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『カランコエの花』を知っていますか?(占部まり)

「あなたを守る」
「おおらかな心」
「たくさんの小さな思い出」
「幸福を告げる」

こんな花言葉を持つ"カランコエ"にちなんだ映画が、いま静かなブームとなっています。

ある高校のクラスで、ある日唐突に「LGBTについて」の授業が行われた。しかし他のクラスではその授業は行われておらず、生徒たちに疑念が生じる。「うちのクラスにLGBTの人がいるんじゃないか?」生徒らの日常に波紋が広がっていき…思春期ならではの心の葛藤が、起こした行動とは…?
(映画「カランコエの花」公式サイトより)

この作品の監督、中川駿さんの前作は『尊く厳かな死』。その上映会を以前、私が運営する日本メメント・モリ協会で開催させていただきました。そのご縁もあって先日、新作『カランコエの花』を観ました。

「LGBT」と「死」から見えること

『尊く厳かな死』は、こういう映画でした。

ある日転倒して頭部を強打した母親。医師は植物状態で回復の見込みはないと診断します。さらに、母は延命措置を望まないという書面を残していました。

家族に突きつけられた選択肢は、人工呼吸器を止めるか、意識のないまま人工呼吸器をつけた状態で受け入れてくれる病院に転院するか。

兄、妹、兄の妻、遠くに住んでいる母の妹。映画ではそれぞれの想いが丁寧に描かれています。また、冷めた医者の言動や、家族間で葛藤する場面は、とてもリアリティがあります。

リビングウィルなどの書面が残されていても、家族の気持ちは揺れ動く。そのとき、医師として何ができるかを深く考えさせてくれた作品でした。

そして新作『カランコエの花』も、人間関係が丁寧に描写され、登場人物のそれぞれにどこか共感できるところがあります。それゆえに、観ているとそれぞれの感情と振る舞いが胸に突き刺さります。

本当に悪い人は、誰も出てこない。でも、善意や無邪気さから起こした行動が、他人の心を傷つけてしまう。そういう人間関係の難しさが、LGBTというセクシュアリティの問題を通じて浮き彫りになっていました。

この作品のテーマである「LGBT」と、私自身が日々向き合っている「死」は一見、遠いものに見えます。しかし映画を観終わった後、実は共通する課題があるのではないかと感じました。それは、時に“善意が人を追い詰める”ということです。

医療現場を取り巻く「善意」

例えば、急に病状が悪化したとき、身近でずっとその様子を見ていたご家族からみれば自然な流れとして、その死ですら受け入れられることはよくあります。

しかし、遠く離れた人にしてみれば、突然のことに思えて、医療が何かできるのではないかと考える。近くにいる人と、遠く離れた人では、その患者さんに対して「違うものがたり」を作っているのです。

遠方に住む息子が、病状が悪化した母を久しぶりに見舞って、びっくりし、穏やかに過ごしていたところを急に入院させたり転院させたりということは、実はよくある話です。

そばで一番丁寧に介護していた人のことを、「なんでこんなになるまで放っておいたのだ」と責めることも。

一番近くにいる人は、徐々に弱っていく様子や、医療がもう功を奏さない状況であることが理解できる。でも、遠くにいた人はそれがなかなか納得いきません。病気で弱っていく相手を本当に大事に思っているけれど、介護を任せてしまっていた後ろめたさがある。

そうした気持ちがたとえば、新たな医療情報の提供という行為につながります。この行為自体は善意によるもので、患者さんを思う気持ちの現れです。でも、その“善意が人を追い詰める”ことがあります。

がんの治療中にもそういうことはよく起きます。最近は、がんは告知することがほとんどなので、その情報が様々な形で広まっていき、自分の経験や人づての情報を患者さんに伝えることがあります。

それらは基本的に、患者さんを思っての行為です。しかし、それが患者さんの重荷になってしまうことがよくあります。ただでさえ決断しなければならないことが多い状況です。迷うことも多いでしょう。そんな時に情報が押し寄せられる。こうすれば治る、知人が効いた、抗がん剤はしないほうがいい……。

このような情報に心が揺れないはずはありません。しかも、それらの多くは、根拠がなかったり、その患者さんの状況にはそぐわないものです。

人に寄り添うということ

では、相手の助けになりたいという気持ちは、どこに向けたらいいのか。がんであれば、患者さんの状況は、患者さん本人と主治医が一番理解しているはず。周りの人たちができるのは、本人と主治医が決めたことをサポートすることではないかと私は思っています。

近しければ近しいほど、何かをしてあげたいという気持ちが湧いてくるのは当たり前の感情です。何かをしてあげたいと思った時に、それが、本当にその人のためなのか。そうではなくて、“その人に何かをしてあげている自分”に満足したいからなのではないか。そんなことを、いま一度考えてみてほしいのです。

親しい人の善意による助言であるとわかっていても、本人からするとそれが煩わしい。そして、煩わしく思ってしまう自分も責めてしまう。

闘病中は否が応でも死が身近で、自分というものに向き合わなくてはならない。そんな時に周りができるのは、聞きかじった情報を伝えるのではなく、その人に寄り添い、話を聴く。何かを頼まれたときには、快く引き受けるよと伝える。それが何より、患者さんを支えることになるのではないかと思うのです。

人は話をする時に、アドバイスを求めていないことがあります。自分自身の中にはもうすでに答えを持っていて、その確認のために人に話すこともあります。あるいは、答えのない問い、答えのいらないものを考えていることもあるでしょう。

言語化して伝えるプロセスを通して自分の感情に気づき、解決策が見つかることもあります。そのプロセスに寄り添うことが、周りにできる唯一のことなのかもしれません。

『カランコエの花』上映&感想会を開催します

大切な人に何かをしてあげたい。それは人として自然な感情です。しかし、その善意が相手を追い詰めてしまうこともある。では、どうすれば本当の意味で、人の力になれるのだろう? お互いにとって豊かな関係をどうやったら築けるだろう?

――そういったことを深く考えさせられた映画『カランコエの花』の上映&ワークショップ&ミニトークを英治出版で開催します。2019年1月19日(土)の14時からです。

この映画を一緒に観て、違和感や気づきを共有しながら、「人に寄り添うとはどういうことか」という問いを、みなさんといっしょに向き合えたらと思います。お話できることを楽しみにしています。

映画祭グランプリ6冠『カランコエの花』
上映&ワークショップ&ミニトーク
参加申し込みは、こちらから。

学校や企業で研修が行われ、メディアでも取り上げられることが増えた「LGBT」。当事者を主とした恋愛や状況を描いた映画は国内外で多く発表されている中、『カランコエの花』は、それを“取り巻く周囲の人々”にフォーカスし、彼らの過剰な配慮によって翻弄されていく当事者を描いた作品です。
そうした視点がリアルなメッセージとして感動を生み、国内映画祭でグランプリ6冠を含む計13冠を受賞。評判が口コミで広まり、上映期間の延長や地方上映がつぎつぎに決定。「#カランコエを止めるな」のハッシュタグも話題に。

著者紹介

占部まり
日本メメント・モリ協会 代表理事。東京慈恵会医科大学卒業。米国メイヨークリニックのポストドクトラル リサーチフェロー(1992~1994年)などを経て、現在は地域医療の充実を目指し内科医として勤務。宇沢弘文死去に伴い、2014年に宇沢国際学館・取締役に就任。2017年に日本メメント・モリ協会設立。2018年4月から英治出版オンラインで「死を想う」を連載中。

連載「死を想う――その人らしい最期とは」
医療の発達に伴い、多くの人が天寿を全うする時代。誰もが前向きに人生の幕を下ろせるようになるには。「死を想う」をテーマに日本メメント・モリ協会を設立した著者が、その人らしい生き方と最後の時間を考える。

第1回 「死の文化」に疑問を感じたきっかけ
第2回 命の捉え方が変わった、2つの出会い
第3回 「よりよく生きる」とはどういうことか
第4回 「医療の本質」を教えてくれた二人の患者さんとの出会い
第5回 人生の最後に聴きたい音はなんですか?
第6回 私たちは「痛み」と向き合えているか
第7回 答えは与えられるものではなく、自分自身の中にある。
第8回 「在宅ひとり死」という生き方
第9回 死期を告げることに、どんな意味があるのだろうか?
第10回 「塩の芸術家」から死を想う
第11回 高瀬舟考
第12回 「対話」を選んだ医師たちの話
第13回 人はいつ死ぬのでしょうか?
第14回 『カランコエの花』を知っていますか?