答えは与えられるものではなく、自分自身の中にある。(占部まり)
連載:死を想う――その人らしい最期とは
医療の発達に伴い、多くの人が天寿を全うする時代。誰もが前向きに人生の幕を下ろせるようになるには。「死を想う」をテーマに日本メメント・モリ協会を設立した著者が、その人らしい生き方と最後の時間を考える。
誰しも「死のものがたり」をもっている
私が主宰する日本メメント・モリ協会では、様々な分野の方にお越しいただき、「死を想う」場を提供しています。昨年の10月から計6回のフォーラムを開催しました。
会を立ち上げた時には、死が身近ではなくなったからこそ死と向き合う場が必要なのではないかと思っていました。ところが、この活動を続けていくと、実はいろいろな人がご自身の中に、いろいろな死の体験を持っていることに気がつきました。
それが辛い記憶である方もいれば、暖かな思い出となっている方もいます。でも共通しているのは、その経験一つ一つにものがたりがあるということ。誰かと同じ話を語る人はいません。人はそれぞれの人生を生きている。そういう、ごくごく当たり前だけど、つい忘れがちな大切なことを、協会の活動を通じて鮮烈に感じることができます。
あの時ああしておけばよかったという気持ちが語られることも当然あります。ご自身の後悔の念が伝わってきています。ただ、お話を聞いているとどうも、「それでよかったのですよ」という慰めの言葉を求めて話されているわけではない印象を受けます。
自分自身に問いかけて、自分の中で昇華していく。そのために他人に言葉にして伝える。そういう過程が必要なのではないかと感じることが多いのです。
「誰かに癒してもらうのではなく、自分で癒す力を引き出す」という音楽療法士の佐藤由美子さんの言葉を以前ご紹介しましたが、まさにそれに尽きます。
語りを生む「ガイド」としての医療者
他者に向けて自ら語ることで、生と死を意味づけ、自分自身を癒す。その重要性を痛感する一方で、私たち医療者が果たすべき本当の役割についても考えさせられます。
先日、英治出版オンラインのトークイベントで悠翔会(関東エリアで3000人以上の患者さんを支えている在宅医療ネットワーク)の佐々木淳さんと対談させていただいた際に、佐々木さんからとても印象的な言葉をいただきました。
「人生の最終段階において、医師は患者に寄り添うガイドである」
人生の最終段階では、様々なことを考え、決断しなくてはなりません。そんな時に医療者が果たすべきは、「答えを明示すること」ではなく、「その人自身が答えを見つける支援をすること」なのではないでしょうか。答えは与えられるものではなく、自分自身の中にある。
日本メメント・モリ協会のフォーラムなどで一般の方からお話をうかがうと、医療者としては、胸に突き刺さるようなお辛い経験をされている方もいます。例えば、医療従事者との意思疎通に問題があり、鎮痛剤がなかなか処方されなかったというお話もあります。実際、がん患者の3分の1の方が、痛みを主治医に伝えるのに躊躇することがあるそうです。
早期に緩和ケア医が関わることで、がん患者さんの生活の質が改善するということはずいぶん前から言われています。しかし実際には、腫瘍を治療する医療者と緩和ケア医の連携がうまくいっているとはなかなか言い難い状況です。
がんと診断された時に、患者さんは大きな転換を迫られることになります。いわば、今までの生活が終わってしまったような感情が芽生えるかもしれません。ところが、医療サイドからすると、そこから治療が始まるという気持ちが強くあります。そのような意識の違いが、緩和ケア医との連携を妨げているのかもしれません。
そして、こうした問題点の多くは、患者さんから医療関係者に語られることはほとんどありません。医療現場では、色々な思いを抱えながらも、「お世話になりました。ありがとうございます」と言って帰宅されるご家族がほとんどです。
その言葉が心の底からのものであるように、また医療者も最期の時をご一緒できてよかったと心から言えるようなそんな現場が一つでも多くなることを願っています。
そして私自身も微力ながら、みんなで話すことで生と死を意味づけられる場、死を想うことはよりよく生きることにつながると実感できる対話を、一つでも多く作っていきたいと思います。
占部まり(うらべ・まり)
日本メメント・モリ協会 代表理事。東京慈恵会医科大学卒業。米国メイヨークリニックのポストドクトラル リサーチフェロー(1992~1994年)などを経て、現在は地域医療の充実を目指し内科医として勤務。宇沢弘文死去に伴い、2014年に宇沢国際学館・取締役に就任。2017年に日本メメント・モリ協会設立。(noteアカウント:占部まり)