「在宅ひとり死」という生き方(占部まり)
連載:死を想う――その人らしい最期とは
医療の発達に伴い、多くの人が天寿を全うする時代。誰もが前向きに人生の幕を下ろせるようになるには。「死を想う」をテーマに日本メメント・モリ協会を設立した著者が、その人らしい生き方と最後の時間を考える。
「生まれ変わってもおひとりさま人生」を望む社会
人生の最終段階をご一緒していると、人は亡くなるタイミングを選べるのではないか、人はこの世を去る時を自分で決める力があるのではないか、と感じることがあります。
たとえば、遠方のご家族が到着するのを待っていたかのように息を引き取られた方がおられました。また、私がちょうど病棟についたタイミングで、看護師さんから「先生を今呼ぼうと思っていたのよ」と言われたこともあります。逆のことも度々ありました。ずっと付き添っていたご家族が、落ち着いているように見えるからと、ちょっと離れたときに亡くなられた方。
最近では、ご自宅で、おひとりで最期の時間を過ごされる方も増えてきました。今年の6月に株式会社鎌倉新書が40歳以上の独身男女に行ったアンケート調査によると、実に約5割の方が人生の最終段階を自宅で過ごしたいと回答しています。「生まれ変わってもおひとりさま人生」を望む男女も5割を上回っています。
こういった在宅でひとりで人生の最終段階を過ごして亡くなることを「孤独死」と言う人もいます。でも本当にそれは孤独なのでしょうか。24時間体制の訪問看護師がサポートし、介護士さんが適時入り、医師も定期的に訪問している。そして、住み慣れた自宅で最後の時を過ごす。そんな状況は豊かであるとさえ感じます。
都心では、ひとり暮らしは可能であるものの、自転車で行ける範囲のサポートを必要としている方がたくさんいます。そうした状況に対して、それぞれの人の自宅の居室を高齢者施設の個室と見立て、看護師や介護士が巡回するシステムを構築している介護グループもあります。
こうした仕組みが充実していけば、利用者は施設に入居する費用をそのまま自宅でのケアやサポートに使うことができ、かなり手厚いサービスを受けることができるでしょう。
住み慣れた場所で過ごすことは、生活の質を保持していくうえでも非常に重要です。たとえば、入院などで環境が変化して急激に認知症が進んだように見えることがあります。それは、ピアノを弾く、決まった手順で料理をするなど、一つひとつの動作をその人が無意識に行える「手続き記憶」を使えない環境にいるからにほかなりません。
核家族化が進むなか、在宅で、ひとりで最期の時間を豊かに過ごしていける環境を整えることは、これからいっそう重要になるのではないでしょうか。もちろんこれは選択肢の一つです。強制されるものでは決してありません。しかし、その選択の先にある時間が豊かであるために、一人ひとりが「死の文化」に向き合うことは、世代を超えて誰にとっても大切なことだと思うのです。
語りえないことを語れるために
在宅で、ひとりで最期の時間を過ごす生き方を「在宅ひとり死」と名付け、私たちに死の文化と向き合うきっかけを提供してくださっている上野千鶴子さんとともに、考え、語り合う時間をつくらせていただきました。9月4日(火)にトークイベントを開催します。
「在宅ひとり死」という言葉から、みなさんはどんな印象を受けるでしょうか。私は、「孤独死」という言葉から感じるネガティブさとは異なり、より中立な印象を受けました。ひとりの人生を楽しみ生活されていた方が、人生の最期もおひとりだった。その生き方に対して「孤独死」ではなく「在宅ひとり死」と形容するだけで、死の文化が変わる可能性を感じました。
医療の発達に伴い、多くの人が天寿を全うする時代。死は「闘うもの」から「受け入れるもの」へと変わりつつあります。しかし、最期の時間を自分が住みなれた場所で過ごしたいと望む人が、誰しもそう選択することができ、その時間が豊かになるには、まだまだ乗り越えなければならない壁があります。
内科医として地域医療に関わる身としては、人生の最終段階を迎える方が、「語りえないことを語れること」が、まず何より重要なのではないかと考えています。「語りえないこと」とは、たとえば「最期は、自宅でひとりで過ごしたい」という一言です。
しかし、上野千鶴子さんが書かれた『おひとりさまの最期』を読むと、日本人の多くが、家族や周りに迷惑をかけたくないからなかなか言い出せないそうなのです。ひとりで気楽に暮らしたいという気持ちを抱えながら、「何かがあったら困るから」といった周囲の言葉から、施設への入所を余儀なくされることがほとんど。周りを慮って声に出せない気持ちを汲み上げる必要があります。
死を想うことは、いかに生きるかを考えること
おひとり暮らしではなかったのですが、悪性腫瘍の末期の患者さんが私の病院に運ばれてきたことがありました。その方は、救急車で病院に搬送される時も、家にいたいと頑なに病院に行くことを拒んでおられました。
衰弱はしておられましたが、意識ははっきりしていました。病院に到着後も、採血などは一切拒否し、ご自宅に帰りたいと譲りません。最終的には、ご本人の強い意思表示があったので、いまの状況と今後の見込みをご家族と共有することで、そのままご自宅に帰り、残された時間を過ごすことができました。
「家は暖かいところだから帰りたいの。」
そうおっしゃった表情が忘れられません。
このようにはっきりと意思表示をできる方は、実際はかなり少ないと感じます。家族に迷惑をかけたくないからと、自分の希望を言うことを諦めてしまうのです。あるいは、認知症が進み、自宅では過ごすことが難しいと周りに判断され、半ばだまし討ちのように施設へと入所させられた方もいます。
本当にひとり暮らしができないのか。何か手立てはないものか。――そんなことを考えていた時に、悠翔会の佐々木淳先生が主催する在宅医療カレッジで、上野千鶴子さんの講演を聴く機会がありました。
その講演の前までは、福祉とケアの先進国であるオランダやスウェーデンならまだしも、日本で「在宅ひとり死」が許容され、誰もが選択できるようになるのは厳しいと思っていました。
しかし、様々なデータとストーリーに基づいた上野さんのお話をうかがい、問題はごくシンプルで、つまり、患者さん本人の生き方を尊重しサポートすることなのだと気づきました。そして、「在宅ひとり死」は夢物語ではないと考えを改めました。
では、「在宅ひとり死」を望む人のために、医療者としてどのような発信をしていくべきか。介護職の現場をどのように支えていくか。そして、なんとなくでも、ひとりがいいなと思った時に、周りにどのようなことを伝えておけば良いのか。トークイベントでは、そんなお話ができればと思っています。
「在宅ひとり死」を望む、望まないにかかわらず、「住み慣れた自宅で最期の時間をひとりで過ごすとしたら」と”死を想う“ことは、いかに生きるかを考えるきっかけになるに違いありません。9月4日(火)、みなさんと語り合えることを楽しみにしています。
上野千鶴子×占部まりトークイベント「在宅ひとり死を可能にするために」を開催します。
日本における女性学・ジェンダー研究のパイオニアである上野千鶴子さんと、本連載著者の占部まりさんの対談イベントを開催します。対談に加え、参加者のみなさんを交えて語り合う時間も設けています。少人数ならではの、登壇者との密なお話をお楽しみください。
また、イベント終了後はご希望者向けに懇親会も開催します。個別に登壇者とお話しできる機会ですので、ぜひイベントの学びや親交を深めていただけたらと思います。
占部まり(うらべ・まり)
日本メメント・モリ協会 代表理事。東京慈恵会医科大学卒業。米国メイヨークリニックのポストドクトラル リサーチフェロー(1992~1994年)などを経て、現在は地域医療の充実を目指し内科医として勤務。宇沢弘文死去に伴い、2014年に宇沢国際学館・取締役に就任。2017年に日本メメント・モリ協会設立。(noteアカウント:占部まり)