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神様の美しい失敗——『国をつくるという仕事』特選連載7(西水美恵子)

元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年。分野や立場を問わない様々な方たちから、「本気のリーダーシップ精神に火が付いた」という感想をいただいてきた本書から、10周年を機に特選した10のエピソードを順次公開いたします。
今回は、モルディブにおける海面上昇リスクと島の人々の対応を綴る「神様の美しい失敗」をお送りします。

(注)本文中の漢数字は、WEB掲載に際し読みやすさを考慮して算用数字に改めた部分があります。また、数値データはすべて執筆当初のままとなっています。


「むかしむかし、その昔、地球をおつくりになった神様が、海と空を塗り終えられて、いざ雲を描こうとなされたとき、筆先からぽとりと絵の具がたれてしまいました。群青の海に真っ白な輪となって広がる失敗をご覧になった神様は、その見事な美しさをたいそうお喜びになられて、筆を北から南へぴょんとお振りになりました。そうして描かれた26個の輪が、モルディブの始まりなのです」

その26個の輪のひとつ、環状珊瑚礁の片隅に、魚と海流が砂を寄せ、鳥と風が種を運び、大自然が長い歳月をかけてつくりあげた離島。人口1,000人足らずのその島の小学校で、飛行機から見たモルディブの姿を教えてとせがまれた。初めて見る国のこの世のものとは思えない美しさに、機中ふと浮かんだイメージがそのまま言葉になった。

モルディブ共和国は、インドの先端から南へ2,000キロほど伸びる海底山脈、チャゴス・ラカディヴ海嶺上に成長する一連の大環状珊瑚礁。それぞれ数多くの島に飾られる珊瑚礁の群れは、東西は最長130キロにも及び、北から南へ820キロにわたって赤道をまたぐ。古代からインド洋海路の要として地政学的な利を備えてきた。

大小合わせて1,190島のうち、人が住むのは地下水に恵まれた200島前後。その他100島近くの無人島がリゾート開発に提供され、鮪と鰹漁業を主体とする水産業とともに国の経済を潤している。陸地を足せばせいぜい佐渡島の3分の1ほどの国土だそうだが、モルディブの人々は、国土9万平方キロメートルの99%が海だと誇る。

その神様の美しい失敗が、人間の醜い失敗で消されるかもしれない。モルディブ諸島は、最も高い島でも海抜2.5メートルに満たない。地球温暖化で海面が上昇しはじめている今日、国家の水没が現実に近づきつつある。

狂人あつかいをされても、大げさなと一笑に付されても、この小さな国は海面上昇問題を国際世論に訴え続けてきた。温暖化現象を知る科学者さえ少なかった四半世紀も前から、地球にむけて半鐘を鳴らし続けてきた。

あの離島の子供たちには話せなかったけれど、空からモルディブを見た瞬間、その半鐘が胸に響いた。海面上昇問題を勉強してはいたが、現実問題として捉えていなかったことを恥じた。

画像3空から見たモルディブ諸島の環状珊瑚礁(写真提供:Getty Images)


モルディブでは、一カ所に長く滞在するホームステイよりも離島巡りを選んだ。全島は無理でも、人が住む島々はみな訪れようと、珊瑚礁から珊瑚礁への船旅をくり返した。環状珊瑚礁に守られた内海は穏やかだが、外は正反対。環礁間を加速しながら流れ抜く海流を貿易風が逆なでて、しけなくても高波の海峡が多い。船に弱い私には覚悟の旅だったが、海はいつも鏡のように静まり返ってくれて、不思議に一度の船酔いもなかった。ミエコのおまじないはよく効くと評判になり、訪問のたびに同伴者が増えた。皆、惚れ惚れするリーダーシップをもつ次官級官僚たちで、船旅は良い学習の場を与えてくれた。

どこへ行っても驚くほど行き届いた行政があった。医療施設と学校が、どんな離島でも立派だった。ピカピカに磨かれた病院の廊下や、ペンキ塗り立ての学校の壁に、新築かと聞いて笑われた。整備管理に手を抜かず「古いものを大切に使うのは船乗りの伝統だ」と、海の男たちが胸を張った。

モルディブ医師団に混じっていきいきと働くパキスタン人の若い医者が、高名なアガ・カーン大医学部卒と教わって驚いた。彼は、祖国の腐った政治を逃れてきたと苦笑した。

「金もうけのために医者になったのではない。この国に来て、やっと神職を選んだ甲斐があると思えるようになりました」

即席童話を喜んでくれた離島の小学校には、インドから来た女先生が二人いた。「とにかくやりがいがあります。離島だからではなく、この島のほうが教育程度が高いから」と口をそろえる。前はどこで教えていたのと聞いて絶句した。バンガロールの有名校で、インドで一、二を競う私立女子校だった。

島から島へと巡るたびに積み重なる似た体験に疑問が生まれた。政府は社会施設を全国数島に集中する計画を練っていた。人口の離島分散で高くつきすぎるというのがその理由。ある島のPTA会合で、こんなに良い教育施設が動いているのになぜと聞いてみた。

校長先生が、同行の計画副大臣をちらと見た。副大臣は、めずらしく赤くなって頭をかくばかり。気まずい沈黙を、母親の一人が朗らかな笑いで破ってくれた。

「大丈夫。島の人間は知っています。私たちの島が、いつかは海に帰ることを」

目から鱗が落ちた。

海に鍛えられた男衆は海面上昇などとうの昔から知っていたと、島の古老が教えてくれた。

「潮の満ち引きでな、海が膨らんでくるのがわかるのだよ」

彼らの留守に、家と島を守りぬいてきた強い女衆も知っていた。

「井戸の水がゆっくりゆっくり黒くなって、海が膨らんでいると知らせてくれるわ」

モルディブは最悪の温暖化シナリオが現実化したら、どの島が水没を避けうるかを把握していた。護岸堤でその3、4島を守り、そこにインフラを集中して、国民の移住を勧誘する戦略。すでに首都マレ島護岸建設が「高潮被害」を回避するという目的で、日本の無償資金協力を受け着々と進んでいた。

モルディブのなすことすべて、この戦略を軸に回っていた。蓄財なしに危機管理は不可能。驚くほど保守的なマクロ経済政策に執着する本音が、そこに見えた。異常なほど教育熱心な国が、頑固に大学をつくらないわけも読めた。充実しすぎると批判される官費海外留学制度も、国体持続戦略の一端なのだ。

国際人として世界各国で活躍するモルディブ人と、護岸堤にぐるりと囲まれた数島を守る母国の人々とで、グローバルなバーチャル国家をつくろうとしている。人類が居眠りしている間、自分のことは自分でと戦略を練り、計画は静かに船出していた。大洋に生きる民には、まるで宇宙の観点から遠くを見る目があると感じ入った。


モルディブが抱える水没リスクは、世界銀行のリスクでもある。幹部会議でそう言ったら、小国がひとつ消えても世銀はびくともしないと笑われたことがあった。たった29万人とはいえ、世銀の株主だと怒った。そのときの世界情勢を考えてもみろと叱った。

人口とインフラは沿岸地帯に集中しがちだから、水没はモルディブだけのリスクではない。温暖化現象は極端な気象変化をも生むそうだ。大洪水や砂漠化などで世界の水資源分布を変える。最悪の場合、人口の大移動さえ心配する科学者もいる。モルディブ水没のときは、世界各国の社会と経済と政治が混乱状態にあると想定すべきだろう。もしその時が来たら、世界中の株主たちにとって世銀の貸借対照表が受ける悪影響など微々たることと想像できる。

リスク管理の姿勢とは、最悪の事態とその確率を想定し、力があるうちに自分のことは自分で処理できるよう先取りすること。神様の美しい失敗、モルディブの国民は、そう教えてくれた。

世界の沿岸線が水没しはじめたとき、モルディブは大丈夫だと思う。星と風を読み、波と潮に通じ、遠回りが最短距離と悟る海の英知を授かった人々。相変わらず落ち着いて、水平線を見つめているだろう。100年先の宇宙の姿を。


※著者の意向により本書の印税はすべてブータンのタラヤナ財団に寄付され、貧しい家庭の児童の教育費等に役立てられます。タラヤナ財団とそれを設立したブータン王妃(当時)について西水さんが綴った「歩くタラヤナ」もぜひご覧ください。

著者紹介

新プロフィール写真(クレジット入)

西水美恵子(にしみず・みえこ)
米国ガルチャー大学を卒業(経済学専攻)。ジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程(経済学)を卒業。プリンストン大学経済学部(ウッドロー・ウイルソン・スクール兼任)助教授に就任。1980年、世界銀行経済開発研究所に入行。諸々のエコノミスト職や管理職を歴任。IBRD(世界銀行グループ・国際復興開発銀行)のリスク管理・金融政策局長などを務めた後、1997年、南アジア地域担当副総裁に就任。2003年、定年を待たずに退職。以来、世界を舞台に様々なアドバイザー活動を続ける。2007年よりシンクタンク・ソフィアバンクのパートナー。著書に『国をつくるという仕事』、『あなたの中のリーダーへ』、『私たちの国づくりへ』(いずれも英治出版)などがある。

連載紹介

連載紹介バナー

元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年。一国の王から貧村の農民まで、貧困のない世界を夢見る西水さんが世界で出会ってきたリーダーたちとのエピソードが綴られる本書は、分野や立場を問わない様々な方たちのリーダーシップ精神に火を付けてきました。10周年を機に、ぜひもう一度西水さんの言葉をみなさんに届けたい——。そんな思いから、本書の全36章より特選した10のエピソードを順次公開いたします。徹底的に草の根を歩き、苦境にあえぐ一人ひとりの声に耳を傾け、彼らの盾となって権力者たちと戦い続けた西水さんの23年間の歩みをご覧ください。

連載:いまもう一度、『国をつくるという仕事』を読む。
第1回:はじめに
第2回:カシミールの水【インド、パキスタン】
第3回:偶然【トルコ、バングラデシュ、スリランカ】
第4回:雷龍の国に学ぶ【ブータン】
第5回:売春婦「ナディア」の教え【バングラデシュ、インド】
第6回:改革という名の戦争【パキスタン】
第7回:神様の美しい失敗【モルディブ】
第8回:ヒ素中毒に怒る【バングラデシュ】(10/31 公開)
第9回:殺人魔【インド】
第10回:歩くタラヤナ【ブータン】
特別回:「本気」で動けば、何だって変えられる——著書『あなたの中のリーダーへ』、「はじめに」より

~西水さんとの対話会レポート~
竹内明日香:いつの時代も、世界の変化は「草の根」から
宮崎真理子:組織拡大期のリーダーのあり方に光が差した夜
三田愛:勝負の10年。夢物語への想いを本気にさせてくれた言葉
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