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ヒトの脳の飽くなき欲望──『エネルギーをめぐる旅』本文一部公開(4)

火の利用から気候変動対策まで。エネルギーと人類の歴史をわかりやすく解説し、現代に生きる私たち皆にかかわる「エネルギー問題」の本質と未来への道筋を描いた『エネルギーをめぐる旅──文明の歴史と私たちの未来』(古舘恒介著、2021年8月発行)。出版以来大きな反響を呼んでいる本書の一部公開、連載第4回です。前回は、いくつもの古代文明が森林資源を消費することで発展し、そして衰退した歴史を見てきました。人類による森林破壊は一方で、新たな技術的飛躍へのきっかけをもたらします。しかし産業革命に至る歩みには、現代に通じる深刻な問題が見え隠れしていました。

19世紀まで続いた軍事と森林の密接な関係

それにしてもなぜ古代の文明社会は、自らの文明を滅ぼすほどの勢いで森林資源を消費したのでしょうか。それには国家権力を支える軍事力の強化に大量の木材が必要不可欠だったことが、少なからず影響していると考えられます。要するに森林資源の多寡が軍事力に直結していたのです。

森林資源と軍事力が深く結びつく、その接点は大きく二つあります。

第一の接点は、金属製武器の出現がもたらしました。金属を加工して作られた武器は鋭利で硬く、それまでの石や木を尖らせた武器と比べ殺傷力が格段に高いうえ、耐久性にも優れていました。こうした金属製の武器で武装した軍隊が、いざ戦争となれば優位に戦を進めたであろうことは容易に想像ができます。文明の光とともに戦争という闇を生んだ農耕社会では、金属製武器を生産する能力はそのままその社会の優位性を確立する軍事力となったことから、力をつけてきた社会ほど熱心に冶金に取り組み、結果として近隣の森林資源を激しく消耗させることになったのです。

当初、斧や武具の製作から始まった冶金を利用した軍事技術は、中世になると大砲という新たな武器を生み出します。このように金属の武器利用は留まるところを知らず、軍事力を森林資源が下支えする構図は、石炭を利用した新しい製鉄技術が確立する産業革命の時代まで続くことになりました。

森林資源と軍事力との第二の接点は、若干意外に思われるかもしれませんが軍用船の建造です。都市間の交流が進み海洋貿易が盛んになるにつれ、制海権を持ち、港と航海の安全を守ることが国家の隆盛に直結するようになりました。制海権を決定づけるものは海軍力ですが、それは船舶数と操船の技術が勝負を分ける世界です。

船舶数の多寡を決定づけるのは純粋に木材の供給能力であり、冶金が木炭や薪を大量に消費することと同様に、多くの軍用船の建造は森林資源の消耗をもたらしました。しかし、その消費の絶対量は、冶金での消費量と比べれば大した量ではありません。軍用船への木材利用が特別だったのは、木材の質の確保が極めて重要だった点にあります。

そもそも船舶建造のための木材には、レバノン杉に代表される直立した大木が適しています。その中でも特に軍用船が質のよい木材を必要としたのは、戦を優位に進めるための機動性、操船能力を高めるために、質の高い木材が必要不可欠だったからです。

古代から中世まで地中海で活躍した軍用船であるガレー船では、操船能力は漕ぎ手の人数に比例したため、多数の漕ぎ手が乗船できるように船を細長い形で大型化する必要がありました。紀元前480年のサラミスの海戦でアケメネス朝ペルシアを破るなど、ガレー船での活躍が目立つ古代ギリシアにおける主力軍船だった三段櫂船は、全長が約36メートル、幅は約6メートルほどの細長い船で、170名もの漕ぎ手が三段に配置されていました[1]。

古代ギリシアでは森林の伐採が進んで高木が少なくなっていたことから、ガレー船の建造に用いるための真っすぐで長い木材の調達には常に苦労していたようです。古代ギリシア世界で繰り広げられたペロポネソス戦争を克明に記録した歴史家トゥキュディデスの記述からは、海戦で勝利を収めるたびに、戦場に漂う敵味方の船の残骸を回収してまわっていたことが分かります[2]。

中世以降は複数のマストにいくつもの帆を掲げた帆船が主流となり、船の両舷には大砲が並ぶようになりました。船舶は大型化し、航海域も全世界へと広がっていきます。そこでは漕ぎ手の数に代わり帆柱の大きさが操船能力の鍵を握ることになりました。特にメインの帆柱はまっすぐな巨木である必要があったことから、巨木を調達する能力がそのままその国の海軍力と直結するようになったのです。

1588年に英仏海峡でスペインの無敵艦隊を破り、のちに七つの海を支配するに至ったイギリスは、海洋国家として海軍力の維持強化が国家的命題であり続けました。それは、帆柱となりうる直立した巨木の確保をめぐる戦いでもありました[3]。

資源枯渇の危機に現れた「新世界」

国家が隆盛に向かうに比例して、イギリスもまた、御多分に洩れず国内の森林資源を急速に消耗していきます。17世紀半ばまでには、海軍が必要とする帆柱の供給は、主にバルト海沿岸域からの輸入に頼るようになっていました。バルト海沿岸域からの輸入には狭い海峡をいくつも通らなければならず、海峡を封鎖されると、いとも簡単に供給が絶たれてしまいます。実際、当時イギリスと海洋覇権を競っていたオランダは、海峡を封鎖する動きをみせるようになりました。国家安全保障上のリスクです。これは、輸入する原油の約80パーセントが通過する中東のホルムズ海峡に、現代日本のエネルギー安全保障上のリスクがあることと同じ構造といってよいでしょう。

国家安全保障上大きな脆弱性を抱えることになったイギリスでしたが、そこに救世主が現れます。新世界、すなわちアメリカの大地です。入植を開始したアメリカ北東部のニューイングランド地方には、帆柱に最適なストローブマツの巨木の森が広範に存在していることが分かったのです。この森林資源を確保したことで、イギリス海軍はその軍事的優位を確立するに至ります。良質な巨木には海軍の予約が入り、イギリスの官有物であることを示すブロードアローの印がつけられました。

北アメリカ大陸の植民地支配の覇権をイギリスと争ったのはフランスです。フランスは隣接する入植地であるカナダのケベック地方から南下し、ニューイングランド地方の森林資源を狙ったものの、イギリスの守りは堅く、思うに任せませんでした。17世紀後半から18世紀にかけては、イギリスとフランスに戦争が起きるたびに、フランスの軍隊がニューイングランドの木を破壊してまわるということが繰り返されます。手斧で三度か四度叩くだけで、その木は帆柱としては使い物にならなくなったからです。いってみればゲリラ戦です。さらには地元のネイティブ・アメリカンに武器を供給して、イギリスの入植者を襲撃させもしました。それほどまでに巨木の存在は、国家の海軍力を左右したのです。

こうした事実は、いかに軍事力と質のよい森林資源の確保が密接に関係していたかの証左といえます。軍事力と森林資源の密接な関係は、産業革命により鉄材の普及が進み、鉄製の船が出現する19世紀半ばまで続くことになりました。

技術革新の原動力となった森林資源の枯渇

次なる光が差すことになる産業革命の時代まで、森がコツコツと蓄えてきた太陽エネルギーの貯蓄を食い潰し続けた人類ではありますが、古代から近世までの長いトンネルのように思えるこの時代も暗部ばかりではありませんでした。賢いヒトの脳は、危機から学ぶ能力も進化させていたからです。資源の目に見える減少が、技術革新への強い動機付けとなったのです。

人類が実用品の材料として、広く活用することを覚えた最初の金属は銅でした。銅鉱石は産出する地域には大きな偏りがなく、比較的広い地域で利用が可能であったうえ、より広範に産出した鉄と比べて冶金の技術的難易度が低かったことがその理由です。

紀元前1200年頃に銅鉱石の一大産地としてその名を馳せ、のちに銅の英語名Copperの語源ともなった地中海の東に位置するキプロス島では、銅製錬による森林資源の減少が深刻化していました。冶金の宿命です。世界初の工業都市ともいえる島の中心都市エンコミの住民をはじめ、その多くが製錬による銅鋳塊の輸出で生計を立てていたキプロス島民にとって、燃料の節約はもはや死活問題となっていました。そこで地元の冶金職人たちは、新しい技術を求めて知恵を絞ることになります。

こうして生まれた新しい手法に、浸出法と呼ばれる技法があります。浸出法とは、水や、酸性・アルカリ性の溶液に原鉱石を浸すことで、目的とする物質を溶かしだす手法です。キプロス島の冶金職人たちは、採掘した銅鉱石をいきなり窯炉で熱するのではなく、いったん野ざらしにすることで天然の湿気を使って鉱石に含まれる不純物を一部浸出させることができることに気がつきました。この発見によって不純物の除去に必要な製錬の回数を減らすことができ、結果として旧来の工程に要した燃料の3分の1にまで燃料の消費量を削減することができたのです[4]。これは資源の減少がきっかけとなって生み出された新しい技術で、いわば省エネ技術のはしりともいえるものです。

ただし誤解を恐れずにいえば、実は人類の文明が生み出した数多の技術は、エネルギーの視点からみればその多くが省エネ技術に分類されるものです。

情報通信技術を支えるマイクロプロセッサ技術を例に考えてみましょう。1971年に発売された第1世代のマイクロプロセッサであるインテル4004と第6世代のインテル・コアを比較すると、性能は3500倍、エネルギー効率は9万倍になっています。一方で、製造にかかるコストは6万分の1になりました[5]。

近年、飛躍的な革新を遂げている情報通信技術も、突き詰めていけばその多くは単位電力あたりの処理能力を向上させていく省エネ技術と、製造にかかるコスト、すなわち製造過程で投入される部材の量やエネルギー量を削減していく別のかたちの省エネ技術の蓄積の賜物だといえます。そうした積み重ねのひとつひとつが、人類の文明をここまで発展させてきたのです。

リサイクルをしていた古代キプロスの人々

森林資源枯渇の危機がもたらしたもうひとつの動きは、リサイクルの推進です。そもそも鉱石に含まれる金属の量は限られていることから、溶出された金属だけから成る金属製品をリサイクルすることは、断然エネルギー効率がよい活動になります。そのため青銅製品のリサイクルは、割と早い段階から始められていたようです。

キプロス島が栄えた時代には、リサイクルはより大規模に行われるようになっていました。トルコ南西部の地中海から引き揚げられた古代の沈没船からは、キプロス島産の銅鋳塊とともに多数の青銅製の道具が見つかっています。見つかった青銅器の多くは壊れていたり破片状になっていました。破片はいずれも他の破片とは型が合わなかったことから、これらは沈没によって壊れたのではなく、もともと壊れていたものを集めたものだと推定されました。この船はキプロス産の銅を運搬するとともに、壊れた青銅を集めて回るリサイクル船だったと考えられています[6]。

このように大々的にリサイクルが推し進められるようになっていった背景には、鉱石からの溶出と比べた場合の優位性だけでなく、青銅の金属としての特長からくる優位性の存在もありました。

人類が銅の利用に目覚めたことをきっかけに本格的な発展を始めた冶金技術のひとつに、金属の硬度を増すための技術があります。銅は柔らかい金属のため、硬さが求められる道具にはそのままでは活用できません。その解決のために、銅に添加物を加えることで硬度を増すという技術が磨かれていきました。

添加物には当初、銅鉱石に共に含まれていることが多かったヒ素が使われていましたが、ヒ素は毒性が強く取り扱いが容易ではありませんでした。やがて添加物に錫を使うことで、安全で硬度も加工性も高い理想的な金属が作り出せることが見出されます。こうして製法が確立したのが、人類史上初めて金属器に彩られた文明を形作ることになる青銅です。

青銅の特長は金属としての硬度が増すことだけではありませんでした。銅に錫を加えると、固体から液体へ変化する温度である融点が大きく下がるという特長があったのです。銅の融点が1085℃であるのに対し、錫の融点は232℃でしかないため、両者を共に加熱すると融点の低い錫の影響によって銅も800℃前後で熔けだすようになるのです。そのため青銅製品を溶かしてリサイクルすることは、銅鉱石から新しく銅を製錬することと比べて、より低い熱量での冶金が可能になるわけです。こうしたエネルギー効率面での優位性があったことから、青銅製品のリサイクルはそのための貿易船が就航するほどまでに、古代の社会に浸透していったと考えられています。

これまで見てきたように、浸出法という省エネ技術の開発とリサイクルの徹底により、積極的に省エネを推し進めたキプロス島の住民ではありましたが、残念ながらこうした取り組みをもってしてもキプロス島の森林減少を食い止めることはできませんでした。紀元前1200年頃に絶頂期を迎えたキプロス島の銅産業は、紀元前1050年には最後の窯を閉じることになります[7]。こうして銅製錬で栄えたキプロス島の繁栄は、採掘可能な銅鉱石を残したまま終わりを告げることになったのです。

製鉄技術の普及が森林破壊を世界に広げた

青銅器時代に続いて訪れたのは鉄器時代です。鉄は、銅よりも遥かに広範にかつ大量に産出しました。加えて、鉄には銅と比べた決定的な優位性がありました。炭素というありふれた元素を混ぜることで硬度を増して鋼を形成するため、錫という希少金属を必要とした銅よりも遥かに汎用性が高かったのです。

それではなぜ鉄器の時代の到来は、青銅器の時代に遅れることになったのでしょうか。それは、製鉄には大きく二つの技術的な課題があったからです。
まず第一に、鉄は液化する融点が1538℃と、銅よりも400℃以上も高いという問題がありました。この温度差をめぐる技術的な壁は極めて高く、近代になって反射炉や転炉が開発されるまで、人類は鉄を銅のように完全に熔かすことはできませんでした。

そのため初期の製鉄手法では、化学反応を利用する方法が取られています。鉄鉱石に含まれる酸化鉄に一酸化炭素を触れさせることで、酸素を二酸化炭素に変えて取り除き、鉄を得たのです。この方法を使えば、400℃から800℃という低い温度で反応が促進され、鉄の塊を取り出すことができました。

ただしこの方法では、鉄塊は柔らかくはなるものの餅のような状態に留まり、酸素が抜けた穴だらけの海綿状になってしまいます。また不純物も除去しきれないため、取り出した鉄の塊を熱い状態で打ち叩くことで、不純物をできるだけ絞り出して空洞を塞ぎ、鉄を成型していく作業が必要となりました。つまり、この方法では大量生産が難しかったのです。大量生産を実現するには、鉄を銅のように熔かす技術の開発がどうしても必要でした。

銅は錫と混ぜることで融点を下げることができるように、鉄は炭素と混ぜることで1200℃程度にまでは融点を下げることができます。当初実現が難しかった1200℃以上の高温環境を安定的に作り出す技術は、やがて窯炉にふいごで継続的に風を送る方法が生み出されたことで確立します。こうして鉄を大量生産するための道筋が開けたかに思われましたが、そこに立ちはだかったのが第二の技術的な課題です。

第二の技術的な課題とは、鉄の硬度を増す添加物として使われる炭素に係る課題です。炭素は燃料である木炭を燃やすことで自然に得られることから便利だった反面、添加する量の調整が難しくなるという問題がありました。

実際、窯炉にふいごで風を送り込む方法で作られた鉄と炭素の合金である銑鉄には、炭素が4パーセント以上含まれ、硬すぎて逆に脆く割れやすくなるという新たな問題が生じてしまいます。鋳物はともかく、刀具や農具に使う硬くて壊れにくい鋼を作るには、炭素含有量を2パーセント以下に抑える必要がありました。その解決のためには、銑鉄を高温環境下で空気と接触させ、銑鉄に含まれる炭素を酸素と反応させて飛ばす脱炭という作業が追加で必要になりました。

このように製鉄には銅製錬と比べ高い技術力と手間を要したことから、その本格的な普及は青銅から大きく遅れることになりました。しかし、一旦製鉄技術の普及が進むと、その資源量の豊富さ、産地の地域的な偏りの少なさから、金属文化が世界中に広く根付いていくことになります。

一方で、大量の木炭や薪を必要とした点は銅製錬となんら変わらなかったことから、製鉄技術の普及は森林資源に対する負荷を世界規模に広げ、世界中の森林資源の減少に拍車をかけることにもなりました。

人類はなぜ森林資源を食いつぶしてしまうのか

これまで見てきたとおり、文明の発展は太陽エネルギーを取り込んだ二つのエネルギー源によってけん引されてきました。人口増を支えた農耕による食料供給と、技術の発展を支えた森林資源の供給がそれです。

農耕による食料供給については、連作によって土地が痩せていったり、気候変動の影響を受けやすいという課題はあったものの、長い歴史を通じては安定的に余剰の食料を生みだすことにつながりました。結果としてエネルギー収支は概ねプラスで推移し、都市化の進行による疫病の流行や寒冷化による凶作によって中世には一時的な停滞が発生したものの、総じて世界の人口は増え続けることができました。結果として、第2次エネルギー革命と呼ぶにふさわしい非線形の変化を人類の歴史にもたらしたわけです。

一方で森林資源の供給については、森林の再生スピードを遥かに上回る消費が行われたため、エネルギー収支が常にマイナスとなる持続不可能な活動でした。冶金の技術は文明の発展を支えた高度な技術ではあるものの、エネルギーの視点から冷静に評価するならば、それは「火の利用」という第1次エネルギー革命の応用形に過ぎず、そこには革命といえるまでの革新性はありませんでした。人類が初めて火を利用したときと同じく、周囲に存在する草木を燃料として、火が解き放つ熱エネルギーをそのまま熱エネルギーとして活用していたに過ぎないからです。エネルギーの視点からみて進歩したといえるのは、極論すれば炉を作る技術を覚えて火の扱い方が上達し、火が解き放つ熱エネルギーをより効率的、効果的に使えるようになったということだけでしょう。

それではなぜ、本章ではエネルギー革命には当たらない森林資源喪失の歴史を丹念に辿ってきたのかと思われるかもしれません。それは、ひとつには森林資源枯渇への危機感が次のエネルギー革命を引き起こす原動力となったからですが、より重要なことは、人類文明の発展と森林資源の喪失の歴史を眺めることで、「エネルギー問題」の底流を流れる人類の思考様式が浮かび上がってくるのではないかと、私が考えているからです。

人類の活動による森林資源の喪失は、私たちが暮らす地球環境を確実に変えました。はげ山になってしまったレバノン山脈の峰々、地中海沿岸を彩るオリーブの林や、京都三山に広がるアカマツの林。そのいずれもが、森林資源という貴重な太陽エネルギー貯蔵庫を見境なく収奪してきた人類の活動によって、半永久的に変えられてしまった景色です。農耕生活を始めて文明を興して以降、私たち人類が地球環境に与えてきた影響は、ある意味では革命級のものです。地質学の世界では、その影響の大きさから「人新世」という新たな地質年代を制定する議論が進められているくらいです。

火を使うということは、要するに火の持つエネルギーを利用するということです。食料であれば、ひとりひとりが食べられる量にはおのずと限界が存在しますが、エネルギーの利用には限界というものがありません。それゆえに、より多くのエネルギーを希求するヒトの脳の思考に引きずられ、当時の人類が活用できた唯一のエネルギー源である森林資源に多大な負荷がかかってしまったのです。

もちろん人類は暗愚な存在ではありません。森林資源の喪失がもたらす土壌流出や洪水などの問題点も正しく認識しており、フンババに代表される抑制装置も作り出していました。それでもなお人類は、森林資源の減少に歯止めをかけることはできませんでした。際限のないヒトの脳の欲望を制御することは、まことに容易ではないのです。

こうした流れに歯止めがかかるようになるには、18世紀のイギリスにおいて、薪や木炭に頼らない新たな製鉄技術が開発されるのを待たねばなりませんでした。つまりは人類が得意とする技術革新による問題解決です。しかしながら技術革新による解決は、ヒトの脳の欲求をさらに解放させることを許したため、結局のところそれは、将来において気候変動問題へと連なる新たな問題を引き起こすきっかけになるものでした。

(つづく)

[著者]
古舘 恒介(ふるたち・こうすけ)
1994年3月慶應義塾大学理工学部応用化学科卒。同年4月日本石油(当時)に入社。リテール販売から石油探鉱まで、石油事業の上流から下流まで広範な事業に従事。エネルギー業界に職を得たことで、エネルギーと人類社会の関係に興味を持つようになる。以来サラリーマン生活を続けながら、なぜ人類はエネルギーを大量に消費するのか、そもそもエネルギーとは何なのかについて考えることをライフワークとしてきた。本書はこれまでの思索の集大成となるもの。趣味は、読書、料理(ただし大味でレパートリーも少ない)、そしてランニング。現在は、JX石油開発(株)で技術管理部長を務める。訳書に『パワー・ハングリー──現実を直視してエネルギー問題を考える』(ロバート・ブライス著、英治出版、2011年)がある。

〈注〉
[1] アティリオ・クカーリ、エンツォ・アンジェルッチ(1985)『船の歴史事典』原書房P.30-31
[2] トゥキュディデス(2000)『歴史1』京都大学学術出版会P.53-54
[3] ジョン・バーリン(1994)『森と文明』昌文社P.324-357
[4] 同上P.71-72
[5] トーマス・フリードマン(2018)『遅刻してくれてありがとう 常識が通じない時代の生き方(上)』日本経済新聞出版社P.68
[6] ランドール・ササキ(2010)『沈没船が教える世界史』メディアファクトリー新書P18-23,106-107
[7] ジョン・バーリン(1994)『森と文明』昌文社P.72

※この記事は『エネルギーをめぐる旅』第1部の第3章「森林のエネルギー」の一部をまとめたものです。掲載にあたり本文中の漢数字を算用数字にする、改行を追加する等の変更を行っています。