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カシミールの水――『国をつくるという仕事』特選連載2(西水美恵子)

元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年。分野や立場を問わない様々な方たちから、「本気のリーダーシップ精神に火が付いた」という感想をいただいてきた本書から、10周年を機に特選した10のエピソードを順次公開いたします。
今回は、インド・パキスタン間で領有権問題が起きるカシミール地方でのホームステイ経験を綴った「カシミールの水」をお送りします。

(注)本文中の漢数字は、WEB掲載に際し読みやすさを考慮して算用数字に改めた部分があります。


蛇口をひねるとカシミールを想う。このほとばしり出る飲み水を、できることならあそこまで引いてあげたい。あの村人たちはどんなに喜ぶことか。

カシミール問題はインドとパキスタンの未来を大きく左右する。だから両国での初めてのホームステイは、「管理線」(Line of Control)と呼ばれるカシミール停戦前線の両側でと希望した。インド側のほうが美しく豊かと聞いて、まずパキスタンから入ったのが1998年4月、インド核実験再開[1]の直前だった。一週間後、いざインドへと下山した途端、核実験が行われ、目的地は外国人立ち入り禁止となった。それでカシミールはパキスタン側しか知らない。平和なら、カシミールを横断し英国領インド北部の交易を繁栄させた、ラワルピンデイ街道を歩いて行ける距離だったのに、残念だった。


ホームステイで水の苦労を教わった。水は、カシミール問題にも絡んでいる。パキスタンを背骨のように縦断するインダス川は、チベット高原の分水嶺に起こり、まずインド領カシミールを北西方向に横断する。ヒマラヤ山脈と、K2で有名なカラコラム山脈の間を削りつつ、雪と氷河の融け水で膨れ上がり激流となる。パキスタン北方領土を南下するころにはすでに大河の顔を見せ、カラコラムの尾根が消えるイスラマバード辺りで滔々(とうとう)と平野に流れ出る。

インダス川はパキスタンの生命線。発電や飲料水の重要な源であるとともに、世界最大の潅漑システムを潤して、砂漠化した国土の農業も可能にした。まさにパキスタンはインドの水で生き延びてきたと言っても大げさではない。

英国領インドが印パに分かれて独立した直後、その命の絆の水利権が大問題となった。世界銀行が交渉仲介役を受け、両国政府が十年の歳月をかけて実らせたインダス河川流域協定(60年調印)はその後、印パ間の戦火さえも無事くぐり抜け、今日まで生き続けてきた。しかし、カシミール問題解決協議で水利権がトランプカードに変貌し、協定維持の均衡を崩す可能性が生まれる。協議の初期に、印パ両首脳の指導力の見せ場となるだろうと思った。

埃だらけのイスラマバードから入ったせいか、山の緑がいたく目にしみた。山深くどこまで行っても続く谷間から、川音の木霊(こだま)が響いてきた。だが、インダスとその支流はこの山に住む人々に水を恵まない。険しい山脈は日照時間を極端に縮めるから、人々は農作に適さない谷底を避ける。水の音は聞こえても、川などまるで見えない高所の村がほとんどだ。稀に日当たりの良い在所が谷底近くにもあるが、川はそのまた下、絶壁のどん底を奔流する。川面まで降りるのは不可能な地形なのだ。

やっとの思いでたどり着いた村も、谷底などのぞいたら目がくらみそうな段々畑の寒村だった。「貧しくて何もないけれど、どうぞ」と大歓迎してくれた村人たちは女子供に老人のみ。男衆は紛争に命を落としたか、でなければ兵隊か出稼ぎで留守。なのに、客人扱いはよして働き手が増えたと思ってください、と説得するのに時間がかかった。

山の日没は早い。焚火を囲んでの夕食で、腹いっぱいのご馳走は今晩だけと笑いかける村人たち。水のことだと、この先一週間「母」となる人が教えてくれた。貴重なガラスのコップにあふれるほど注いでもらい、まわし飲みする。唇はコップにつけないで、一気に喉に流し込む。慣れない手もとは狂い、胸元はずぶ濡れ。笑う村人は、我らの水を恐れずに飲んでくれたと喜んだ。

甘露だった。裏山に湧き出る泉の水で、安心して飲める水はそこだけだと母は言った。山を落ちいく小川の水に火を通せばいいとは知っているけれど、薪を集めるのは水汲みよりも大変だからと教えてくれた。村長格の老人は、パイプを引いて泉の水を村まで落とす計画を作ったが、政府には武器を買う金はあっても我らのための金はないらしいと言った。少しずつ皆で貯金をしているから、いつか必ず、という説明をうっとりと聞く村人の目は、まるで天国の夢を見ているようだった。

ホームステイを共にした部下たちと畑仕事や草刈りに明け暮れる毎日、母の姿は始終険しい裏山に消える。水汲みに、片道一時間の急斜面を黙々と往復しているのだ。まだ夜明け前、真っ暗な山に溶け込むように入り、日の出とともに帰ってくる。昼前には、高地の射るような太陽の直下、汗を流して往復する。そして日没前にもう一度、疲れた体に鞭打って登っていく。大きなアルミの水瓶を、一つは頭に載せ、もう一つは腰脇に抱え込んで昇り降りする重労働。見かねて手伝おうとしても、慣れない人には危険だと、がんとして許してくれない。じゃあ訓練してくださいと取り上げた水瓶は意外に重く、頭に載せたら背骨が潰れそうで、片手で抱える腕力もない。せっかくの水がこぼれてしまうと笑う母。やせ細った顔をしみじみ見て「アマ(お母さん)に後光がさしている」と言った。本当にそう見えた。

水道が引けたら毎日6時間が浮く。母は読み書きを習いたいと言う。水汲みは大変だけれど非識字の暗闇はもっと苦しい。はやくこの闇から出たい。夫も息子も戦争で亡くした今、身寄りはインド側の従兄弟のみ。一生会えなくても文通さえできたらと母は泣いた。

そもそもカシミール問題は大英帝国の醜い落とし子だ。英国はインド・パキスタン独立後も内政に関与し、まだ逆らう力のない両国の指導者を怒らせた。マウントバッテン英総督は独立後もインド総督として残り、驚くことに、インド内閣の緊急事態委員会と防衛委員会の議長までをも務めた。もっと驚くのは、独立国インドとパキスタンの軍最高司令官と指導者層が双方ともに英国の軍人だったという史実だ。47〜48年のカシミール戦争は世界史上唯一、英国という第三者の軍人が敵対する軍を指揮して戦った戦争なのである。

彼らは印パ首脳にそれぞれ忠誠を誓う身でありながら、英国政府から指示を受け、母国の国益を優先した。当時の英国は、脱植民地時代における英連邦の持続を重視し、連邦国間の戦争を避ける方針であった。ゆえにカシミール戦争は中途半端に終わったということらしい。勝ち負けはどうあれ戦争は嫌だが、インダス河川流域協定のように印パ指導者が自らの力で得た結末ではなかった。だから中途半端の生傷はいまだに膿み、母を泣かせ、南アジアの繁栄を抑え、世界の平和をも脅かす。大英帝国の最後は潔くなかった。


2005年春、「アマ」から人づてに伝言が入った。「もう水道は夢ではない。平和がくる。あなたが歩きたがった街道がよみがえる。4月7日、停戦ラインを越える定期バス[2]が運行を開始する。戦争で破壊された橋を直し、荒れた道を修理する突貫工事に、寝るのも惜しんで働く村人の喜びの歌声が、山間に日夜響いている」

インドのシン首相とパキスタンのムシャラフ大統領のリーダーシップだからこそ実現した、カシミール問題解決への第一歩だ。始発バスは両氏自ら送迎した。

4月中旬、大統領が印パ・クリケット試合観戦を口実にデリーを訪れた。再会を喜ぶ二人は、それが定期バスに乗る「アマ」の喜びには勝らぬと知る指導者だった。

[1]核実験:1998年5月にインドが地下核実験を実施。数日後にパキスタンが初の核実験を行った。
[2]定期バス:1947年の第一次印パ戦争以来初めてであり、04年に始まった印パ和平協議の最大の成果とも言われる。


※著者の意向により本書の印税はすべてブータンのタラヤナ財団に寄付され、貧しい家庭の児童の教育費等に役立てられます。タラヤナ財団とそれを設立したブータン王妃(当時)について西水さんが綴った「歩くタラヤナ」もぜひご覧ください。

著者紹介

新プロフィール写真(クレジット入)

西水美恵子(にしみず・みえこ)
米国ガルチャー大学を卒業(経済学専攻)。ジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程(経済学)を卒業。プリンストン大学経済学部(ウッドロー・ウイルソン・スクール兼任)助教授に就任。1980年、世界銀行経済開発研究所に入行。諸々のエコノミスト職や管理職を歴任。IBRD(世界銀行グループ・国際復興開発銀行)のリスク管理・金融政策局長などを務めた後、1997年、南アジア地域担当副総裁に就任。2003年、定年を待たずに退職。以来、世界を舞台に様々なアドバイザー活動を続ける。2007年よりシンクタンク・ソフィアバンクのパートナー。著書に『国をつくるという仕事』、『あなたの中のリーダーへ』、『私たちの国づくりへ』(いずれも英治出版)などがある。

連載紹介

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元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年。一国の王から貧村の農民まで、貧困のない世界を夢見る西水さんが世界で出会ってきたリーダーたちとのエピソードが綴られる本書は、分野や立場を問わない様々な方たちのリーダーシップ精神に火を付けてきました。10周年を機に、ぜひもう一度西水さんの言葉をみなさんに届けたい——。そんな思いから、本書の全36章より特選した10のエピソードを順次公開いたします。徹底的に草の根を歩き、苦境にあえぐ一人ひとりの声に耳を傾け、彼らの盾となって権力者たちと戦い続けた西水さんの23年間の歩みをご覧ください。

連載:いまもう一度、『国をつくるという仕事』を読む。
第1回:はじめに
第2回:カシミールの水【インド、パキスタン】
第3回:偶然【トルコ、バングラデシュ、スリランカ】
第4回:雷龍の国に学ぶ【ブータン】
第5回:売春婦「ナディア」の教え【バングラデシュ、インド】
第6回:改革という名の戦争【パキスタン】
第7回:神様の美しい失敗【モルディブ】
第8回:ヒ素中毒に怒る【バングラデシュ】
第9回:殺人魔【インド】
第10回:歩くタラヤナ【ブータン】
特別回:「本気」で動けば、何だって変えられる——著書『あなたの中のリーダーへ』、「はじめに」より

~西水さんとの対話会レポート~
竹内明日香:いつの時代も、世界の変化は「草の根」から
宮崎真理子:組織拡大期のリーダーのあり方に光が差した夜
三田愛:勝負の10年。夢物語への想いを本気にさせてくれた言葉
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