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なぜ結婚式の主賓スピーチはつまらないのか(竹内明日香)

国際舞台で奮闘する企業のプレゼンを長年支援し、1万5,000人以上の子どもたちに「話す力」を育む出前授業を届けてきたアルバ・エデュの竹内明日香さん。そんな竹内さんが面白さの大きな違いを感じるのが、結婚式などの場における「主賓スピーチ」と「友人挨拶」。いったいどんな要素が面白さを左右するのだろうか?

お祝いの席で「早くこのスピーチ終わらないかな」「乾杯の音頭が長過ぎてビールの泡が消えちゃうよ」と思うときがありますよね。それに比べて、結婚式などで総じて面白いのが友人挨拶。

この違いはどこにあるのか? 考えてみました。

主賓スピーチをつまらなくしている「束縛」

主賓スピーチ、校長先生の話、教会の説話...

申し訳ありませんが、これらは「つまらない話」の筆頭格として語られることが多いのではないでしょうか?

「結婚生活はお互いへの思いやりと忍耐が大切です」
「挨拶をきちんとしましょう。お友だちと仲良くしましょう。ルールを守りましょう」
「おのれのごとく汝の隣人を愛すべし」

…仰る通り。でも記憶に残ったなぁという話は残念ながら、過去を振り返っても一度もありません。

これらに比べて、例えば友人代表挨拶は、新郎や新婦を褒めたり落としたり、相対的に楽しいものが多いように思います。式前の数か月間、独身最後と称して犯した罪状を並べた報告書、共に旅行に行ったときの寝言の暴露など、仲良しならではスピーチは聞いていて飽きません。

最近身の回りでは、悲しいことに同世代の葬儀や送る会もぼちぼち出てきました。若くして亡くなった場合は特に、友人代表の送る言葉も切ないものになりがちです。ただ、そのなかでも先日亡くなった友人の場合は、

「故人は奥様も愛していたけれど、世のなかの女性全般を愛していましてね。飲み屋にきれいな女性がいると、『いやぁこの店、良い店だねぇ』と、ニヤリと大喜びだった」

という友人代表挨拶があり、すすり泣きのなかでもほっこりしました。

私自身、結婚式の友人挨拶は十数回ほどやる機会をもらいましたが、スマッシュヒットだったなぁというものもあれば、寒い空気が流れてしまった(二度と思い出したくない心の傷を負ってしまった…)という大失敗もありました。

今から思うと、成功したものは、明らかにその友人との関係が深く、その友人のことを話したくて仕方がないというときでした。それに対し、そこまでの仲ではない友人からも受けてしまった際には、一般的にこう言っておけば良いかなぁと無難路線を探ったり、少し格調高いことを言っておこうかと思ってしまっていたように思います。

上司などの話でつまらない場合が多いのは、「主賓たるものこうあるべき」「人のためになる話をしなくてはいけない」という正解を探る呪縛があるからではないかと思います。もっとひどいときには、なぜか自分の自慢話になったり、仕事の話が延々続いたりすることもありますが...

これまで私が出てきた結婚式で、後にも先にもこれ以上なく面白かった式の新郎に、なぜあの式が面白かったのか、なぜ友人たちのスピーチはあれほど秀逸だったのか、かれこれ20年あまりの歳月を経てインタビューを試みました。

総合商社に勤める彼からは、こんな話を聞くことができました。

世のなかにはモノを売っている人と、ヒトを売っている人がいる。商社の人間はモノを売っているように見えるけれど、実は「ヒト」、なかでも「自分自身」を売っている。その人が持つ経験、ネットワーク、知見、情報など、それらのなかで自分が面白いと思うものを絶えず言語化して人とコミュニケーションを図る。
海外との接点も多く、自分の常識が世界の常識ではないことを知っているから、偏った自慢もなく、相手を落としながら持ち上げて、自分も落とされながら褒められる。
それらの根底にあるのは「人が好き」という感覚。それを言葉にする努力をするんだ。普通なら「これどうなの?」と思うことでも好きになって、それを口に出して褒めてみることで相手とつながり、仕事が生まれていく…

おおお、まさに連載テーマである「好きの言語化」ではないか!と感嘆の声をあげたのでした。それが自然に楽しいスピーチを生む原点にもなっているということなのですね。

主賓も校長先生も、「自分」を主語にして話してみよう

一方で、「主賓」を務められるような方々は状況が違います。

仕事上、会社の経営陣にお会いする機会が多く、学校に出前授業で伺えば、ほぼ毎回校長室に通されて校長先生とお話しする機会をいただきます。何度かお目にかかるうちに、「実はお酒が大好きで、翌朝取引先で大粗相をしてしまった」「ドライブが好きで、若いころに児童の移動教室を先生方と明け方こっそり抜け出した」なんていうお宝話を伺ったりします。なんて人間味あふれるお話でしょう。

それがどうして壇上のスピーチになると急につまらなくなってしまうのか…

ある校長先生が裏話を教えてくださいました。校長先生の間には昔から伝わる「ネタ本」があって、多くの校長先生がお持ちとのこと(かなりのシェアらしいです)。季節にまつわる話から行事に関連する話まで、「こんなお話をすると良いよ」という小話例が載っているそう。「どうしてもそれに目を通してしまって、引っ張られるんですよ」、と。

そういえば「主賓スピーチ」に関してもたくさんの本が出ていますよね。

毎度同じ部下や子どもたちに対して説法しなくてはならない重圧は計り知れないものがありますので、そんな立場にない者が軽々に助言をするのは憚られます。ただこの立場の方たちは、その部下や子どもたちが大人になったときにどのようなスピーチをするのが良いのか、そのお手本を毎度見せているということも事実です。

聴き手である部下や学校の子どもたちが面白く感じ、また記憶に残る話は、その場での正解でもなく、格調高い話でもなく、自分より立場が上の人がどんな風に考えてどう生きているのかという本音のはず。

「朝礼での校長先生の話は苦痛なもの」
「〇〇部長の乾杯の発声はマンネリ」

最初からそんなレッテルを貼られないためには、ぜひ肩の力を抜いて、自分は何者か、何が好きなのかを思い出し、言語化してみること。そして日本語だとどうしても抜けてしまう主語である「自分」を意識して、「I think」や「I like」という意思や好みについてもお話されたら良いのになぁ、と思います。それだけで、話し手に耳を向けてもらうことができ、一人でも多くの人の心に残るスピーチになるのではないかと思うのです。


≪連載紹介≫

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連載:「好き」を言語化しよう(フォローはこちら
道徳の教科化が始まり、「忖度」が流行語となる時代。善悪の判断や他人への配慮が問われる一方で、飛び抜けた活躍をする人たちはみな、自分自身の「好き」を表明し、徹底的に追い求めている。社会を動かすのは、正しさ以上に「好き」を原動力にしている人たちではないだろうか。 この連載では、国際舞台で戦う日本企業の発信を長年支援し、4年間で延べ1万5,000人以上の子どもたちに「話す力」を育む出前授業を行ってきた著者が、自らの「好き」を言語化する力の可能性を、プレゼンやチームづくりなどの様々な場面における効用を示しながら探る。

インタビュー:「話す」ことに苦労した子どもが、子ども向けプレゼン教育のプロになった
第1回:なぜ「好き」を語る子どもが「正しい」を語りたがる大人になるのか
第2回:「聴き手のため」を考え抜いたプレゼンは本当に強いのか?
第3回:プレゼンもキャリアも特別なものにできる、「好きのかけざん」の力
第4回:日本の20代の好奇心はスウェーデンの60代並み!?
第5回:「不得意だけど好き」と「嫌いだけど得意」はどちらが強いのか
第6回:強いチームは「苦手」を克服させない
第7回:勢いのある企業が社員の「得意」よりも大事にしていること
第8回:なぜ結婚式での主賓スピーチはつまらないのか
第9回:人に刺さり、人が集まる「S字の自己紹介」
第10回:日本で起業家が少ない、見過ごされがちなもう一つの理由
最終回:「好き」を語る子どもであふれる未来は、私だけの夢ではなくなった
編集後記:「話す力」は本人だけの問題ではない。取り巻く環境をどう変えていくか

≪著者紹介≫

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竹内明日香(たけうち・あすか)
一般社団法人アルバ・エデュ代表理事。株式会社アルバ・パートナーズ代表取締役。
東京大学法学部卒業後、日本興業銀行(現みずほフィナンシャル・グループ)にて国際営業や審査等に従事。(株)アルバ・パートナーズを2009年に設立し、海外の投資家向けの金融情報提供や、日本企業向けのプレゼンテーション支援事業を展開。さらに、子どもたち・若者たちの話す力を伸ばすべく、2014年に(社)アルバ・エデュを設立、出前授業や教員研修、自治体向けカリキュラム策定などを精力的に行っている。2019年3月現在、延べ150校、15,000人に講座を実施。2014年、経済産業省の第6回キャリア教育アワード優秀賞受賞。2018年、日本財団ソーシャルイノベーター選出。日本証券アナリスト協会検定会員。

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