀を築いた国際法が、その精神を保護していることだった。キューバと北朝鮮を除く全世界の加盟国が調印した、世銀の「憲法」ともいえる国際条約に、守られていた。


ここで、大切なことをひとつ。この本を手にした読者のみなさんは、自分が世銀の株主だという事実をご存知だろうか。

世銀は、国連の諸機関や多くのNGO(非政府組織)など、寄付金に依存する援助機関とは種類が違う。ひとさまの大切なお金を預かって運営し、いろいろなリスクを管理して業務成果をあげ、運営経費を捻出し、返すお金は約束どおりきちんと返済する。つまり正真正銘の金融業で、国際法上、加盟国の国民が株主である。日本でも「世銀債」と親しまれている債券などを通じて、市場から安く借り、市場信用がないに等しい発展途上国の良い国づくりのために、できるだけ安く貸すことに専念する。

株主と市場の信用が命の銀行だ。その信用を第一にと管理する世銀の金融体制は、もちろん「憲法」を厳守する。だから、「正義の味方」になる意志があれば、庇護し、可能にするよう仕組まれてある。

人間が成す組織なのだから、決して完璧ではない。間違いも、失敗も、多い。しかし「正しいことを正しく」行う姿勢を貫く信念さえあれば、「憲法」と金融管理の体制が守ってくれる。世銀はそういう希有な職場だった。

今は亡き父の怒りが解け、喜びに変わるまで、時間はかからなかった。


その世銀での現場体験を振り返ってみると、やはり、権力者の腐敗と悪統治を敵にまわして戦うリーダーたちの、補佐に徹した年月だった。自分の仕事は「憎まれ役」だと笑って楯になり、「どうせやるなら大々的に」と、喜んで喧嘩を買い続けた。

べつに喧嘩好きでもなければ、特別変わったことをしたわけでもない。現場に携わる心ある世銀職員なら、誰でも似たような仕事をしている。目立つ、目立たないに関わらず、大小様々な「憎まれ役」の実績を、今日も黙々と積み重ねている。

貴重な学習をさせてもらった日々でもあった。特に、貧村やスラムの視察より家族の一員としてホームステイをするのが好きだった。貧民の生活など知ろうともしない為政者を圧倒する目線や情報が、手に入るからだ。もちろん、政治の最前線だから、喧嘩の種は拾いきれないほどある。自分自身の草の根体験は、改革への説得力をつける。貧しさに喘ぐ株主、すなわち「我が家族と大勢の親類縁者」に励まされるから、権力者との闘いに尻込みをする暇などなかった。

悪政が日常茶飯事な発展途上国の草の根で、稀に、世銀と同じ夢を一心に追うリーダーに出会うと、無上に嬉しくてよく泣いた。話や形は変わっても、皆それぞれのナディアを胸に抱いていた。ナディアが「正しいことを正しく行う」情熱を煽ぎ、情熱が信念の糧となり、ハートが頭と行動に繋がっていた。心身一体、常に一貫した言動だからこそ、民衆の信頼を受け、人々を鼓舞し、奮起していた。

あらゆる職場で活躍する人々だった。農民や村長、貧民街の女衆、売春婦、学生、福祉事業家、NGO活動家、社会起業家、銀行家、ジャーナリスト。少数の政治家や、中央銀行総裁、将軍さえいる。そして、類あっても比のない、ひとりの国王も……。様々な闘いを共にした同志たちだが、心の底から敬愛してやまない恩師でもある。

皆一様に、こう教えてくれた。貧困解消への道は、「何をすべきか」ではなく、「すべきことをどう捉えるか」に始まると。その違いが人と組織を動かし、地域社会を変え、国家や地球さえをも変える力を持つのだと。

この本は、そういう本物のリーダーたちが、ある時は縦糸になり、またある時は横糸になって編み上げてくれた、思い出の絨毯だ。

国づくりは人づくり。その人づくりの要は、人間誰にでもあるリーダーシップ精神を引き出し、開花することに尽きると思う。

未来の社長や首相を発掘せよなどというのではない。育児や家事に勤しんでも、家庭の外に出てどのような職に就いても、リーダーの仕事には夢と情熱と信念がある。頭とハートが繋がっているから、為すことが光る。心に訴えるものがあるから、まわりの人々にやる気と勇気をもたらす。そのリーダーの善し悪しが、開発途上国の発展に決定的な差を生む。

日本の発展にも同じことが言える。悲しいことに、我が国は、金がなければ良い教育も医療も望めない、まるで途上国のような国になりつつある。戦後の高度成長が解消したはずの貧困が、ふたたび私たちのまわりに見えてきた。ガード下や公園に住むホームレスの人々……。食費をつめても薬代を払えない若者やお年寄り……。公立学校の費用にさえ苦労する母子家庭……。ナディアのような薄命の子など生まれない国だと、いったい誰が断言できよう。

だから世銀を辞めた時、もうひとつの夢が生まれた。縁あったリーダーから学んだことを、母国の未来を担う人々に伝えたいと……。


私にとって、リーダーと政治の正しいあり方を考え、追求するきっかけを作ってくれたのが、ナディアだった。この本が、より多くの同胞の、特に日本の若者の心のなかで、小さなナディアとして生まれ変わることができたらと、夢みる。

愛する母国の国づくりのために……。


平成21年正月 英国領バージン諸島にて


著者紹介

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西水美恵子(にしみず・みえこ)
米国ガルチャー大学を卒業(経済学専攻)。ジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程(経済学)を卒業。プリンストン大学経済学部(ウッドロー・ウイルソン・スクール兼任)助教授に就任。1980年、世界銀行経済開発研究所に入行。諸々のエコノミスト職や管理職を歴任。IBRD(世界銀行グループ・国際復興開発銀行)のリスク管理・金融政策局長などを務めた後、1997年、南アジア地域担当副総裁に就任。2003年、定年を待たずに退職。以来、世界を舞台に様々なアドバイザー活動を続ける。2007年よりシンクタンク・ソフィアバンクのパートナー。著書に『国をつくるという仕事』、『あなたの中のリーダーへ』、『私たちの国づくりへ』(いずれも英治出版)などがある。

連載紹介

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元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年。一国の王から貧村の農民まで、貧困のない世界を夢見る西水さんが世界で出会ってきたリーダーたちとのエピソードが綴られる本書は、分野や立場を問わない様々な方たちのリーダーシップ精神に火を付けてきました。10周年を機に、ぜひもう一度西水さんの言葉をみなさんに届けたい——。そんな思いから、本書の全36章より特選した10のエピソードを順次公開いたします。徹底的に草の根を歩き、苦境にあえぐ一人ひとりの声に耳を傾け、彼らの盾となって権力者たちと戦い続けた西水さんの23年間の歩みをご覧ください。

連載:いまもう一度、『国をつくるという仕事』を読む。
第1回:はじめに

第2回:カシミールの水【インド、パキスタン】
第3回:偶然【トルコ、バングラデシュ、スリランカ】
第4回:雷龍の国に学ぶ【ブータン】
第5回:売春婦「ナディア」の教え【バングラデシュ、インド】(10/21 公開)
第6回:改革という名の戦争【パキスタン】(10/24 公開)
第7回:神様の美しい失敗【モルディブ】(10/28 公開)
第8回:ヒ素中毒に怒る【バングラデシュ】(10/31 公開)
第9回:殺人魔【インド】(11/4 公開)
第10回:歩くタラヤナ【ブータン】(11/7 公開)
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出版10周年:いまもう一度、『国をつくるという仕事』を読む。

元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年。一国の王から貧村の農民まで、貧困のない世界を夢見る西水さんが世界で出会ってきたリーダーたちとのエピソードが綴られる本書は、分野や立場を問わない様々な方たちのリーダーシップ精神に火...
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