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文明の危機に、私たちは何をするのか──『エネルギーをめぐる旅』本文一部公開(5)

火の利用から気候変動対策まで。エネルギーと人類の歴史をわかりやすく解説し、現代に生きる私たち皆にかかわる「エネルギー問題」の本質と未来への道筋を描いた『エネルギーをめぐる旅──文明の歴史と私たちの未来』(古舘恒介著、2021年8月発行)。出版以来大きな反響を呼んでいる本書の一部公開。
前回までは火の利用に始まる文明発展の軌跡をたどりながら、エネルギー問題の根底にあるものを探ってきました。最終回となる今回は、視点を現代に移し、いま私たちが直面している問題とそれに対する向き合い方を、歴史的視座を踏まえて考えます。

  すべてうまくいくと信じているわけではないので、
  私は楽観主義者ではない。
  かと言って、すべてがうまくいかないと思うわけでもないので
  悲観主義者でもない。
  ただ私は希望を持っている。希望のないところに進歩はない。
  希望は人生そのものと同じくらい重要である。
  ──ヴァーツラフ・ハヴェル(チェコ共和国初代大統領)

エネルギー問題における最重要課題

人類によるエネルギー利用がもたらす様々な問題のなかで、今、最も強い問題意識を持って取り組まなければならないもの。それは人為的な気候変動問題であると私は思います。この問題の存在こそ、脳の欲求の赴くまま、ただひたすらにエネルギー消費を拡大してきたこれまでのやり方が、もはや通用しなくなった事実を如実に表す問題であるといえるからです。

人為的な気候変動問題が顕在化するまでの社会においては、エネルギー資源はいずれ枯渇してしまうということが、エネルギーにまつわる最大の問題であったといってよいでしょう。いや、より正確には、エネルギー資源枯渇の問題は、メソポタミアの地に人類最古の文明が興って以来今日に至るまで、常に人類にとって最大の問題であり続けてきました。産業革命以前の文明は森林資源を消耗させることで成り立ってきましたし、産業革命以後は化石燃料やウラン鉱石を大量に消費することで巨大文明を支える構造になっています。私たちは熱力学の第二法則が支配する世の中に暮らしていますから、こうした低エントロピーのエネルギー資源はいずれ枯渇することになります。

都市近隣の森林資源の消耗を、中心地を移動させることで解決していった古代の文明と異なり、現代の文明は世界の隅々にまで開発の手が及び、グローバル経済の名のもとに全世界が深く結びつく形で一体運営されているため逃げ場がありません。したがって、その推力を供給するエネルギー資源が枯渇してしまうと、世界全体が同時に失速してしまうことになります。こうした危機発生時の影響の大きさは、同じく広く世界全体に影響が及ぶと考えられている人為的な気候変動問題と変わりがありません。

エネルギー資源枯渇の問題と人為的な気候変動問題の最大の相違点は、私たち人類に残されていると考えられている時間です。

20世紀後半に初めて認識されるようになった人為的な気候変動の問題は、21世紀に入って加速度的に緊急度を増していき、今や文明社会が抱え続けてきた伝統的な資源枯渇の問題を追い抜くに至りました。これは驚くべきことです。

その事実を具体的に想像するために、ここで大まかな計算をしてみましょう。仮に、現時点で埋蔵が確認されている化石燃料をすべて燃焼した場合にどれだけ大気中の二酸化炭素濃度が上昇するかを試算してみるのです。2018年末の可採年数は、原油と天然ガスは約50年分、石炭は約130年分となっていますので、現在確認されている埋蔵量は、2100年頃までにはすべてを使い切ることになるでしょう[1]。私の概算では、その間に大気中の二酸化炭素量は合計で300ppm以上増加するという結果が得られました(下表)。

確認埋蔵量をすべて燃焼した場合の大気中二酸化炭素濃度想定上昇幅概算
(BP統計2019の確認埋蔵量データをもとに著者概算)

これは、大気に放出される二酸化炭素の40パーセントは海洋や生態系に吸収されるものとして試算したものです。現在の大気中の二酸化炭素量は既に400ppmを超えてきていますから、両者を足し合わせると2100年頃には700ppmを超える水準にまで二酸化炭素濃度が上昇することになります。

今、世界は2015年に採択され翌年に発効したパリ協定に基づいて、産業革命以降の平均気温上昇を2℃未満(努力目標としては1.5℃未満)に抑えることを目標としています。この2℃目標を実現するためには、大気中の二酸化炭素濃度は450ppm程度に抑える必要があると試算されています。その前提に基づけば、現時点で人類が確保している化石燃料ですら、もはや無対策で使い続けるわけにはいかなくなっているのです。なかでも二酸化炭素の排出係数が高く、確認埋蔵量も多い石炭をすべて使い切ることは難しいでしょう。

化石燃料資源の枯渇はいつ頃起きるのか

よく不思議なこととして話題にされる話ですが、石油の可採年数は過去何十年にもわたって、残り約40年といわれ続けてきました。現在は少し伸びて約50年とされています。このように年月を経ても可採年数がなかなか減ってこないのは、可採年数が経済合理性に基づく数値であるからです。石油会社にとっては、既に発見された確認埋蔵量は在庫ということになります。在庫水準が高すぎるとその維持管理にかかる費用が収益を圧迫することになりますし、逆に少なすぎると欠品による機会損失につながりますから、適正な在庫水準を保つことは、業界を問わず企業経営にとっての基本的事項となります。その適正と考えられる在庫水準の量が、石油業界に関していえば約40~50年程度であるということなのです。

石油がこの先も人類にとって必要とされるのであれば、技術的な難易度が高く費用も嵩む大水深や、道路も通っていない未開の地域での探鉱活動が活発になり、この先も確認埋蔵量は補填されていくことでしょう。天然ガスや石炭についても同じです。どれだけの埋蔵量が残されているのかを推定することは極めて困難で確実なことは分かりませんが、イェール大学のロバート・バーナー教授が2004年に発表した試算によれば、地中に賦存(理論的に存在)する人類が利用可能な化石燃料の炭素量は3兆5000億トンとされています[2]。これは世界の人口が100億人になり、そのひとりひとりが現在の日本人と同程度の一人当たり炭素排出量(約2.5トン/年)を排出したと仮定して、140年間供給可能な量になります[3]。

それだけ多くの埋蔵量が残されているとしても、化石燃料は低エントロピーの有限の資源ですから、いずれ枯渇する日が必ず訪れることになります。厳密には石油と天然ガスについては、珪藻やプランクトンなどの有機物が長い年月をかけて地中の熱と圧力で熟成されることでできたもののほかに、ごくわずかですが高温の地球深部で生物を介さずに無機的に生成されたと考えられるものがありますが、いずれにしても有限であることには変わりありません[4]。実際、古くから石油や天然ガスの開発が進められてきた地域では生産減退が進んでおり、確実に枯渇へのカウントダウンが始まっています。

シェール革命を起こし、2018年に約半世紀ぶりに原油生産量世界一の座へと返り咲いた米国ですら、その例外ではありません[5]。シェール革命とは、これまで開発の対象にはなり得なかったシェール層からの原油・天然ガスの生産が、水平坑井の掘削や水圧を用いた岩盤破砕などの技術革新により経済合理性を持つようになったために起こったもので、枯渇した既存の油ガス田そのものが復活したわけではないからです。むしろ、シェール革命が喧伝されること自体が、米国において資源の枯渇が確実に進んでいることの証左であるといえなくもありません。

低エントロピー[6]のエネルギー資源は有限であるがゆえに、資源枯渇の問題に、安心は禁物です。そのことはいくら強調してもしたりません。しかし、人類は歴史上初めて、エネルギー資源枯渇の危機を迎える前に、人類社会全体の安定を脅かす新たな危機を迎えることになってしまいました。この一点を考えただけでも、いかに人為的な気候変動問題が人類の未来を考えるうえで重要な問題となっているのかが分かります。気候変動問題は、私たちに歴史上かつてないほど根本的な意識の改革を求めているのです。

文明はすべて氷河時代に生まれた

原始地球における灼熱環境から始まった地球の気候は、長い歴史のなかで変動を繰り返してきました。そして、これまでに少なくとも5回の氷河時代があり、その内の2回は一時期スノーボールアースと呼ばれる全球凍結をもたらすほどの厳しく寒冷化した時期であったことが示唆されています[7]。

地球温暖化が心配されるなか意外に思われるかもしれませんが、現在は氷河時代のただ中にあります。学問上の定義によれば、地球上に大陸並みの大きさの氷床が存在している時代のことを氷河時代と呼ぶため、南極大陸とグリーンランドが氷床で覆われている現在は氷河時代に分類されるのです。

現在にまで続く最新の氷河時代は約258万年前に始まったと考えられています。第一次エネルギー革命である人類の祖先による火の獲得は、100万年から150万年前頃の出来事と推定されていますし、現生人類であるホモ・サピエンスが地上に現れたのは40万年前頃のことと考えられていますから、私たちが築き上げてきた文明はすべて、氷河時代に積み上げられてきたものということになります。

一口に氷河時代といっても、特に寒さが厳しくなる氷期と、厳しさが緩む間氷期が幾度も繰り返されてきたことが分かっています。約7万年前から始まったヴュルム氷期では、その最盛期に海面が約120メートルも低下してベーリング海峡が陸橋となり、ユーラシア大陸とアメリカ大陸がつながりました。人類はこの極寒期を耐え抜き、気候が温暖化してきた1万3000年前頃にユーラシア大陸からアメリカ大陸に足を踏み入れたと考えられています[8]。

ヴュルム氷期は約1万年前に終わりを迎えます。ちょうど第2次エネルギー革命が起こり、農耕生活への移行が始まった時期に当たります。これは決して偶然の一致ではありません。氷期が終わり気候が温暖になっていったことで、安定した収穫が継続して得られる環境がもたらされたからです。約6000年前には海面もほぼ現在と同じ高さかそれをやや上回るまでに上昇し、その過程では河川が供給する土砂が堆積して、沖積平野と呼ばれる肥沃な平野が各地で形成されていきました。以降は、比較的安定した気候を保ちながら現在にまで至っています。

世界最古の文明とされる古代メソポタミア文明が、チグリス・ユーフラテス河が形成した沖積平野で立ち上がったのが紀元前3500年頃、すなわち約5500年前のことと考えられていますから、人類が構築した文明社会はそのすべてがすっぽりこの気候が安定していた期間に入ることになります。

文明社会の発展には、農耕からの安定した収穫と豊富な森林資源の供給という二つの形での太陽エネルギーの供給が必要不可欠でしたから、大規模な農耕に適した沖積平野が十分に発達した環境下で、安定した気候環境が過去6000年間にわたって継続したことが私たちの現在の繁栄の基礎となったことは疑いようがありません。私たちは、第3次エネルギー革命である産業革命以降、第4次の電気の利用、第5次の人工肥料の発明[9]と、たかだか二百数十年の期間に立て続けに起こった一連のエネルギー革命がもたらした空前の繁栄と引き換えに、自然がもたらしてくれたこの絶妙なバランスを急激な勢いで自ら崩してしまいかけているわけです。

土地の限界──気候変動問題の本質

もちろん地球の長い歴史を振り返ってみれば、地球の気候環境は変動するのが当たり前で、それを人為的に制御しようと試みることは極めて野心的なことといえなくもありません。ベーリング海峡が地続きになるようなヴュルム氷期の厳しい寒さのなかにおいても人類は生き抜いてきましたし、現在よりも気候が温暖で海面水位が今よりも2~3メートル高かったとされる縄文時代前期の日本のような場所においても問題なく生をつないできています[10]。こうした事実も考慮すると、今日心配されている人為的要因による気候変動によって、人類が壊滅的な打撃を受けることはないようにも思われます。

国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が2014年に発表した「第5次評価報告書統合報告書」によれば、温暖化が最も進んだ場合、2081年から2100年までの20年間の平均気温は現在より2.6℃から4.8℃上昇し、海面水位は0.45メートルから0.82メートル上昇すると予測されています[11]。つまり、最悪ケースの今世紀末の想定においても、日本においては縄文時代に経験した海面水位よりも低い上昇に留まると予想されていることになるわけです。

現代に生きる私たちは、縄文時代の人類と比べて遥かに高度な科学技術を保持していることを鑑みれば、この程度の海面水位の上昇はそこまで目くじらを立てるような話でもないように感じてしまうかもしれません。しかし、私たちは高度な科学技術を保持し、空前の繁栄を謳歌するようになったことと引き換えに、縄文時代の頃を生きた人類が持っていた極めて重要なものを失うに至っています。

それは、自由に移動できる空いた土地です。産業革命以降、世界の人口が加速度的に増え、人類による土地の利用が世界の隅々にまで及んだことで、陸域にはもはや人の手が全く入っていない場所はほとんど残されていません。縄文時代であれば、海面水位の上昇に応じて住む土地を少し移動するだけで済んだことが、現在は難しくなっています。有用な土地はすでに誰かに占有されており、簡単に移動できる土地がないのです。昨今、世界の各地で難民の受け入れによるトラブルが増えるようになってきたのは、新たに人を受け入れるだけの土地の余裕がなくなってきていることの現れだといえます。

気候変動が加速すると、海面水位の上昇や降水量が減るなどの影響により、これまで暮らしていた土地を捨てざるを得なくなった人々が難民となって移動を開始することになるでしょう。土地に余裕がないなかでは、こうした環境難民が流れ込んできた地域では地元住民との間で軋轢を生じやすくなり、社会不安が高まることになります。最悪の場合、限られた土地を奪い合う戦争が勃発することにもなりかねません。川中島の戦いは5度の争いを経ましたが、上杉謙信と武田信玄という両雄のどちらかが倒れるまで続いたわけではありません[12]。しかし、気候変動の問題への対応を誤った場合に勃発するであろう未来の争いでは、両雄のどちらかが倒れるまで土地をめぐる争いを続けなくてはならなくなる可能性が否定できないのです。

仮に自らが住んでいる土地に気候変動の影響が直接的には生じなかったとしても、安心は禁物です。世界の穀倉地帯からの食料供給量が細るようなことがあれば、食料の多くを輸入に頼っている日本のような国や、食料を自給できない都市部の住人はパニックに陥るでしょう。

さらにいえば、温暖化によってシベリアの永久凍土が融け、これまで凍土に封じ込められていた未知のウイルスや細菌に人類が接触することも懸念されています。こちらについても突き詰めていけば、人口が増えて地球の隅々にまで人類の開発の手が及んでいることからくる問題であるといえます。

こうした懸念が明らかにしていること。それは人為的な気候変動問題の本質とは何かということです。つまりそれは、人類が謳歌している空前の繁栄が、地球が持つ利用可能な土地容量というキャパシティの限界に初めてぶつかったことからくる問題であるということなのです。これまでは、低エントロピーのエネルギー資源の枯渇が、人類が将来直面することになるであろう最も早い地球のキャパシティの限界だと考えられていましたが、それは間違っていたのです。

気候変動問題とどう向き合うべきか

人為的な気候変動問題に対しては、アメリカのトランプ前大統領の言動に代表されるように、一部に今なお根強い懐疑論があります。改めて言うまでもなく気候環境を決めるメカニズムは極めて複雑で、二酸化炭素濃度を含む大気の組成以外にも、太陽の活動や地球軌道の変動、火山の噴火など、気候に影響を与える因子は数多くあります。

そうしたなか、人為的な要因による二酸化炭素濃度の変化から将来の平均気温や海面水位の上昇幅を言い当てることはただでさえ難しいうえ、その結果がもたらす土地々々の気象への影響を正確に予測するにはさらなる困難を伴います。こうした側面が懐疑論者への栄養素となり、国際的な協調を必要とする活動に水を差す要因となっています。将来の地球気候環境を予測する気候モデルには誤差がつきものですから、粗を探すことは容易で批判は誰にでも簡単にできるわけです。

気候モデルの正確性に課題があるということは、何も対策をしなくとも想定ほどは酷い事態にならない可能性もありますし、逆に世界が一丸となって二酸化炭素の排出量を抑える努力をしたとしても、その効果が期待したほどには高くならない可能性もあるということになります。人はふつう努力を求められれば、その努力に見合う成果を求めたがるものです。その点、たとえ十分な努力をしたとしても、期待したほどの効果が出ないかもしれない可能性があるとなると、気持ちが続かなくなるかもしれません。

それでもなお、私たちは気候変動問題に真摯に向き合い、努力をする価値があると私は考えています。なぜなら、気候変動問題に真摯に取り組むことは、仮に気候変動への効果が想定よりも小さくなることがあったとしても、少なくともエネルギー資源枯渇の問題にはポジティブな効果があると考えられるからです。

気候変動問題に一定の解を与えるということは、資本の神[13]に導かれるがままにエネルギーの消費量を増やして散逸構造を発展させていくという、これまでのような発想でのエネルギーの利用を改めるということにほかなりません。エネルギー消費の増大を抑え、持続性のある形に落ち着かせることができなければ、低エントロピーのエネルギー資源の枯渇という爆弾が遅かれ早かれ爆発することになります。したがって、資本の神から一定の距離を置き、低エントロピーのエネルギー資源を大切に扱っていく持続性の高い社会への変革を目指す必要があるという観点からも、足元の危機である気候変動問題は私たちにとって挑戦する価値のあることに違いないのです。

現代に蘇ったフンババ

ここにきて改めて思い返されるのは、ギルガメッシュ叙事詩のフンババの物語です(連載第3回参照)[14]。古代メソポタミアに暮らした人たちは、上流域の森林資源を消失することで塩気を含んだ土砂が流出して下流域に堆積していき、やがて耕作地が使い物にならなくなることを知っていながらも、森林伐採の誘惑を止めることができませんでした。資源を過剰に消費することで最終的には土地を失うという多くの古代文明が辿った経緯は、化石燃料の大量消費を続けることで気候変動を引き起こし、やがては土地を失うことになると懸念されている現代文明が直面している危機と、実は全く同じ構図なのです。

近年、大規模な山火事や洪水が世界各地で頻発するようになってきています。日本もその例外ではなく豪雨や熱波に見舞われる機会が増えてきており、昨今はニュースで「50年に一度」や「観測史上初」という言葉を聞くことも珍しくなくなりました。東京という大都会で生まれ育った私のような人間にも、気候の変化が体感できるほどです。私たちは皆、気候が変わりつつあることを肌感覚で共有しはじめています。

私たちは今ある地球環境の守り神として現代に蘇ったフンババを、鋭利さを増した文明の斧で、再び叩き切ってしまうのでしょうか。それとも、今度こそフンババとの共存を実現できるのでしょうか。もはや、人類が真摯に取り組むべき最重要課題は何なのか、答えは明らかでしょう。私たちは疑いを捨て、前に進むべきなのです。


[著者]
古舘 恒介(ふるたち・こうすけ)
1994年3月慶應義塾大学理工学部応用化学科卒。同年4月日本石油(当時)に入社。リテール販売から石油探鉱まで、石油事業の上流から下流まで広範な事業に従事。エネルギー業界に職を得たことで、エネルギーと人類社会の関係に興味を持つようになる。以来サラリーマン生活を続けながら、なぜ人類はエネルギーを大量に消費するのか、そもそもエネルギーとは何なのかについて考えることをライフワークとしてきた。本書はこれまでの思索の集大成となるもの。趣味は、読書、料理(ただし大味でレパートリーも少ない)、そしてランニング。現在は、JX石油開発(株)で技術管理部長を務める。訳書に『パワー・ハングリー──現実を直視してエネルギー問題を考える』(ロバート・ブライス著、英治出版、2011年)がある。

〈注〉
[1] BP統計(2019)によれば、2018年末時点の可採年数はそれぞれ、原油50年、天然ガス51年、石炭132年となっている。
https://www.bp.com/content/dam/bp/business-sites/en/global/corporate/pdfs/energy-economics/statistical-review/bp-stats-review-2019-full-report.pdf
[2]平朝彦(2007)『地質学3地球史の探究』岩波書店P.13
[3] BP統計(2019)における国別二酸化炭素排出量と日本の人口統計を用いて、日本人一人当たりの二酸化炭素排出量を計算した。結果、日本人一人当たりの二酸化炭素排出量は9.1トン/年となり、炭素量に換算すると2.5トン/年となった。
[4] 大河内直彦(2012)『「地球のからくり」に挑む』新潮新書P.130
[5] 日本経済新聞2019年3月27日付記事“米原油生産、45年ぶり世界首位 シェール増産効果” https://www.nikkei.com/article/DGXMZO42961830X20C19A3000000/
[6] エントロピーについて詳細は本書第2部第2章で解説
[7] 田近英一(2009)『凍った地球 スノーボールアースと生命進化の物語』新潮社P.39-41
[8] 平朝彦(2007)『地質学3地球史の探究』岩波書店P.93, P194-195
[9] 本書では人類の歴史ではこれまでに5つのエネルギー革命があったと捉えている(火の利用、農耕の開始、蒸気機関の発明、電気の利用、人工肥料の開発)。
[10] 日本の縄文時代の海面水位上昇に関する説明は、以下の日本第四紀学会HPに詳しい。 http://quaternary.jp/QA/answer/ans010.html
[11] 気候変動に関する政府間パネル(IPCC)(2014)『第五次評価報告書統合報告書』政策決定者向け要約(日本語訳) http://www.env.go.jp/earth/ipcc/5th/pdf/ar5_syr_spmj.pdf
[12] 川中島の戦いは肥沃な土壌を巡って行われた。本書P.134「エネルギー巡礼の旅⑥ 川中島合戦はなぜ五回も繰り返されたのか」で解説。
[13] 資本の神については本書第3部第3章「エネルギーと社会」で解説。経済成長を至上命題とする考え方を指す。
[14] フンババについては本書P.58「エネルギー巡礼の旅③ レバノン杉の森」、本連載第3回で解説。

※この記事は『エネルギーをめぐる旅』第4部の第1章「取り組むべき課題」です。掲載にあたり本文中の漢数字を算用数字にする、改行を追加する、注を追加する等の変更を行っています。


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