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母のこと。(占部まり)

しばらく間が空いてしまいました。

書こう書こうと思っていました。この連載を始めて1年が経ち、読んでくださった方への感謝の気持ち、これからの活動のことを書きたいと思っていました。でも、書けませんでした。

7月1日の朝、母が脳梗塞で倒れました。今年で90歳なので、体力はかなり落ちてきていましたが、頭はしっかりしていて、いろいろな面で支えてくれていた母でした。

私が買ってきた死にまつわる本の中から、何冊かを読んで感想を教えてくれることもありました。倒れる数日前には「色々読んでみたけれど、やっぱり最期はよくわからないわね」と言っていました。

今、母はかつての母ではありません。声をかけても、頷くことはほとんどできなくなってしまいました。口から食べることもできなくなり、胃ろうが入っています。

父の最期は、とても苦しそうでしたが、母はとても穏やかに過ごしているように見受けられます。それでも、死が母のもとに大きく近づいていることは間違いないことです。

母の思いを聞くことはかないません。何をするべきなのか、しないべきなのか、私の心も揺れ動きます。母の死をどこかで覚悟しながら、これまで日本メメント・モリ協会でいろいろな活動をしてきました。しかし、現実の話となると想像を大きく超えたことばかりでした。

1929年12月10日、茨城県の取手市生まれ。宇沢弘文というとてもユニークな経済学者の妻でしたが、父に勝るとも劣らない面白い人生を歩んできました。

自由学園を卒業後、成蹊大学政治学部の初めての女学生となります。卒業した後は、航空会社の地上勤務から、日本航空のフライトアテンダントとなり、初の国際線に搭乗。アメリカのフライト時にカリフォルニア州立大学バークレー校の政治学部長と交渉し、奨学金留学することに。

戦後間もなくのことですから、留学する日本人はごく僅か。そして留学生活を終えて、サンフランシスコの銀行で働いている時に父と知り合い結婚しました。

今年出版された、ジャーナリストの佐々木実さんによる『資本主義と闘った男』という父の評伝のゲラも丁寧に読み校正していました。完成した本を佐々木さんが自宅まで持ってきてくださり、それを読み終え、気になるところに付箋をつけていました。

倒れた母のベッドには鎌田實先生の『死を受けとめる練習』が開いて伏せてありました。読み進めようとした途中のように見えます。伏せられたページには鎌田實先生と菅原文太さんの交流の話が書かれていました。

菅原さんは父と同じ年に亡くなっています。その年の暮れに放送されたNHKの『耳をすませば』という番組では、菅原さんと父の人生が紹介されていました。

母は菅原さんのことを私に伝えたかったのかもしれません。
でも、今となっては確かめるすべはありません。

そこここに元気だったときの母の想いが隠れています。いろいろなかけらを見つけるたびに心が締め付けられるようです。

倒れる前日に、体調が悪いと訴えた母。脱水かと自宅で点滴をしましたが、あまり変化がありませんでした。急に饒舌になり、いろいろ昔話をしてくれました。

父との話や母の父の話。いろいろ語る中で、母が自身の母(私の祖母)を看取ったときのことを話してくれました。

脳梗塞で寝たきりとなっていた祖母を、母は自宅の離れで介護をしていました。

亡くなる前日、祖母は母にこう言ったそうです。

「浩ちゃん、今晩は手を握っていてくれない?」

3人の子どもの世話と、いろんな意味で手のかかる父。全てをひっくるめてのかなり多忙な時期を過ごしていました。次の日にまさか亡くなると思ってはいなかった母は、

「ごめんね。まだ子どもが小さくて手がかかるので今晩は無理なの」

と祖母に伝えました。

次の朝に祖母の様子を見に言った時には、亡くなっていました。

そのことをとても後悔しているという話をしてくれました。
あの時ついていてあげれば良かったと。

倒れる前夜、少し心配になって、私が母に

「今日、手を握っていてほしい気分なの?」

と聞くと、

「今はその時ではないみたい」

と答えてくれました。

「色々話をして、自分の中で記憶を繋いでいかないと、自分が自分でなくなってしまうような気がするの」

とも言っていました。

今思えば、脳梗塞を起こしていたようなのですが、その時にはわかりませんでした。

次の日には明らかな麻痺と言葉が出にくという症状があり、脳梗塞とはっきりわかるようになりました。

救急車を呼び、それを待つ間、私は子どもたちを母のもとに呼び、

「もう、今のおばあちゃんに会えることはないから、話してあげて」

と伝えました。

私は母を抱きしめ、

「いろいろごめんね。母の娘で幸せだったよ。今言わせてね」

と伝えました。もうだめだよ、助からない、と伝えるようで、はばかられましたが、今言っておかなければという気持ちが大きかったのです。

ちょっと戸惑うような表情でしたが、そうね、と頷いてくれたような気がしました。

救急車の中で、母が気になっていたことは必ず私が引き継ぐよ、という話もしました。いつものように「あなたにできるのかしらね?」「頑張らなくてもいいのよ」と言ってくれたような気がします。

救命救急の先生の治療のおかげで、命は取り留めました。

意思の疎通ができるとは言いがたい状況ですが、母はここにいます。生命体としては確実に生きています。他者から見れば尊厳があるないといった話になる、そんな状況なのかもしれません。ほぼ100%他者に委ねられ存続する生命です。それでもそこにいてくれる。その意味を深く感じています。

こういうとき、母はどうしたいか。
それを兄二人と対話を重ねながら考えていかなくてはなりません。

母の死を想う。大きな課題と向き合っています。メメント・モリの活動で想ってきた死とは、別の次元のような感じもします。でも、これまでの活動が糧となり、母との間で共通の想いを醸成する大きな力になっています。対話を繰り返すことの重要性をひしひしと感じています。

実際にその立場になって初めてわかる。よく言われることです。母との経験を得た私は、きっと、死を想うことへの向き合い方が変化していきます。

死を想い、対話する。これからも、活動を続けていきます。

占部まり
日本メメント・モリ協会 代表理事。東京慈恵会医科大学卒業。米国メイヨークリニックのポストドクトラル リサーチフェロー(1992~1994年)などを経て、現在は地域医療の充実を目指し内科医として勤務。宇沢弘文死去に伴い、2014年に宇沢国際学館・取締役に就任。2017年に日本メメント・モリ協会設立。2018年4月から英治出版オンラインで「死を想う」を連載中。

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連載「死を想う:その人らしい最期とは」
医療の発達に伴い、多くの人が天寿を全うする時代。誰もが前向きに人生の幕を下ろせるようになるには。「死を想う」をテーマに日本メメント・モリ協会を設立した著者が、その人らしい生き方と最後の時間を考える。

第1回 「死の文化」に疑問を感じたきっかけ
第2回 命の捉え方が変わった、2つの出会い
第3回 「よりよく生きる」とはどういうことか
第4回 「医療の本質」を教えてくれた二人の患者さんとの出会い
第5回 人生の最後に聴きたい音はなんですか?
第6回 私たちは「痛み」と向き合えているか
第7回 答えは与えられるものではなく、自分自身の中にある。
第8回 「在宅ひとり死」という生き方
第9回 死期を告げることに、どんな意味があるのだろうか?
第10回 「塩の芸術家」から死を想う
第11回 高瀬舟考
第12回 「対話」を選んだ医師たちの話
第13回 人はいつ死ぬのでしょうか?
第14回 『カランコエの花』を知っていますか?
第15回 キュアからケアへの時代に考えたい「その人らしい最期」
第16回 母のこと。

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