文明を支え、文明に壊されたもの──『エネルギーをめぐる旅』本文一部公開(3)
レバノン杉の森
ある初夏の週末。レバノンの首都ベイルートを早朝に出発し、北へと向かう大きめのワゴン車に私は揺られていました。
車窓の左手には地中海が広がっています。碧く光る海にはエメラルドグリーンに輝く帯が現れては消え、眺めていて飽きることがありません。一方の右手には、石灰岩の白い岩肌にオリーブや松の木がへばりつくように群生する崖線が続きます。土地は痩せぎみで、率直に言って単調な景色だといっていいでしょう。
目は自然と左手の美しい海に向かいがちになりますが、この旅の目的は山の斜面のほうにありました。私はどこまでも続く石灰岩の斜面を眺めながら、山肌にいずれ現れるであろう変化を想像し、期待に胸を躍らせていました。
車はやがて地中海に別れを告げ、レバノン山脈の中へ中へと分け入っていきます。切り立った峡谷を見下ろすように切り開かれたカーブの激しい山道を進むとぐんぐんと標高があがり、ブシャーレという山中の小さな町に着いた時には1450メートルの高さにまで登ってきていました。ベイルートを出発して2時間が過ぎようとしていたころです。
キリスト教の教会や修道院が立ち並ぶここブシャーレの町の景色には、明らかな特徴がありました。町周辺の山の斜面には段々畑が切り開かれ、整然とリンゴの木が植えられているのに対し、町全体を取り囲むようにそびえるレバノン山脈の峰々は、いずれも見事なまでのはげ山になっているのです。木が育たなくなる森林限界は標高3000メートルとされ、それはレバノン山脈の最高地点と同じ高さですので、ブシャーレの町から望むことができる2000メートル台の峰々に一切木が生えていないというのは不思議な光景だといえます。
ブシャーレの町で小休止した車は、再び山の斜面を猛烈な勢いで駆け上がっていきます。標高が1700メートルを超えた辺りで景色が一変し、そこから先は崩れた石灰岩の合間から草がところどころに生えるだけの荒涼とした世界へと変貌しました。ブシャーレの町から見えたはげ山のエリアに入ったのです。それから5分ほどで、突如、巨木が立ち並ぶ森が眼前に立ち現れ、私はこの旅の目的とする場所に着いたことを知りました。
この地は、かつてこの地一体の山々を広く覆っていたレバノン杉の森の名残がみられる貴重な場所となっています。レバノン杉は、レバノンをはじめ中近東域の高地山岳地帯にかつて広く自生したマツ科の樹木で、成木になると大きなもので高さ約40メートル、幹回りは10メートルほどにもなります。樹齢も長いものでは1000年を優に超えるようになります[1]。
レバノン杉は真っすぐに太く長いだけでなく、その材質は硬く腐りにくいため、船の建材としてこれ以上ない代物でした。また、なんとも芳しい香りを放つため、古代イスラエルのソロモン王が作ったソロモン神殿をはじめ、各地の神殿や宮殿の内装材としても重宝しました。死後の世界を大切にした古代エジプトでは、王の棺桶にも使われています。このように最高品質の木材を供給したレバノン杉は、古代から続く乱伐によって現在までにそのほぼすべてが失われ、かつて杉が自生していたレバノン山脈上層部は、いまや見渡す限りのはげ山になってしまったのです。
はげ山の一角にわずかに残った、森というより林に近いレバノン杉の群生地を散策すると、森の匂いと土の柔らかさに心が和らぎました。特別に太く樹齢は1000年を超えているであろうレバノン杉の巨木に近づいて、その幹に触れてみます。生命の躍動を感じる瞬間です。私は真っすぐに起立した杉の木の真下から、木漏れ日の向こうに見える青い空をゆっくりと見上げ、かつてフンババが住んだ豊かな森を想像しました[2]。
「ギルガメシュ叙事詩」のフンババの物語
フンババの物語。それは人類最古の物語として有名な「ギルガメシュ叙事詩」のなかにあります。この物語は古代の英雄物語であると同時に、人類による自然破壊についての世界最古の文献記録でもあります。
「ギルガメシュ叙事詩」の主人公ギルガメシュ王は、紀元前2600年頃の南部メソポタミアで栄えたシュメール文明を代表する都市国家のひとつであるウルクに実在した王でした。彼は立派な都市を建設することで不朽の名声を得たいと望み、盟友エンキドゥと共に森に分け入って大量のレバノン杉を伐採することを決意します。その森には半神半獣の神フンババがいて、シュメールの最高神であるエンリルからの命令により森を守っていました。
文明の象徴ともいえる金属製の斧を携えてレバノン杉の森に分け入ったギルガメシュ王とエンキドゥは、当初、森のあまりの美しさに心を打たれますが、やがて気を取り直してレバノン杉の伐採を始めます。木の伐採の音で目覚めたフンババは侵略者をみて怒り狂い、口から炎を吐きながらギルガメシュ王に襲い掛かりました。激しい闘いののちフンババは敗れ、その頭を打ち落とされてしまいます。こうして守り神を失ったレバノン杉の森は、すべて切り倒されてしまったのです。
これに怒ったのが最高神エンリルです。「大地を炎に変え、食物を火で焼き尽くす」と、エンリルは自然によるしっぺ返しを予告します。そしてその言葉のとおり、天空神アヌによって7年間の飢餓が引き起こされたのです。
作者の祈り
レバノン山脈をはじめ、メソポタミアの沖積平野(河川による堆積作用により形成された平野)を取り巻く丘陵山岳地帯は、かつてレバノン杉によって広く覆われていました。しかし、現在その面影はほとんど残されていません。文明を育んだチグリス・ユーフラテス河が流れるイラクの大地は砂漠化が進み、レバノン山脈のほとんどは石灰岩が露出するはげ山になってしまいました。古代メソポタミア文明の時代に始まり、その後の古代ギリシアや古代ローマの時代に至るまで、近隣の森はどんどん伐採され、表土がすべて流出してしまったからです。
現在、レバノン杉の森はレバノン国内にわずか4、5か所が残るのみとなっており、なかでも保存状態のよいブシャーレ近郊のレバノン杉の森は、世界遺産に指定されています。
「ギルガメシュ叙事詩」。果たしてそれはギルガメシュ王の活躍を称える単なる英雄譚なのでしょうか。フンババの物語が描かれた背景とは何だったのでしょうか。そこには森林破壊を続ける人類への警告の意図があったのではないでしょうか。
「ギルガメシュ叙事詩」のフンババの物語が明らかにしていること、それは物語を書いた人たちは、森林の破壊が洪水の頻発や土地の砂漠化などの自然災害をもたらすことを知っていたということです。「ギルガメシュ叙事詩」が書かれる何千年も前からメソポタミア周辺の森は次々と伐採されていて、周辺地域において徐々に砂漠化が進行していました。「ギルガメシュ叙事詩」を書いた人たちは、森林破壊の恐ろしさを経験として知っていたのです。
彼らはまた、文明社会がいったん森に分け入れば、森は人類によって破壊され続けていくことも経験から知っていました。いったん動き出した人類社会の欲望は止められないものなのです。それゆえに最高神エンリルは、フンババに森を守らせる必要があったのです。
しかしながら、レバノン山脈上層部の大半を覆う石灰岩むき出しの山肌が示していること、それは作者の祈りが顧みられることはなかったという事実です。フンババは確かに死んだのです。
小一時間の散策を終えた帰り際に、群生地を取り囲む岩肌が露出した斜面にも足を延ばして、少しだけ登ってみました。足元では石ころが崩れ、そのたびに白い砂が舞います。そのとき一陣の風が吹き抜けていきました。その風の音は、フンババが嘆き悲しむ声のようにも聞こえました。
* * *
文明の技術的発展を支えたのは森林だった
人類が築いた文明社会は、大抵、大規模な森林の伐採を伴いました。建築物や船舶用の建材としてや、陶器や煉瓦を焼いたり、金属を溶出させるための窯炉でつかう燃料として用いるためです。森林の成長を育むものは、太陽エネルギーです。エネルギーの視点からみれば森林資源の利用もまた、農耕に次ぐ新手の土地に降り注ぐ太陽エネルギーの人類による占有ということになります。
森林資源の難しいところは、一年草が中心で毎年収穫をもたらしてくれる穀物と異なり、樹木の成長には相対的に長い年月が必要となることです。建材の代表格である杉の木の場合、建材として利用できる大きさに育つまでにおおよそ40~50年かかります。ヒノキの場合は、おおよそ50~60年です。つまり杉やヒノキの成木一本一本には、その土地に注がれてきた40~60年分の太陽エネルギーが大切に保存されているということを意味します。
よって、樹齢50年の杉やヒノキを伐採し利用することは、同じ面積で一年草の穀物を収穫することの50倍のエネルギーを消費することと同義になります。大変なエネルギー消費量です。樹齢100年を超えるような巨木ともなれば、保存されているみなしの太陽エネルギー量はさらに多くなります。エネルギーの視点からみれば、樹木とは、太陽エネルギーの大型貯蔵庫なのです。
文明化した社会は、この貴重なエネルギー源である森林資源を湯水のごとく使うことで成り立っていました。文明社会における技術の進歩は、森林資源の伐採によるエネルギー供給によって支えられていたといって過言ではありません。
まずもって文明社会の象徴ともいえる冶金の技術は、炉を高温に保つ必要から常に大量の木炭を必要としました。木炭は木材を窯で蒸し焼きにして炭化させたもので、木炭を作るにも薪を燃やす必要がありました。建築資材の分野では、煉瓦を焼くことでそれまでの日干し煉瓦の弱点であった雨への弱さを克服した焼成煉瓦が発明され、さらには石膏を火に通すことでセメントとなる焼き石膏が開発されます。こうした資材の生産にも木炭や薪は消費されることになりました。
一方で建築技術もまた進歩し、施政者の宮殿を中心に大型の建築物が建てられるようになったことから、それを支える木材の供給も盛んになりました。実際、ギルガメシュ王がフンババの住む森に分け入ったのは、木を切って立派な都市を作ることで不朽の名声を得たいと望んだことが理由でした。
さらに都市間の貿易を支えた船舶についても、貿易の発展に応じて大型化を実現する方向に技術が進歩します。木材の中でも特に真っすぐにそそり立つ巨木に対する需要は大きく、樹齢の長いレバノン杉からどんどん切り倒されることになったため、それがまた森林の再生を難しいものにしました。
ヒトの脳はフンババを生み出し、それを葬った
古代メソポタミアでは、まずチグリス・ユーフラテス河下流域でシュメール都市文明が勃興しましたが、その後徐々に文明の中心は上流域に移動していきます。文明地周辺では、過剰な森林資源の伐採により森林が喪失して塩気を含んだ土砂が次々と流出し、それらが同じく森林の伐採によって頻繁に発生するようになった洪水によって広く下流域に堆積していきました。このため農地の塩害が悪化し砂漠化が進行したことが、都市文明の中心地が下流域から上流域へ移動していった原因だと考えられています。
当時の農業記録を見ると、南部の主要農業地帯であったギルスの大麦の収穫量は紀元前2400年頃には一ヘクタールあたり平均2537リットルを記録し、驚くことに現在のアメリカと変わらない規模の収穫量を誇っていました。しかしその300年後には、収穫量がその40パーセントにまで落ちてしまいます。古代メソポタミア文明が直面した土砂の流出による塩害は、時間が経つにつれて悪化していき、徐々に取り返しがつかないものになっていったのです[3]。
このような明らかな環境の変化に古代メソポタミアの人たちが気づかないはずがありません。彼らは森林資源の伐採と砂漠化の因果関係にある時点で気がつき、その保護の必要性は認識していました。そうした問題意識が、フンババを生み出したに違いありません。
しかしながら、彼らは伐採への欲望を抑えることができませんでした。これが、常により多くのエネルギーを希求するヒトの脳の恐ろしさです。結果として、自らの行動に歯止めをかけるために考え出されたはずのフンババは、いみじくも文明の利器の象徴的存在である金属製の斧によって葬りさられることになったのです。
繰り返される過ち──文明衰退をもたらしたもの
フンババが葬りさられてから約900年ののち、紀元前1700年代のメソポタミアの地には「目には目を」のハンムラビ法典で有名なハンムラビ王が登場します。ハンムラビ王は都市国家バビロンの王で、バビロンの街はギルガメシュ王が治めたウルクの街から約200キロメートル上流にありました。
この時代、メソポタミアにおける森林資源の枯渇はさらに深刻化していました。ハンムラビ王は法典を整備した王様らしく、フンババの物語のような神話には頼ることなく、より直接的な命令を下しています。国家が管理する土地において「一本の枝でも傷つけようものなら、その罪を犯したものを我々は決して生かしてはおかぬ」と述べたというのです。このころには必要とする量の木材を確保するため、遥か地中海のクレタ島からも木材を調達するようになっていました。
クレタ島は豊富な森林資源を背景に、木材の輸出だけでなく青銅器や陶器の製造拠点ともなり、大変な繁栄をみせるようになります。これをミノア文明といいます。中心都市であるクノッソスには立派な宮殿が建ち、そこでは巨木がふんだんに使われていました。しかし、森林資源に依存した社会は長続きしません。紀元前1500年頃までには粗方の森林資源を使い果たし、紀元前1400年頃に滅亡してしまいます。
ミノア文明を継いだのは、ギリシア本土ペロポネソス半島東部にあるミケーネを中心として栄えたミケーネ文明です。トロイの遺跡を発見したことで有名なハインリヒ・シュリーマンによって遺跡が発掘されたミケーネもまた、豊富な森林資源を背景に興隆し、資源の枯渇とともに衰退していった文明のひとつです。この時代、森林が伐採されたあとの丘陵地には農地が切り開かれましたが、土壌が流出しやすい斜面を中心に土地の劣化が進んだことから徐々に穀物の収穫は減り、やがて貧弱な土地でも育つオリーブの木が植えられるようになりました。現在の地中海沿岸から巨木の森が消え、低木のオリーブの木だらけになっているのは、実はこうした長年の自然破壊の結果なのです。
ミケーネ近郊の森林を破壊しつくしたのち、文明の中心は森林資源を求めて大陸の方へと中心を移動させていき、アテネに代表される都市国家群を生みます。やがてその中心はさらに内陸へと移動し、アレクサンダー大王の活躍で有名なマケドニアにまで至りました。マケドニアが覇権を唱えることができるようになったのは、ひとえに豊富な森林資源があってのことでした。木材の販売で得た豊かな財政と、贅沢に木材を使って作られた全長6メートルにも及ぶ長槍を持った軍隊が、マケドニアの躍進を支えたのです。
再生不可能なところまで森林を伐採し、土壌環境を永久に変化させてしまう過ちは、古代メソポタミア文明や古代ギリシア文明に限らず世界各地の文明で繰り返され、多くの古代文明が衰退する大きな要因となりました。資源の再生スピードを上回る消費を行った社会は、そのどれもが長期的には資源の枯渇によって衰退する運命を辿ったのです。
日本のお寺に見られる森林破壊の爪痕
ところで、緑豊かな日本はこうした森林破壊とは無縁であるように思われるかもしれませんが、実のところ日本もその例外ではありません[4]。
日本では飛鳥時代から奈良時代にかけて、推古天皇から桓武天皇に至る間のおよそ200年間に21回もの遷都が実施され、そのたびに近隣の森林が伐採されました。特に平城京の建設では、東大寺を筆頭に巨大木造建造物の建築が隆盛を極め、大仏の鋳造とも相まって大量の木材を消費しました。結果として、畿内の多くから針葉樹と広葉樹が混交する自然林が消え、痩せた土地で育つアカマツの森へと変容してしまったのです[5]。それまで頻繁に繰り返されてきた遷都が平安京造営ののち、ぴたりとなくなったことには、畿内近隣の森林資源が急激に喪失してしまったことも無関係ではないでしょう。
地中海沿岸におけるレバノン杉に相当する最高の建築用木材は、日本においてはヒノキでした。奈良時代の巨大木造建造物ではヒノキの巨木がふんだんに使われていましたが、時代とともに巨木の確保は難しくなっていきます。近世に入り、豊臣秀吉と徳川家康の時代に全国各地で巨大城郭が造られるようになると、全国規模で森林の荒廃が急速に進みました。
東大寺大仏殿は二度焼失し、鎌倉時代と江戸時代にそれぞれ再建されましたが、森林資源の枯渇から江戸時代の再建時には柱に使うヒノキの巨木が調達できず、ケヤキの木をヒノキ板で囲い、鉄釘と銅輪で締めて柱としています[6]。また建物の大きさも奈良時代の大きさの66パーセントに縮小され、柱の数も84本から60本に減らされました[7]。江戸時代に焼失して以来、平成になって約300年ぶりに創建当時と同じ大きさと様式で再建された興福寺中金堂では、柱の国内調達を諦め、カメルーンからケヤキの巨木を輸入することで乗り切っています[8]。
このように人為的な森林環境の破壊は、一見豊かなようにも見える日本の森や歴史的な建造物にもしっかりと爪痕を残しているのです。
(つづく)