教育のラストワンマイル──なぜいま「話す力」は重要なのか(『すべての子どもに「話す力」を』第2章公開)
言い出しっぺのプレゼンで世の中は変えられる
2011年3月11日。東日本大震災で発生した津波が迫るなか、当日登校していた小中学生が一人も命を落とさなかった岩手県釜石市。その奇跡を起こしたのはプレゼンの力でした。
そのプレゼンをしたのは、群馬大学名誉教授であり、工学者で防災研究家の片田敏孝氏です。彼は2004年に22万人もの犠牲者が出たスマトラ島沖地震の調査をするなかで、日本には避難勧告を出しても避難しない人たちが多数いることが心配になり、縁のあった釜石市で活動を始めました。
最初は何度講演しても意識が高い大人しか来ず、地震があって警報が出ても「それほど大きな津波は来ていない」という油断が人々の心にはびこっていたといいます。
であれば小中学校に話しに行こう──そう思っても、学校はちょうどカリキュラムの改変期で忙しく、話を聞いてもらえない。それでも何度も足を運び、やがて教育長が話を聞いてくれ、地域の全学校でのプレゼンが実現したのでした。
「率先避難者たれ」──彼は、小中学生に向けてこの言葉を繰り返し説きました。震災当日、子どもたちはその言葉を思い出し、中学生は小学生を促しながら、ときには高齢者の手も引いて高台に逃げたといいます。その結果、当日登校していた小中学生に犠牲者は出ませんでした。これはまさに、プレゼンが世の中を良いほうに変えた事例です。
ベストセラーとなった『FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』を読むと、「世の中は意外と良くなっている」という事例が多数出てきます[1]。私はこれらの好転の背後には、やはり誰か「言い出しっぺ」のプレゼンがあったのではと思っています。
そんな思いから私がおこなうプレゼン授業では、この本に出てくるケースをクイズにしながらこんなことを子どもたちに伝えます。
「世界を良くする出来事は自動的に起こったのかな? おかしなことに気づいた誰かがどこかで、周りの人に自分の思いをぶつけたんじゃない? そうして周囲の人たちを巻き込んで……」
「そう! 世の中は変えられる。そのためにプレゼンがある。そんな思いで話してみよう。適当にググってまとめて、フォントをいじって、大きな声で発表すればいいんでしょ──決してそんなふうに考えないで。あなたの力で、世の中は変えられるんだから!」
しかし、いまの日本の子どもたちの現状を見たときに、私がとても懸念していることがあります。
「社会は変えられる」と思う子は2割以下!?
社会や国に対する若者の意識を調べた日本財団の18歳意識調査によると、なんと、「自分を大人だと思う」「自分は責任がある社会の一員だと思う」「将来の夢を持っている」など6つの項目すべてで、日本の若者はYESの数が9か国中で最低なのです[2]。
そのなかでも特に気になるのが、「自分で国や社会を変えられると思う」という項目。日本の子どもたちのYESの回答は、全項目中で最低の18.3%。「社会を変えられる」と感じている子どもは2割以下しかいないのです。
実際に私が接してきた中高大学生も、授業の最初に聞いてみると「国や社会って自分からは遠い気がする」「SDGsって言われても本気になれない」などと本音を呟きます。
これでは社会は変わらない──私がプレゼン教育を推進したいと思っている背景にはこのような焦燥感もあるのです。前例踏襲を美徳としか捉えない文化に対して、私は危機感を抱きます。
少子高齢化に加え、政治に無関心な若者が多く、高齢者以外は投票率が低い──その結果、「シルバー民主主義」といわれる高齢者優先で若者の未来がないがしろにされる社会ができ上がってしまっている現状も、声をあげる力の欠如がひとつの原因かもしれません。
「社会を変える」という大きな話ではなくても、「身近なおかしいこと」に対して声をあげる力が弱まっているように思えます。
高校生向けのある調査で、「校則を守るのは当然のことだ」と思う生徒の比率が年々増えていることが示されました[3]。裁判になって明るみに出た地毛の黒染め強要指導や下着の色まで指定するなどの「ブラック校則」は、現代のほうが厳しくなっているという調査があるにもかかわらずです。
このようななかでますます従順になっていく生徒たちを思うと悲しくなります。
子どもたちには周囲にある問題に気づいてほしい。
どうしたらもっとみんなが幸せに暮らせるか考えてほしい。
声をあげ、周囲を巻き込んで、社会を変えられる人になってほしい。
なかなか思いが聞き入れられなくても、自分の信念に従って主張できる人に育ってほしい。
私はそう考えるのです。「何かを変える」という話は抜きにしても、子どもたちにとって「話す力」はますます身近で重要になってきています。
就職でますます重要視される力
日本経団連は毎年、企業へのヒアリングを通して「選考の際に重視する力は何か」を調査しています。その結果1位となっているのは、2004年以来一貫して「コミュニケーション能力」です。以下の調査結果のグラフのとおり、他の項目を寄せつけない圧倒的なトップです[4]。
コミュニケーションの形は「話す」「聞く」「書く」などさまざまですが、そのなかでも特に「話す」に苦手意識を持っている人が多いという調査結果もあります[5]。
就職・採用の場で「面接」が主流であることは世界共通。話す力があれば内定が取りやすいのは火を見るよりも明らかです。採用の場で話す力が試される理由はとりもなおさず、入社してからもその力が大いに必要だからでしょう。
美容師さんやパン屋さんなどの接客業、医療のMR職や商品・サービスの営業職に就けば、もちろん話す力は必要です。技術者になるとしても、研究職に就くにしても、同僚との意思疎通・成果報告・製品説明・資金調達など、必ずや話す力は必要になります。テレワークで会社に行く時間が減ったコロナ禍においてさえ、いや、同僚に会えないからなおさらのこと、オンラインやチャット上でのコミュニケーション能力が試される場面が増えました。
私はこのコミュニケーション能力が必要とされる度合いはますます強まると思っています。それはなぜか。いつも子どもたちに伝える私の意見は2つあります。
1点目は「検索の時代」になったこと。
かつてはたくさん物事を知っているだけで優秀とされました。しかしいまでは、知識でグーグルに勝てる人は誰もいません。その代わりに、その知識を編集して人に伝える力が大切になっています。
今後さらにAIやロボットが人間に代わって普及するなかでは、人の気持ちをくみ取ってのケアや、対話から新たな価値を見出す力などの、人間ならではのコミュニケーション能力がますます重要になるでしょう。
2点目は働き方が変わってきたこと。
日本には戦後の成長期から、大企業が新卒社員に研修を積ませ育てていくという時代が長くありました。しかしバブル崩壊後、この終身雇用モデルは徐々に崩れていきました。人事コンサルタントの山本紳也氏は、「長期雇用前提で会社に身を任せ、ゆっくりと成長し、ゆっくりとキャリアを積み重ねられる時代ではなくなった」と説きます。
近年では新しい働き方も増えてきています。従業員に専門性を求める企業側のニーズと、自分のキャリアをコントロールしたい働き手の意向が合致する「ジョブ型」や、他部署・他社・他業種ともチームを組んで働く「プロジェクト型」など。コロナ禍で急速に進んだ在宅勤務も、新しい働き方が必要とされるきっかけになっています。
このようななかでは、「できること(能力)と自分がやりたいこと(価値観)を自分自身でしっかり理解し、それを言葉にして伝えることが重要になる」と同氏は言います。
コミュニケーション能力がこれだけ求められているにもかかわらず、日本の公教育でも、進学試験のテストでも、人前で話す力を育むための仕かけは体系化されていません。そのことは第7章で詳しくお話しします。学校の教科にもきちんとまとまった単元として存在せず、子どものうちから鍛えようにも家庭の育成環境に依存する部分が大きい「コミュニケーション能力」。それが社会への入り口に来て「ぶっつけ本番」のように試されるというのは、なんとも残酷で不公平な話ではないかと思うのです。
可能性を生かすための最後の一歩
私は銀行員を振り出しに、金融の仕事を長く続けています。グローバルな仕事の現場で私が見てきたのは、日本人の「話す力」不足ゆえのビジネスの敗北に他ならないものばかりでした。
東日本大震災から数年後のある商談で、日本企業に対するほぼ決定と思われていた数百億円の投資が、目の前のプレゼンで吹き飛んだ瞬間がありました。後日、投資を断った相手に理由を聞いたところ次のような返答がありました。
「あの社長の話を聞いて、あなたなら投資したいと思うか? 何か事件や事故が起きたときに私がすることはただひとつ。経営者に電話して、様子を聞くのだ。あの社長に、工場がいくつ稼働していて、いくつ停止することになったのか、すぐに説明できると思うか?」
背中に矢が刺さったような気分になり、「これはなんとかしないと……」と思った瞬間でした。一方で、プレゼンをした日本人の社長からはこのような言葉がありました。
「一生懸命、資料どおりに説明しようと思っているのに、投資家が勝手にどんどんプレゼン資料をめくっていったから、動揺してうまく話せなかった」
このような例を出すと、「足りないのは英語力だ」という議論になることが多いです。しかし、これらの面談はいずれも通訳を入れておこなわれました。問題は英語だけではありません。英語の前に、日本語できちんと話せていないことも問題なのです。
日本の教育は、読解力や数学的リテラシー、科学的リテラシーの力では、以前から先進国のなかでも高い水準にあります[6]。それにもかかわらず、実際のビジネスの交渉現場で日本人のビジネスパーソンが見劣りしてしまうのはなぜでしょうか? その大きな要因のひとつは、詰め込み型の授業ばかりでみずから発信する機会が圧倒的に足りない教育カリキュラムにあるのではないでしょうか。
たとえ良い商品やサービスがあっても、アピール力で劣り、シェアを奪われる。そもそも社内においても、新しいアイディアの提案が難しく、革新も起こりにくい。話す力という発信力を鍛える教育に力を入れないかぎり、日本はこのまま負け続けてしまうのではないかと危惧します。
話す力を高めることは、まさに「教育のラストワンマイル」なのです。
私はちょうど「就職氷河期」といわれる、企業が採用を急激に絞った時期に就活をしました。ですので、せっかく学業に力を入れて良い成績を残しておきながら、自分をアピールして話す力が足りずに、就活で失敗して人生への自信を喪失してしまった友人たちが周囲にはたくさんいました。本当にもったいない話だと思っています。
「出る杭」が打たれないために──公教育の現場にプレゼン授業を届ける理由
まだアルバ・エデュの活動を始める前、「はじめに」でお伝えした海外のプレゼン大会で私が焦燥感を抱いたときのこと。その帰りの飛行機でさまざまな思いが頭のなかを巡っていました。
「これはどうしたらよいのだろうか?」
「気づいてしまった私が何か行動しないといけないのではないか?」
「でもいきなり発表の練習をやろうなんて言って、子どもが集まるだろうか?」
「テストの点に直結する勉強以外の必要性を説いて、賛同してくれる人はいるだろうか?」
不安は何度か頭をよぎりながらも、私は友人たちにメールを打ち始めていました。
日本の代表がなんだか弱々しかったこと。
表面上のプレゼン技術だけではない、もっと根っこから鍛えるべきだと感じたこと。
できれば、小さくてもよいので「子どもが発表をする会」を開いてみたいこと。
……
おそらく20人くらいにメールを打ちました。すると「それなら自分の子を試しに送り込むよ」と言ってくれた友人が、ありがたいことに何人か現れました。さらには、「公民館でやってみよう」と日程を一緒に確認してくれた友人も……。
6月に帰国して、さっそく7月には記念すべき第1回のプレゼン教室を開くことができました。発声練習をしよう。自分が話したい内容について大きな声で発表しよう。本番までに何度も何度も練習しよう。最初はたったそれだけでした。賛同してくれた大人と参加してくれた子どもが15人ずつ。最初の船出にしては上出来すぎるほどのスタートになりました。その後も公募で人を集め、このワークショップは回数を重ねることができました。
最初はもじもじしていた子が、何度かプログラムに参加するうちに前で堂々と話せるようになった──この瞬間には親御さんと手を取り合って喜びました。
「学校公開で自分の子が手を挙げているのを初めて見た!」
「別人のように声が大きくなった!」
保護者からの喜びの声がたくさん集まるようになっていきました。
●「公募」のワークショップの限界
しかし、毎月開催するようになったこの公募のワークショップにも、ある限界が訪れました。このような取り組みへの感度が高い親がいるおうちの子しか来ないのです。
これでは日本は変わらないじゃないか……。
そこにさらなる衝撃が訪れます。「授業公開で、うちの子が初めて手を挙げているのを見たんです、感動です!」とおっしゃっていた親御さんから、ある日一転して次のような報告を受けてしまったのです。
「あまりにも意見を言いすぎるようになって、子どもがクラスで浮いてしまっています……」
なんということでしょう。「出る杭が打たれる」文化のなかでは、一部の子どもたちだけを対象にしていては不十分なのです。
では学校ごと変えなければ──これが、私たちが学校の教育現場まで赴いて授業を届けるようになったきっかけでした。
最初は、100を超える学校に手紙と資料を送っても、どこからも受け入れてはいただけませんでした。いま思えば、実績もない我々を受け入れてくれる学校などあるわけもなかったのですが、とにかく「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」と言わんばかりに、必死に手紙に自分の思いを書いては校長先生たちに送っていました。
そんなある日、息子が通う学校の先生からお声がかかりました。
「竹内さん、5年生の単元に『プレゼンテーション』があるので、よかったら授業をしてもらえませんか?」
天にも昇る気持ちでした。いまでも、その授業で見た子どもたちの真剣なまなざしを思い出しては胸が熱くなります。
そうして出前授業の回数を重ねること8年。これまで4万人以上の子どもたちに授業を届けることができ、自治体単位で教材を採用してくれる地域まで現れるようになりました。
●来るのを待つだけでは、本当の変化は起こせない
2020年3月、コロナ禍での全国一斉休校。「学校現場に赴く」を信条としていた私たちの活動は頓挫しかけました。
それでも、子どもたちの成長は待ったなしです。多くの現場を回り、教育制度が抱える課題も、子どもたちが持つ可能性も、どちらも見てきた私たちが動かなくてどうするんだ──そんな思いから、オンラインでの授業を休校開始当日から展開しました。
当初は寄付を受けながら授業自体は無償でおこなっていましたが、休校期間が終わると寄付も落ち着いてしまいました。子どもたちは集まるけれど、寄付は集まらない。それでは私たちも継続は難しい。そこで「ワンコインでも……」と徴収をすると、またしても限られたおうちの子しか来ないという「いつか来た道」になってしまいました。たとえワンコインであっても、生活状況を考えれば厳しいという家庭は想像以上に多いのです。
そこでクラウドファンディングをおこない、経済困窮世帯への授業提供を始めたのが2021年1月。全国どこへでも届けられる、スマホがあれば受講できるというオンラインの利便性を生かし、少しでも多くの子どもに授業を届けたかったのです。このときの知見はいまの活動にも生きており、登校している子も学校に来られない子も同時に参加できるリアルとオンラインのハイブリッド授業や、自宅に居場所のない子どもたちが集う場所への授業提供も併せて続けています。
授業を受けにくる子どもたちをただ待っているだけでは、本当の変化は起こせません。私たちから子どもたちのもとへ赴く。直接行けないのならば、それに代わる手段を探す。あの手この手で、子どもたちが誰も取り残されないようにと頑張っています。
***
「話す力」という教育のラストワンマイル。厳しい事例も紹介してきましたが、絶望する必要はありません。第1章で説明したとおり、この力は適切なトレーニングさえあれば鍛えられるのです。
総合競技「プレゼン」を鍛えれば、話す力のすべてが育つ
続く第3〜5章では、私たちアルバ・エデュが「話す力」をどのように育んでいるのかをご紹介します。そこには、私が200社以上の企業のプレゼンを支援してきた経験と、子どもたち向けに私たちが8年間実践してきた経験が凝縮されています。
●最も難度が高いコミュニケーション・スタイル
大くくりに「話す」といってもさまざまな場面があります。ひとり言、身近な人とのおしゃべり、もう少しかしこまった対話、複数人での議論、そして、多くの人の前でおこなうスピーチやプレゼン……それらのなかでもこのパートでは、「プレゼン」に特化して語っていきます。
その理由は、プレゼンが多くの人にとって最も緊張し、難度が高いものだからです。以下の図は、JTBコミュニケーションデザインによる調査結果です[7]。コミュニケーションに関しての苦手意識を調査した結果、1位は「複数の人の前で発表する」こと。実に4人に3人が苦手意識を持っていることがわかります。
人前に立ち、「さぁ話そう」と思ったときに起こる、手汗、足の震え、口の乾き……このような一連の症状は、原始的な脳といわれる大脳辺縁系の反応から起こっています。これは原始人が野獣に遭遇したときの「逃げるか戦うか」という体の反応と同じなのだそうです。
この最も緊張度が高い「複数の人の前で発表する」ことが恐怖でなくなれば、それより緊張度の低いコミュニケーションはずいぶん楽になるはずです。
また、プレゼンはビジュアル資料(スライドやフリップなど、視覚的にわかりやすくするツール)を使い、より総合的なコミュニケーションである点も重要です。スピーチとプレゼンの違いや定義は多様ですが、この本では、口頭のみでおこなう発信をスピーチ、ビジュアル資料の使用を前提にしているものをプレゼンとしています。
●一気通貫で学ぶ機会が重要
現代の西洋の学問体系は、ギリシャ時代およびローマ時代に形づくられ、5世紀ごろに高等教育のための基礎的な学科として成立した「七自由科」に端を発します。そのなかでも中心的な学科が「修辞学」。これはプレゼン技術の発端とも言えるものです。
この修辞学を教育課程に落とし込む基礎をつくったのは、1世紀にスペインで生まれ、ローマで学んだ学者クインティリアヌス[8]。彼は、修辞学は学問として体系的に学校で学ぶことが必要だとし、弁論を形成する要素として「発想」「配列」「措辞」「記憶」「口演」の5つをあげています[9]。それぞれが意味するところは次のとおりです。
発想 テーマを決める
配列 話す流れを考える
措辞 言葉を磨く
記憶 内容を覚え込む
口演 聴衆に対して発表する
これが現代に引き継がれているのです。
他方日本では、プレゼンに関するこのような教育体系がありません。江戸から明治期におこなわれていた「問答」が一斉教育法の導入により廃れてからは、もっぱら「読み書き」を中心とする勉強の仕方が定着したのです。
それでも実は、そんな日本の授業をよくよく見てみると、いろいろな単元のなかにプレゼンに関する要素は潜んでいます。国語では文章のつくり方を、算数ではグラフや表のつくり方を、数学では論理を学びます。また、音楽では発声練習があり、図工では絵や造形による表現を学び、ダンスが必修になった体育では身体による表現を学びます。
これらをひとつの力にまとめ、相手に何かを伝えるものがプレゼンです。つまり、プレゼンは「総合競技」のようなもの。これまでの日本の教育には、プレゼンに必要なさまざまな力を一気通貫で学ぶ機会がなかっただけなのです。
そこで私たちは、米国の指導要領「コモン・コア」や各国の国語やパブリック・スピーキングの教科書も参考にしつつ、日本の教育やそこで育まれている子どもたちのメンタリティも大切にして、話す力を育むプログラムを練り上げて実践してきました。
プレゼン力を構成する3つの要素
私たちの授業では、以下の図のような「考える」「伝える」「見せる」の3段ピラミッドの絵を見せながら、それぞれの要素について伝えています。
考える 「イイタイコト」(主張)を見つけ、プレゼン内容を練り込む
伝える 声や目線なども意識してメッセージを届ける(デリバリー)
見せる フリップやスライドなどのビジュアル資料をつくる
この図には3つの意味があります。
「考える」「伝える」「見せる」のすべてがそろってようやくプレゼンが完成する
積み上げている「順番」どおり、下段の「考える」 → 中段の「伝える」 → 上段の「見せる」の順に鍛える(細かくは後述しますが、それぞれの項目を行ったり来たりすることや、項目を横断して検討する事項が出てくることもあります)
各ステップの「体積」が示すように、鍛えるのに使う時間の量も「考える」 → 「伝える」 → 「見せる」の順番になる
続く第3〜5章では、それぞれの章でこの順番に沿って伝えていきます。まずは、プレゼンの内容(コンテンツ)をつくる「考える力」の育み方についてです。
(注)ウェブ掲載にあたり、可読性向上のため改行などに変更を加えています。
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