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「火」は人類に何をもたらしたのか?──『エネルギーをめぐる旅』本文一部公開(1)

火の利用から気候変動対策まで。エネルギーと人類の歴史をわかりやすく解説し、現代に生きる私たち皆にかかわる「エネルギー問題」の本質と未来への道筋を描いた『エネルギーをめぐる旅──文明の歴史と私たちの未来』(古舘恒介著、2021年8月発行)。出版以来大きな反響を呼んでいる本書の一部を公開します。第1部「エネルギーの視点から見た人類史」の第1〜3章、および第4部「旅の目的地」の第1章、計80ページ分を5回にわたって連載。読みごたえのある「旅」を、ぜひお楽しみください。
第1回は「火」と人類の奥深い関わりについて。旅は、かつてシルクロードの交易地として栄えた歴史ある街から始まります。

バクー・アゼルバイジャンにて

カスピ海を抜ける風が涼しい初夏の6月、私はコーカサス地方を代表する大都市、バクーの街に降り立ちました。人口230万人を誇るアゼルバイジャンの首都です。

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バクーの街

この街は、古くはシルクロードの交易拠点として栄えてきました。旧市街には、12世紀に構築された城壁に始まり、シルヴァン・シャー宮殿などの歴史的建造物が今なお残り、当時の栄華を今に伝えています。2000年には、これら一連の建造物が世界遺産に登録されました。そんな歴史あるバクーの街から、物事をエネルギーの視点で捉える「エネルギーをめぐる旅」を始める理由。それはひとえに、この地に大量に眠る地下資源の存在にあります。そう、石油と天然ガスです。

バクーの街に一大転機が訪れたのは、19世紀半ば、帝政ロシアが街を統治していた時代のことでした。近代的な石油の掘削が始まったのです。石油の掘削ならびに精製は、一大成長産業となって街を大いに潤しました。世界の原油の半分が、ここバクーで生産されていた時代です。

ブームに乗せられてこの街に吸い寄せられた人々のなかには、金融業で有名なロスチャイルド家や、ノーベル賞の創設で名高いアルフレッド・ノーベルの実兄ロバート・ノーベルとリュドビック・ノーベル兄弟の姿もありました。彼らは、ここバクーで財を成したのです。

一方で、劣悪な労働環境から石油労働者による労働運動も活発になり、富の偏在がロシア革命へと至る導火線ともなっていきます。のちにソビエト連邦の独裁者となるヨシフ・スターリンが若き日に革命家としての実戦経験を積んだのも、ここバクーでのことでした[1]。爾来、1世紀以上の月日が経った現在もなお、この地域は石油や天然ガスを産出し、その富は国の経済を支え続けています。

バクー石油産業の歴史を紐解けば、それだけで本が一冊書ける分量になります。ロスチャイルドやノーベル、そしてスターリンなど、登場人物も多彩で魅力的です。しかしながら、「エネルギーをめぐる旅」をバクーから始める理由は、現在の富をもたらした産業としての石油の歴史に触れるためではありません。この地の石油と天然ガスを見つめることで、エネルギーに関するもっと根源的な問いへの答えを探しに行きたかったからなのです。「人はいかにして火と出会ったのか」ということを。

「燃える山」ヤナル・ダグ

バクー市街から北へ車で40分ほど行ったところに、目当ての場所はありました。現地語で「燃える山」を意味するヤナル・ダグです。そこはステップ気候特有の乾燥した草原が広がる「山」というよりは丘陵地帯で、丘の上に立つと、眼下にはのんびりと草を食む羊の群れと、それを追う牧畜民の姿がありました。そのさらに先には、青く光るカスピ海が見えました。

牧歌的な風景が広がるこの地がなぜ「燃える山」と呼ばれるのでしょうか。その答えはこの丘の斜面にあります。ここでは丘の側面から天然ガスが噴き出し、自然発火した炎が消えることなく燃え続けているのです。まさに永遠の炎です。

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ヤナル・ダグ

近年は石油産業による石油と天然ガスの生産が進んだことや、地震による地下構造の変化もあって、この地で自然火が燃え続けているのはヤナル・ダグだけになってしまいましたが、かつてバクー近郊にはこうした「火山」がいくつも存在したといいます。その存在は古くから知られており、現存する最も古い資料としては、五世紀のローマの歴史家プリスクスが永遠の炎についての記述を残しています[2]。

消えることのない炎の存在は信仰の対象ともなり、古代より炎が宗教上重要な意味を持つゾロアスター教(拝火教)の聖地にもなってきました。現存するものとしては、ヤナル・ダグから10キロメートルほど南東に下ったところに17~18世紀に建てられたとされるゾロアスター教寺院があります。そこでは1969年まで自然火が点っていました。

そもそも、この地の国名アゼルバイジャンとは、中期ペルシア語(パフラヴィ―語)で火や炎を意味する「アゼル」と保護者を意味する「バイジャン」から成るともいわれています[3]。この地は、古くから火を常に身近に感じることができる土地柄なのです。

プロメテウスの火の物語

この地域と火との密接な関係は、ギリシア神話の物語にも暗示されています。天界から火を盗み、人類に与えたプロメテウスの物語です。火を得たことで人類は繁栄の礎を築くことになりますが、一方で火を与えたプロメテウスは、ゼウスの怒りを買ってしまいます。その罰としてプロメテウスは、コーカサス地方の岩山に鎖でつながれ、肝臓を鷲に啄ばまれることになりました。プロメテウスは不死身であるため、夜には肝臓は再生し、毎日同じ責め苦を負い続けるという物語です。

ここで注目したいのは、磔にされた山の場所です。コーカサス地方とは一般に黒海とカスピ海に挟まれた地域を指し、バクーをはじめとするアゼルバイジャンの土地はその中に含まれます。さらにはプロメテウスが受けた肝臓を鷲に啄ばまれるという罰は、かつてこの地に広く普及したゾロアスター教の鳥葬の習慣を強く想起させるものです。ゾロアスター教徒は、石台の上に遺体を置き、鳥に食べさせることで処理していました。つまりプロメテウスの火の物語は、バクー近郊のこの地域に強い相関があると考えられるのです。

火は優れて便利なものではあるものの、素手で火をおこせる人はいません。火をおこすには一定の知識と道具、そして技術が要ります。火を保つことはおこすことと比較すれば容易ではあるものの、こちらも一定の知識と技術が必要なことに変わりがありません。こうした知識や技術は正しく人類を人類たらしめているものですが、火が極めて有用なものであることを知ったうえでないと考えつかないレベルの複雑さを伴っています。

人類は、落雷や乾燥による山火事から偶然に火を得て、その活用法を学んでいったとされています。しかしながら、山火事のように発生が不確実かつ不連続なものを通じて、人類はどのように火の価値や活用法についての知識を蓄積してきたのでしょうか。その歩みはゆっくりとしたものだったことでしょう。その点、常に自然火が得られるバクー近郊は、火の使い道を人類が学ぶためには絶好の環境だったに違いありません。

人類が初めてエネルギーそのものである火を使いこなすことの価値を学んだのは、この土地で消えることのない自然火と触れ合ったことがきっかけだったのではないだろうか。そして、自らおこすことが難しい火を絶え間なく供給するこの地を、神からの贈り物と感じたのではなかっただろうか。

そのことを感じたくて、私はここまでやってきたのでした。そして、そのような想像を逞しくさせるものが、この「燃える山」には確かにありました。私はこの地に、プロメテウスが人類に与えた火を見たのです。

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火の正体は生き物?

私たちは火というものの存在を、ごく自然なものとして捉えているのではないでしょうか。物を熱すれば火がつく。それは、自然の摂理であると。その考えは、実は正確とはいえません。地球の長い歴史において日常的に火が存在する環境は、実のところ比較的最近に出現した出来事だからです。

火がつくためには、条件があります。燃料、酸素、そして熱です。一般に、燃焼の3要素といわれるものです。今から46億年前に誕生した地球上において最初から豊富に存在したのは、意外に思われるかもしれませんが、熱だけでした。地上を見渡しても燃料となりうる素材はほとんど存在しておらず、空を見上げたところで大気には酸素が存在しませんでした。原始地球を覆っていた大気は、地球内部のガス成分が火山などを通じて噴出したもので、二酸化炭素が大半を占めていたのです。つまり、地球上に火は存在しなかった、いや、存在できなかったのです。

地球上に火が誕生することにつながる最初の変化は、その成り立ちについての学問的な決着はいまだについていませんが、おそらく40億年ほど前、深海の底にある熱水噴出孔付近から始まったであろうと考えられています。私たちの祖先、生命の誕生がそれにあたります。生物は炭素を主な構成要素とする有機化合物から構成されますが、これは一般によく燃える性質を持っています。植物も動物も、乾燥して水分が抜けた状態になると一様によく燃えるのは、突き詰めれば、私たちがみな炭素を中心に構成された有機化合物だからなのです。

今日、地球上で火を生じる燃料となっているものを見渡せば、薪や木炭は言うに及ばず、石炭や石油、天然ガスといった化石燃料にしても、それらはみな生物由来の有機化合物であることに気がつきます。化石燃料は、太古に栄えた植物やプランクトンなどの微生物が死滅し、長い年月をかけて化石化したものです。エネルギーの視点で物事を捉えてみると、私たち生物は、等しくみな「燃料」なのです。原始地球に最初から存在した熱に加えて、生命の誕生という奇跡によって、燃焼の3要素のうちの二つ、熱と燃料が揃うことになりました。

残るひとつの要素である酸素もまた、生物によって供給されることになりました。生命を育む海水という揺りかごの中で、進化の過程で光合成を行うバクテリアが生まれたのです。36億年前頃のことと考えられています。光合成によってバクテリアは二酸化炭素を体内に取り込み炭素を固定化する一方で、酸素を不要なものとして排出しました。結果として徐々に大気中の二酸化炭素の量が減り、代わって酸素量が増加していくようになりました。

こうして地球誕生から10億年という月日を経て、ようやく燃焼の3要素が一通り揃うことになったのです。しかしながら、火が地球上で日常的に見られるようになるまでには、さらに多くの年月を要することになりました。燃焼を継続させるに足る十分な量の酸素供給に加えて、燃えやすい燃料を確保すること、すなわち、海の中からより乾燥した陸地へと、有機化合物である生物を導くことが必要だったからです。この実現には、大気中への酸素供給量の飛躍的な増加が決定的な役割を果たすことになりました。

発生当初は海水中に大量に浮遊していた鉄イオンと結合して酸化鉄となることが多かった酸素ですが、25億年前頃より光合成を行うバクテリアが大量発生したことで、大気中への酸素の放出が飛躍的に増え始めます。5億年前になると、大気中に十分に供給された酸素が成層圏にまで到達してオゾン層を形成するようになり、地上に降り注ぐ有害な紫外線を減少させていきました。こうしてようやく生物が陸地に上がることができる環境が整うのです。火の歴史で記念すべき「燃料」の上陸です。やがて陸上に進出した植物が地表を覆うようになったことで、晴れて、燃料、酸素、熱という燃焼の3要素が揃い、地球上のいたるところに火が誕生するようになります。地球誕生から42億年、今からわずか4億年前のことでした[4]。

このように地球上に火が誕生するに至るまでの歴史を振り返ってみると、炭素を主体にした生物の一種である私たち人類と、そうした生物が燃えることで発生する火の関係の深さに気がつきます。地球上で普段我々が目にする火とは、その多くが私たち生物の成れの果ての姿なのです。いや、より正確には、火は生命そのもの、生命の化身であるといったほうが正しいのかもしれません。宗教や呪術における霊的な儀式において、火が重要な意味を持っていることは少なくありませんが、古来から、人類は火の本質をよく捉えていたのだといえるでしょう。

私たちはみんな炭素でつながっている

植物は、光合成によって大気中の二酸化炭素から炭素を切り離し、有機化合物である単糖のブドウ糖にして自らの体内へと取り込み、そこから糖質のデンプンや植物繊維のセルロースなどの多糖類を合成して蓄えます。これを炭素固定といいます。次いで草食動物は植物を食べ、肉食動物は草食動物を食べることで、直接、間接に、植物が炭素固定によって作り出した糖質を自らの体内へと取り込んでいきます。

私たち生物は、体内に貯めた有機化合物を、呼吸によって取り込んだ酸素を使って燃やすことで日々の生活のエネルギーを得ます。燃焼の結果、吐き出されるものは二酸化炭素です。大気へと吐き出された二酸化炭素は、植物が光合成をすることで再び生物界のサイクルに取り込まれ、固定化されます。
生物が死滅すれば微生物によって分解され、身体を構成していた炭素は再び二酸化炭素となって、大気中に解き放たれます。また野火に焼かれることで、二酸化炭素へと戻る場合もあるでしょう。こうして大気へ戻された二酸化炭素はまた、植物の光合成活動によって再び生物界に取り込まれます。このように日々の呼吸や死滅、燃焼によって、大気と生物の間で炭素がめぐっていくことを炭素循環といいます(図)。

図1_炭素循環
生態系の炭素循環

地球は、ときたま落ちてくる隕石や宇宙塵を除いて、外部との物質のやり取りがないひとつの閉じた系であるため、地球上の炭素総量は一定とみなすことができます。つまり、私たち生きとし生けるものはみな、有限の炭素資源を分け合って暮らす兄弟なのです。

それだけではありません。過去と未来、現在のすべてが炭素の循環を通してつながっています。あなたが今この瞬間に保持している炭素原子のなかには、1200年前に空海の身体を構成していた炭素原子が含まれているかもしれませんし、100年後の世界でテニスのウィンブルドン王者となっている者へと受け継がれる炭素原子もあるかもしれません。今この瞬間に、あなたからあなたが愛でている草花に、そっと渡される炭素原子もあるでしょう。そう、すべては循環するのです。輪廻のように。

『2001年宇宙の旅』の名場面に異議あり

不朽の名作との呼び声も高いスタンリー・キューブリック監督のSF映画『2001年宇宙の旅』には、人類の発展を示す有名なシーンがあります[5]。動物の骨を道具として使うことを初めて覚えた人類の祖先の一団が、骨を武器にして水場をめぐる他の集団との戦いに勝利します。勝利の雄たけびとともに空に放り投げられた骨を追う映像は、やがてその空の先に浮かぶ2001年の宇宙船の姿に切り替わる、というものです。そこでは道具の扱いを覚えたことが人類の繁栄の始まりとして象徴的に描かれています。しかし、巨匠キューブリック監督に対して僭越ながら、こうしたシーンを撮るのであれば、その絵に最もふさわしい物は動物の骨ではありません。それは、炎、たいまつなのです。動物の骨のような単純な道具であれば、ゴリラやチンパンジーなどの類人猿にも扱うことができます。今も昔も人類のみが扱うことができるもの、それが火です。

人類と火の関係を丹念に紐解いていくと、その関係の深さ、影響の大きさに驚かされます。人類は火が形作ったといっても過言ではありません。それほどまでに火の存在は圧倒的なのです。

世界最古の火の利用痕からわかること

南アフリカ最大の街ヨハネスブルグから北西に約30キロメートル。都会の喧騒を離れた街の郊外、草原と灌木が広がる丘陵地帯の向こうに、目指す場所はありました。スワルトクランス洞窟。人類進化の研究において重要な発見のあった洞窟のひとつで、世界遺産にも登録されている貴重な遺跡です。ここに人類と火の関係を暗示する、興味深い痕跡が残されています。

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スワルトクランス洞窟遠景(道路奥の小山の下に洞窟がある)

スワルトクランス洞窟の最古の堆積層には肉食獣が食べたと考えられる獲物の骨が大量に保存されており、かじられた骨の中には人類の祖先の骨も含まれています。その上の第二層には木炭の層が横たわり、その上の第三層に至ったところで興味深い変化が現れます。第三層から出土した動物の骨からは、火で焼かれた痕跡が多数発見されたのです。骨の出土状況から、それらは野火に焼かれたものではなく、人為的に火が使われた証拠であると考えられています。現存するなかで、世界最古の火の使用の痕跡とされるものです。おおよそ100万年から150万年前のものと推定されています。

さらに興味深いのが、第三層からは出土する骨の比率が逆転している事実です。これまで被食者のひとつとして肉食獣に食べられることもままあった人類の祖先が、第三層からは捕食者へとその立場を変え、洞窟の支配者となったことを示唆しているのです[6]。

火を焚くことによる明かりと熱を嫌って肉食獣は洞窟に近づかなくなり、人類の祖先はわざわざ木に登らずとも地上で夜も安心して眠ることができるようになりました。苦労して得た食べ物を他の動物たちに横取りされる心配もなくなりました。人類の祖先は火を扱うことを覚えたことで、環境を自らに都合のよいように作り変える術を得たのです。こうして人類は、自然界における自らの立場を大きく引き上げることに成功しました。人類史上初めて、エネルギー革命と呼ぶべき大きな変化が起きたのです。火の力はそれほどに強力でした。しかし、それは変化の始まりに過ぎなかったのです。

ヒトの脳が大きくなったのは火のおかげ

動物としてのヒトの特長をいくつか挙げるよう質問されたならば、皆さんは何と答えるでしょうか。一番に思いつくものは、体格に比較して大きく発達した脳を持っているというものでしょう。そのほか二足歩行や、言葉を発するなどという声も挙がるかもしれません。しかし、ヒトにはあまり知られていない自慢すべき大きな特長が他にもあります。もちろん、私にもあなたにも備わっている特長です。それが体格に比較して小さい胃腸です。

一般に、脳の維持には多大なエネルギーが必要であることが知られています。しかし、実のところ胃腸もまた、脳と同じく大量のエネルギーを必要とする器官なのです。消化器官は食物を分解し栄養素を吸収するだけでなく、食べ物の残り滓や古くなった細胞を老廃物として外に出すという複雑な活動を一手に引き受けています。胃腸の運転に多大なエネルギーが必要となるのは、至極当然なのです。

ヒトと同程度の体重を持つ哺乳類の多くは、脳の大きさがヒトの五分の一程度であるのに対し、胃腸の長さはヒトの二倍もあります[7]。つまり私たち人類は、相対的に大きな脳と小さな胃腸を持っていることになります。霊長類のなかでの比較でも、体重比で胃腸の小さな霊長類ほど、より大きな脳を持つことが分かっています。人類の祖先は、脳が大きくなる方向に進化していく過程で、脳に十分なエネルギーを供給するために、胃腸を小さくし、消化器官のエネルギー消費を減らすことでバランスを取ったのです。

しかし、胃腸を小さくすることにはリスクが伴います。胃腸が小さくなると食べ物の消化が十分にできなくなり、結果として身体に取り込むことができるエネルギーの量が減ってしまうからです。私たちの祖先は、この問題をどのように解決したのでしょうか。

第一に考えられるのが、より栄養価の高い食べ物を取ることです。肉食を始めたことがそれにあたります。霊長類のなかで、人類ほど肉を好んで食べるものはいません。肉食による栄養補給が、人類の祖先の脳を大きくしたことは疑いようがありません。それが火の利用を可能にする知恵を生む知能を、私たちの祖先へもたらしたのでしょう。そして現生人類へと続く脳の発達ならびに胃腸の縮小は、火の利用をきっかけとして、肉食が始まったことによる変化を遥かに超える地点にまで、さらなる進化を遂げることになります。それは料理の発明によってもたらされたと考えられています。

食べ物を叩き、刻み、すりつぶすなどして加工したうえで、それを加熱処理する。それが「料理」です。そう料理を定義すると、料理をすることによる身体への効果が浮かび上がってきます。もうお分かりでしょう。食べ物を料理すると、その吸収に要する胃腸の負担は劇的に軽減されるのです。

まず、食べ物を物理的に加工することで、口での咀嚼の負担が軽減されます。次に加熱加工することによって、食べ物は柔らかく、さらに咀嚼しやすい物へと変化します。野生のチンパンジーが一日のうち六時間以上を食べ物を噛むことに費やしていることを考えると、こうした加工による効果は決して少なくありません[8]。

さらに決定的な変化をもたらす力が、加熱にはあります。熱はでんぷんやタンパク質を変質させ、食べ物の持つ栄養価を飛躍的に高めることにつながるのです。例えばでんぷんの代表例であるジャガイモでは、加熱調理することで消化吸収できるカロリーが倍近くにまで増えます。タンパク質の代表例である生卵も同じような数値を示します[9]。加熱によってカロリー密度が高い食事を取れるようになったことで、食べる量は減り、消化器官は小さくて済むようになりました。現在、私たちの食事量は大型類人猿の半分程度で済んでいます。私たちはたくさん食べているように思えても、実は大して食べていないのです。すべては加熱調理のおかげです。

食べ物を加熱することには、もうひとつ利点があります。加熱することで食べ物に付着した雑菌を殺せるのです。これにより、バイ菌の体内への侵入を防ぐ免疫系の負担も軽減させることができます。料理とは、消化器官への負担を軽減し、吸収できるエネルギー量を最大化する偉大な「発明」なのです。

こうして人類の祖先は、料理をすることで自らの体内での消化にかかるエネルギー負担を減らし、胃腸を相対的に小さくすることに成功しました。要するに私たちの祖先は、本来であれば消化器官が行う必要のある仕事を、食べ物を「料理」することで、一部外製化したのです。外製化したことで得られた余剰エネルギーは脳へと集中投資され、それが私たちの祖先の進化の方向を決定づけることになりました。このように、私たち現生人類が極めて高度な知能を持つに至ったことには、人類の祖先による火の利用が大いに関係しているのです。

火の利用は、外敵への備えとして機能することで、人類を取り巻く外部環境を劇的に変えただけでなく、人類の身体、すなわち内部の環境をも、進化の過程を通じて徐々に、しかし確実に変化させました。火の利用がすべてを変えたのです。これこそ人類史上最初のエネルギー革命です。

人類の繁栄は、まさにこの瞬間から始まりました。それはまた、百数十万年ののちに比類なき文明社会を築くに至った人類が、エネルギーの大量使用がもたらす地球規模での気候変動問題という難問を抱えるに至る出発点でもありました。

脳の本性──飽くなきエネルギーへの欲求

現代社会において人類は、化石燃料などから大量のエネルギーを得ることで、自らが作り上げた文明社会を支えています。そうしたエネルギー多消費型の社会を作り上げたのは、高度に発達した私たちの頭脳です。全体重の2.5%を占めるに過ぎない私たちの脳は、体内で消費する基礎代謝(生命維持に必要なエネルギー量)の20%を要求します。一方で平均的な霊長類であれば、基礎代謝の13%程度を要求するに過ぎません[10]。いかに人類の頭脳が、大量のエネルギーを必要とするまでに進化してきたのかが分かります。

人類の頭脳は、料理を通じて高度に発達しました。健康のため生食を勧める人もまれに世の中に存在するようですが、体重が激減し、長く続けられたという事例は認められていません[11]。ロビンソン・クルーソーのモデルとなったともいわれる船乗りアレクサンダー・セルカークは、4年を超える長きにわたり無人島にひとりで暮らしましたが、火を使った料理はしていました[12]。食べ物への加熱という外からのエネルギーの追加投入がなければ、もはや私たちは自らの身体を維持することすら難しくなっているのです。

私たち人類が誇る優秀な頭脳は、加熱という形で火の持つエネルギーを間接的に取り込むことで、自然界において生食をすることで許容されうる脳の大きさを遥かに超える大きさにまで肥大化したものです。つまり私たちの脳は本質的に、「より賢くなりたい。そのために、より多くのエネルギーを得たい」と望む傾向があるのです。

ここで人類が生み出した文明社会を俯瞰してみましょう。そこにヒトの脳の本質が現れてはいないでしょうか。エネルギーの消費量を増やしていくことで発展していく社会です。特に産業革命以降の社会は、化石燃料などのエネルギーを自らの身体ではなく機械に「食べさせる」ことで、蒸気機関や自動車を動かし、電気を起こしては電子機器の飛躍的な進歩、発展を実現してきました。最新の大型発電所、すなわち巨大化した人工の胃腸が供給する大量のエネルギーは、情報処理機器、すなわち人工頭脳の技術革新にも積極的に還元され、ついにはヒトの頭脳をも超える人工知能(AI)の実現も目前に迫っているのが現状です。

「もっとたくさんのエネルギーを」

際限のないエネルギー獲得への欲求。それが、私たちの脳が持つ本性です。そして私たちが作り上げてきた輝かしい文明社会とは、消化可能な食べ物を化石燃料やウラン鉱石にまで広げることで、消化器官を通じて取り込めるエネルギー容量を飛躍的に増やし、脳をさらに巨大化させた化け物のような生き物に思えてきます。それは間違いなく、脳への集中投資を続けてきた人類進化の歴史の延長線上にあるものです。

こうして外部からのエネルギー投入に依存した「脳化」が加速する社会に未来はあるのでしょうか。そのことが今、問われています。それこそが人類と火の関係を紐解くことで浮かび上がってくる、エネルギーにまつわる問題をめぐる根源的な問いではないだろうかと私は考えています。

(つづく)

[著者]
古舘 恒介(ふるたち・こうすけ)
1994年3月慶應義塾大学理工学部応用化学科卒。同年4月日本石油(当時)に入社。リテール販売から石油探鉱まで、石油事業の上流から下流まで広範な事業に従事。エネルギー業界に職を得たことで、エネルギーと人類社会の関係に興味を持つようになる。以来サラリーマン生活を続けながら、なぜ人類はエネルギーを大量に消費するのか、そもそもエネルギーとは何なのかについて考えることをライフワークとしてきた。本書はこれまでの思索の集大成となるもの。趣味は、読書、料理(ただし大味でレパートリーも少ない)、そしてランニング。現在は、JX石油開発(株)で技術管理部長を務める。訳書に『パワー・ハングリー──現実を直視してエネルギー問題を考える』(ロバート・ブライス著、英治出版、2011年)がある。

〈注〉
[1] ダニエル・ヤーギン(1991)『石油の世紀 支配者たちの興亡(上)』日本放送出版協会P.211-220
[2] John Given(2014) “The Fragmentary History of Priscus: Atilla, the Huns and the Roman Empire, AD430-476”, Evolution Publishing, Kindle Location No. 1438
[3] 谷口洋和、アリベイ・マムマドフ(2018)『アゼルバイジャンが今、面白い理由』KKロングセラーズP.30
なおアゼルバイジャンの国名の由来については、本文で触れた中期ペルシア語(パフラヴィー語)で火や炎を意味する「アゼル」と保護者を意味する「バイジャン」から成るとする説以外にも、アケメネス朝ペルシアの総督でこの地方を治めたアトロパテスに由来するとする説もある。
[4] 火の誕生に係る地球史については、平朝彦(2001)『地質学1地球のダイナミックス』岩波書店、丸山茂徳・磯崎行雄(1998)『生命と地球の歴史』岩波新書、スティーヴン・J・パイン(2003)『ファイア 火の自然誌』青土社、リチャード・フォーティ(2003)『生命40億年全史』草思社を参照した。
[5] スタンリー・キューブリック監督作品(1968)『2001年宇宙の旅』メトロ・ゴールドウィン・メイヤー配給
[6] スティーヴン・J・パイン(2003)『ファイア 火の自然誌』青土社P.60、河合信和(2010)『ヒトの進化七〇〇万年史』ちくま新書P.123-125
[7] ダニエル・E・リーバーマン(2015)『人体600万年史(上)』早川書房P.145
[8] マット・リドレー(2010)『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史(上)』早川書房P.94
[9] リチャード・ランガム(2010)『火の賜物 ヒトは料理で進化した』NTT出版P.109-110
[10] 同上P.61,P.66
[11] 同上P.34-38
[12] 同上 P.39

※この記事は『エネルギーをめぐる旅』第1部の「エネルギー巡礼の旅① バクー・アゼルバイジャンにて」および第1章「火のエネルギー」をまとめたものです。掲載にあたり本文中の漢数字を算用数字にする、改行を追加する等の変更を行っています。