第4回記事2_アートボード_1_のコピー_7

「ネパールで生まれた僕は夢を持てない」(教来石小織)

途上国で移動映画館を展開するWorld Theater Projectの教来石さん。2019年3月、あるきっかけからネパールへと飛び立ちました。

「生まれ育った環境に関係なく、子どもたちが夢を持ち人生を切り拓ける世界をつくる」、そんなミッションを掲げてきた活動ですが、ネパールで直面したのは「生まれ育った環境がいかに大きいか」という厳しい現実でした。

ある面影を求めて——私がネパールに飛んだ理由

ネパール人の小さな女の子が可愛らしい声で「ハッピーホーリー」と言いながら、私の頬に赤い色粉を塗ってくれた。次の子は紫の色粉を。私も「ハッピーホーリー」と言いながら、子どもたちの柔らかな頬にピンクの色粉を塗り返す。女の子たちはニコリと笑う。

2019年3月20日。この日ネパールでは、春の訪れを祝うヒンドゥー教のお祭り「ホーリー」が行われていた。この日は身分など関係なく、赤や緑や黄色など、鮮やかな原色の色粉をお互いにかけ合う。

外国人観光客が集う首都カトマンズのタメル地区で、朝のうちは子どもたちと穏やかに楽しくハッピーホーリーしていた私だけれど、時間が経つごとに参加する大人たちが増えていき、「ハッピーホーリー!ウェェェイ!」と若者たちから顔や髪に色紛を次から次に塗りたくられ、肌寒い日なのに子どもから色水鉄砲を発射され、建物の上から降ってきた色水風船に直撃されたころにはすっかり心が折れていた。

そんな私の隣で色紛を持って大活躍しているのは、スラリとした手足を持つ小学生のルビーちゃんだ。ルビーちゃんのお母さんは露店商をやりながら、女手一つで彼女を育ててきた。

観光客に真っ先に近寄り、コミュニケーションを取りつつ顔に色紛を塗っていくルビーちゃん。運動靴で街を闊歩しながら、ビニール袋に水と色粉を入れて色水風船をせっせと生成している。

そんなルビーちゃんを父親のように見守りながら、彼女に言われるがままに色粉やら何やらをせっせと買ってあげているのは、ネパールに住む日本人、古屋祐輔さんだ。

190センチの高身長にラグビーで鍛えた大きな身体。黒縁眼鏡に後ろで一つに結わえた黒髪、背中には年季が入りくたびれたリュック。あだ名は「チョフ」。

子どもたちに色水をかけられてビショビショのチョフさんの全身からは、純粋な優しさがにじみ出ている。観光客に敬遠されがちな楽器売りのおじさんたちとも顔なじみのようで、ニコニコと触れ合いながらネパール語で丁寧に挨拶を交わしているチョフさん。

誰かが損するくらいなら自分が損した方がいいと思っているタイプの、おそらくとことん欲がない人だ。日本で順風満帆に過ごしていたチョフさんは、やりたいことを見つけた絶頂期に人生の辛酸を舐めることになった。そこから這い上がり、2年前からネパールに住んでいる。

安いチケットなので、日本からネパールまで乗り継ぎを入れて20時間。飛行機嫌いの私がネパールまで来た目的の一つはヒマラヤを見ることではなく、チョフさんに会うためだった。

正確に言うと、チョフさんが出会ったネパールの少年の面影に会うためだった。


彼はダンスの天才だった

10年前、チョフさんは初めてネパールを訪れた。当時1歳だったルビーちゃんに出会ったのと同時期に、チョフさんはネパールで、もう一人印象的な子どもに会っている。チョフさんがしばらくの間滞在し手伝っていた、元ストリートチルドレンたちが集まる孤児院にて。

ストリート出身のその少年はチョフさんによくなついた。サッカーがうまくて身体能力の高い少年は、ダンスも滅法うまかった。「すごいね、ダンサーになりなよ」とチョフさんが言うと、少年はこう言って笑ったそうだ。

「ネパールで生まれた僕には、夢を持つことはできないんだ」


夢を叶えられる環境にいない子に「夢夢」言うのは残酷なのではないですか?

いつだったか私のFacebookの投稿にそんなコメントがついた。友人からネパールの少年の話を聞いていた私にとって、その問いは活動を続けていく上での悩みの一つとなっていた。

そのことを英治出版オンラインで掲載予定だった記事にカタカタと書いていた。そのときに書いていた内容はなかなか楽観的だった。

夢を持てないと言ったというネパールの少年も、映画から生き抜く知恵を得て、たとえば観光客にダンスパフォーマンスをしてお金をもらって生計をたてたり、YouTubeで広告収入を得たりすることが可能になるのでは?

少年のエピソードについて確認するため、友人を通してチョフさんに確認を取ってもらったところ、返ってきたのは思わぬ返事だった。

その少年はちょうど1週間前に亡くなったのだという。それもマレーシアに出稼ぎに行っていたときに殺されたそうだ。

少年は「ディネス」という名前だった。

初めて彼の話を聞いた日から数年の間、どこかおとぎ話のように「ネパールの少年」とだけぼんやり認識していた少年が、突然名前を持ち実在していた人物像となって浮かび上がってきた。

ショックだった。何も知らぬまま浅い記事を書いていた自分が恥ずかしかった。

ネパールに行かなくてはと思った。半ば衝動的にスマホでネパール行きの飛行機のチケットを買っていた。


「僕はディネス。忘れないで」

カトマンズのレストランで、チョフさんはディネス君からもらった20ルピー札と5ルピー札(1ルピー=約1円)を見せてくれた。

10年の間、チョフさんが大切に保管していた2枚のお札。10年前、チョフさんが孤児院から帰る日に、ディネス君がこっそりチョフさんの鞄に忍ばせていたものだという。2枚のお札には、ディネス君からチョフさんへのメッセージが表裏にわたりいくつも綴られていた。

「僕はディネス。忘れないで」
「僕は君をずっと覚えているよ」
「僕はディネス。忘れないで」

たどたどしい英語。間違ったスペル。忘れないで、忘れないでと何度も書かれている。

ディネス君にとってチョフさんは初めてできた日本人の友だちで、仲良くなれたことが誇らしかったに違いない。まだFacebookなんかもないときで、次はいつ会えるのかもわからない。もしかしたらもう会えないかもしれない。チョフさんの心をつなぎとめておきたくて、一人でこっそりと、孤児院のテーブルの上かどこかで書いたのだろう。

初めてのネパール、ものを盗られるのではないかと心配ばかりしていたチョフさんは、この出来事から自身の心の貧しさに気づかされ、衝撃を受けたという。

ディネス君のその後を知っていて、お札に書かれたそのメッセージを見てしまったら、誰が泣かずにいられようか。これほど優しく高貴な25円を私は見たことがなかった。


ディネス君のFacebookに最後に投稿されていた写真も見せてもらった。マレーシアへ出稼ぎに出発する前にカトマンズの空港で撮った写真。口をギュッと結び、真面目な顔でカメラを見つめ、マリーゴールドの花輪を首にかけていたディネス君。どこか誇らし気で、どこか寂し気な顔だった。

ネパールでお祭りや別れのときに使われるマリーゴールドは、皮肉にも良い意味と悪い意味のいくつかの花言葉を合わせ持つ。

たとえば「変わらぬ愛情」、「勇者」。
それから「絶望」だ。


孤児院の子どもに夢を聞いてはいけない

ネパール滞在最終日の前日に、チョフさんはディネス君がいた施設と同じ組織が運営している孤児院に連れて行ってくれた。そこでは13人の男の子と、19人の女の子が生活している。

ソーシャルワーカーの男性を囲んでスマホでダンス動画を観ていた子どもたちがチョフさんに気づき、笑顔でこちらに寄ってきた。子どもたちはとても社交的で可愛くて、映画を観られると聞くと、何度も「カートゥン、カートゥン」と口にして、早く観たいと急かされた。

ここにいる子どもたちは、元はみんなストリートチルドレンだった。最初に話しかけてくれた華奢であどけない顔をした10歳の男の子は、ストリートで保護されたとき、栄養失調でシンナーに侵されていたという。病院で1か月入院して体調が回復してから孤児院に来たそうだ。

全員が揃ったところで部屋を暗くして映画を上映すると、一斉に画面に観入った。子どもたちにバレないように、そっと横顔を盗み見る。さっきまで騒いでいたのに、いまは静かで真剣だ。

ビデオカメラを持っていったけれど、子どもたちにインタビューはできなかった。「将来の夢はなんですか?」なんてことも聞けなかった。以前チョフさんがTwitterに綴ったこんな文章を読んでいたからだ。


孤児院の職員から「子どもたちに夢は聞かないであげて」と言われました。
夢を聞くことが現実を突きつけるし、なんなら子どもたちにとって夢の認識は、寝る時に見る夢と同じで空想上のもの。「叶わないものを指すことが夢」という認識もストリートからきた孤児院の子どもたちには多いんだそう。

...

ネパールに来てくれて、孤児院とかに来てくれる人も多いです。そして子どもたちの無邪気さや、素直さに感動してくれる人も多いです。もちろん、それで間違いはありません。でも孤児院を卒業した後、、また再び社会と共に生きていこうとする時、もっと大きな壁があるんです。

ネパールの現地で長く関わっていると、ディネスだけでなく、たくさんの子たちが孤児院の卒業後に路頭に迷っていることを知らされます。そんな子たちからの連絡は僕にも結構あります。

孤児院も野放しで卒業させてはいません。ちゃんと働けるまでのスキルを身につけさせたり家族と何度もミーティングを重ねて、孤児院から家に戻るようにしています。
それでも、それでも、、国の貧困のしわ寄せはどうしても貧しい人にふりかかってきます。

お金を稼ぐために海外で働きを求めるしかありません。
海外で働くことが悪いことではないのですが、海外で働くことの実際は、命と天秤にかけている場合が多い。
死と隣り合わせの危険な現場で働き、、、ネパールの現実は世界中から毎日、何名ものネパール人が遺体となって帰ってくるんです。

...

そんな危険なら海外なんて行かなきゃいいじゃん、とも言うこともできないんです。
ネパールの都市部以外の仕事は農家でしか生計がたてられない。農家だとしても天候不順や凶作に見舞われるとそれこそ命が危なくなってくる。
海外の仕事は危険だと、分かっていてもそれしか選べない現状なんです。


可愛くて無邪気な子どもたち。彼らのことを深く知らない私には、彼らのなかに希望と可能性しか見えなかったけれど、そうではないのだ。

将来の夢を聞くなんて残酷で空虚なことに思えた。


この孤児院では、将来の自立のために食事を自分たちでつくっている。子どもたちはその夜も美味しいダルバート(カレーとご飯とおかずがセットになったもの)をつくっていた。

雨が降ってきて、やむまで街に帰れそうになかった。その上停電。

子どもたちは慣れた様子で懐中電灯を持って部屋を照らしながら、私たちの分もダルバートを用意してくれた。

全員が席に着くと、子どもたちは食事前のお祈りを唱え始めた。

お祈りが終わったその瞬間に、部屋の電気がパッとついた。あがる歓声と笑い声。

あぁ、神はいる。神はいるのに。


私たちが変えるべきもの

長年現地で子どもたちの現実に触れてきたチョフさんから見て、「映画を届ける」「映画で夢の種まきを」と言っている私たちの活動はどう映ったのだろう。浅はかな活動に見えるだろうか。孤児院から帰る道すがら連載のテーマについて聞いてみた。

「映画で貧困は救えると思いますか?」

チョフさんは困っていた。

「えー、うーん、映画館に人が入るから、そこで商売ができるから……」

と的外れなことをぶつぶつ言っていた。特に答えは出なかった。


日本に帰ると桜が咲いていた。

ピンクの桜にチラホラと緑の芽が混じり始めたころ、

「前に聞かれていた、映画は貧困を救えるかについて、小織さんが日本に帰国されてから考えていました」

と、チョフさんがこんなメッセージをくださった。


ネパールに住んでいると、人々が貧困によって苦しむ現状を目の前で見ることがあります。その現状を変えようと思ったときに、「問題は途上国だけにあるのだろうか、引き起こしているのは先進国ではないのか?」と感じることも多いです。

たとえば先進国が経済発展のために安さを追求するあまり、労働力を安く抑えられる途上国の人を雇い、知識やスキルを与えるわけでもなく、その人の人生を考えるわけでもなく、まるで「もの」のように扱っていたり。それでは途上国でも生活が成り立たないとわかりながらも、安い賃金で労働を強いる。

変わらなければいけない世界は、途上国ではなくて、私たち先進国だと思うんです。どれだけ先進国は途上国からの恩恵を得て、いまの豊かな生活ができているかを知るべきであり、いまの世界の問題に対して「無関心」である状態から脱却するべきではないでしょうか?

これからは、途上国と先進国が別々で生き抜いていく時代ではないんです。お互いにできることで支え合っていくような世界になればいい。いままで途上国からもらい過ぎている恩恵を、先進国が少しずつでも返すことができれば、世界に良い循環が生まれると思うんです。

それを踏まえて、「映画で貧困は救えるか?」という質問に対して……

子どもたちが映画を観ることによって、知恵や勇気や夢が見つかることも、もちろんあると思います。人生のなかで過去を振り返ったときに、「あの映画によって人生が変わった」ということもあるでしょう。映画には人を動かす力があります。

ただ、僕が一番世界を変えると思うことは、先進国の人たちが「無関心」から脱却することです。

一緒にこの活動をしたいという仲間が増えたり、応援したいと思う人が増えたりして、その一人一人の心が合わさった動きによってこそ、世界を変えることができると思います。

そういった面からして、この活動が世界を変え、貧困を救うと断言しても私はいいと思います。

途上国というものは、先進国の大半の人からすると遥か彼方の遠い世界のように思われます。そういう場所の現状を伝えるメディアもありますが、もともと関心がある人しか振り向いてくれないことも多い。

でも、「映画」という誰しもが身近に感じる共通項によって、このプロジェクトを通じて途上国のことを知れる人たちもいるでしょう。その人たちの途上国に対する心が「無関心」から「関心」へ動くかもしれません。そうなってくれれば嬉しいです。


ネパールの現実を目の当たりしている誠実なチョフさんの言葉は心に響いた。

これまで私は、途上国の子どもたちの心を育むことだけを考えていた。私の国の人たちにではなく、彼らの国の人たちに影響を与えることばかりを考えていた。そして、届けた映画がいったい何を生み出しているのかばかりを考え、「子どもたちの笑顔」以外の結果がすぐには見えないことに落ち込んだりもしていた。

でもチョフさんの言葉で、新しい視野が芽生えた。

「私たち自身が変わること」

思い返せば、日本で開催するイベントでこんな声をもらったことがあった。

「映画が好きでこの活動のイベントに参加したのですが、カンボジアの状況を初めて知りました。私にできることから応援したいです」

こういう声を一つ一つ大切にすること。「映画」というテーマの活動だからこそ動かせる心を束ねていくこと。この活動を通じて出会う一人一人の力を集めていくこと。

チョフさんの言葉からそこに目を向けてみたとき、私の心のなかで何かが脈打ち始めた気がした。

夢を叶えられる環境にいない子に「夢夢」言うのは残酷なのではないですか?

子どもたちに夢を聞くことが残酷で空虚なものではなくするために、私たちにはまだまだできることがあるのではないかと、そんなことを思った。


※写真提供:古屋祐輔(チョフ)

連載紹介

映画で貧困は救えるか――「途上国×移動映画館」で感じた葛藤と可能性
途上国の子どもたち向けに移動映画館を展開する著者。これまで5万人以上に映画を届けてきた実績とは裏腹に、活動の存在意義を自問自答する日々。映画より、食糧やワクチンを届けるべきではないのか? 映画を届けたいのは自分のエゴではないのか? 本連載では、「映画で貧困は救えるか」をひとつの象徴的な問いとして、類を見ない活動をするNPO経営のなかで感じる様々な葛藤や可能性と真摯に向き合っていく。

第1回:夢だった活動が広がることで、新たに生まれる不安
第2回:ただ生きるためだけなら、映画なんて必要なかった
第3回:映画は世界を戦争から救えるか?
第4回:映画からもらった夢に乗って、いま私は生きている
第5回:スマホとYouTubeが普及しても、移動映画館を続ける理由
第6回:挑戦をやめたらそこで試合終了ですよ。(新年特別企画)
第7回:西日本豪雨に思う――NPO代表の私が無力を感じる瞬間と、支えにしている言葉。
特別回:【3つの動画で知る!】途上国で移動映画館を行うWorld Theater Projectの活動
第8回:映画で少数民族が抱える課題に挑む――代表の私には見えなかった新しい活動の可能性
第9回:オフ日記「いつでも歩けば映画に当たる」
第10回:「ネパールで生まれた僕は夢を持てない」
第11回:「生まれ育った環境」とは何か。——ネパールで考えた問いと、移動映画館の新しい可能性。
第12回:【最終回】映画で貧困は救えるか

著者紹介

教来石小織(きょうらいせき・さおり)
NPO法人 World Theater Project 代表。日本大学芸術学部映画学科卒業。2012年より途上国の子どもたちへの移動映画館活動を開始。カンボジアをはじめとした世界各国5万人以上の子どもたちに映画を届けてきた。俳優・斎藤工氏の呼びかけで製作した世界中どこででも上映できる権利フリーのクレイアニメ『映画の妖精 フィルとムー』(監督:秦俊子)は、世界各国の映画祭で高く評価され、「2018年度グッドデザイン賞」を受賞。日本武道館で行われた「みんなの夢AWARD5」優勝。第32回人間力大賞文部科学大臣賞受賞。著書に『ゆめの はいたつにん』(センジュ出版)。(noteアカウント:教来石小織

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