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人はいつ死ぬのでしょうか?(占部まり)

日本の法律には、「死亡」の明確な定義はありません。

医療の現場では、「死の三兆候」である自発呼吸の停止、心拍の停止、瞳孔の散大をもって死の宣告をしています。そして医師が死亡診断書に記入された死亡時刻が死の瞬間とされています。

しかし、生と死の境目は、実はかなり曖昧なのではないでしょうか。

古くは息が止まることが死を意味していましたが、医療の発展とともに、呼吸や心臓が止まっても治療できる病気が多くなっています。心臓手術で人工心肺を使用している時、患者さんの心臓は止まっていますが、だれも死んでいるとは思いません。

解剖学者の養老孟司さんは著書『死の壁』(新潮新書)でこう記しています。

生死の境目というのがどこかにきちんとあると思われているかもしれません。そして医者ならばそれがわかるはずだと思われているかも知れません。

しかし、この定義は非常に難しいのです。というのも、「生きている」という状態の定義が出来ないと、この境目も定義できません。嘘のように思われるかも知れませんが、その定義は実はきちんと出来ていない。

人は必ず死ぬとわかっていながら、死の瞬間を明確にできないというのは不思議なものです。

心臓が止まったときに亡くなったと感じる人もいれば、冷たくなった時に死を感じる人もいます。火葬されて骨になった時、お墓に埋葬した時に、その人の死を実感する人もいます。

あるいは、あまり近しくない人であれば、その死を知る瞬間までその人は生きていると認識されるわけでもあります。物理的に死んだとしても、それが伝わっていなければ、その人は死んでいないわけです。

さらには、亡くなった方の写真や位牌に話しかけるとき、あたかもその人がまだ生きているような感覚を持つこともあると思います。

死にゆく人が死の瞬間を決めるのではなく、周りにいる人がその人の死を決めている。

人はいつ死ぬのか? その答えとしてふさわしいのは、「死は社会的に決定される」という表現かもしれません。

生と死は、対極にあってそれぞれ独立したものと思いがちですが、実は、生と死は切れ目なく続いていて両者の境界はきわめて曖昧なもの。

そう考えると、死の瞬間から、死にゆく人の存在があたかも無になってしまうように感じる恐れが、少し和らぐのではないでしょうか。

占部まり(うらべ・まり)
日本メメント・モリ協会 代表理事。東京慈恵会医科大学卒業。米国メイヨークリニックのポストドクトラル リサーチフェロー(1992~1994年)などを経て、現在は地域医療の充実を目指し内科医として勤務。宇沢弘文死去に伴い、2014年に宇沢国際学館・取締役に就任。2017年に日本メメント・モリ協会設立。(noteアカウント:占部まり

連載:死を想う――その人らしい最期とは
第1回 「死の文化」に疑問を感じたきっかけ
第2回 命の捉え方が変わった、2つの出会い
第3回 「よりよく生きる」とはどういうことか
第4回 「医療の本質」を教えてくれた二人の患者さんとの出会い
第5回 人生の最後に聴きたい音はなんですか?
第6回 私たちは「痛み」と向き合えているか
第7回 答えは与えられるものではなく、自分自身の中にある。
第8回 「在宅ひとり死」という生き方
第9回 死期を告げることに、どんな意味があるのだろうか?
第10回 「塩の芸術家」から死を想う
第11回 高瀬舟考
第12回 「対話」を選んだ医師たちの話