『恐れのない組織』の第1章「土台」(冒頭一部)を公開します。
生まれたばかりのその双子は、見た目は健康そうだが、妊娠わずか27週目での早産であったため「ハイリスク児」と考えられた。幸い、双子が生まれた多忙な都会の病院の医療チームには、新生児集中治療室(NICU)の担当者が加わっていた。
新生児ナース・プラクティショナー〔医師の指示を受けることなく一定レベルの診断・治療を行える看護師〕の若いクリスティーナ・プライス(仮名)と、銀髪の新生児学者で医師のドレーク(仮名)である。
双子を見て、クリスティーナは首を傾げた。最近受けた研修では、ハイリスク児には肺の発達を促す薬をできるだけ早く投与することが、新たに確立されたベスト・プラクティスとされていた。超早産の赤ん坊はふつう、子宮外でしっかり自力呼吸できるだけの肺がまだ育っていないためである。
ところが医師であるドレークは、その薬(予防的サーファクタント)の投与を指示していなかった。クリスティーナはドレークに対し、それとなくサーファクタントのことを持ち出そうとしたが、そのときハッとなった。前の週に、指示に疑問を投げかけた別の看護師を、ドレークが人前で厳しく叱責していたのだ。
双子はきっと大丈夫だと、クリスティーナは自分に言い聞かせた──何か理由があってドレークはサーファクタントを使わずにいるにちがいないし、いずれにせよ、判断するのは医師であるドレークだ、と。そして彼女は、問題を提起するという考えを追い払ってしまった。それに、ドレークは朝の回診のために、白衣をひらめかせ、すでにきびすを返してしまっていた。
無意識に計算をする人たち
迷った末に意見を言わないことにしたとき、クリスティーナは素早く、ほとんど無意識にリスク計算──およそ誰もが一日に何度も行う、ささやかな判断──をしていた。
自分でも気づかぬうちに、クリスティーナは、軽視あるいは叱責されるリスクと、たとえ叱責されても投薬を促さなければ双子を危険にさらしかねないリスクを天秤にかけていたのである。医師であるドレークのほうが知識が豊富だし、意見を言ったところで受け容れられるはずがないという思いもあった。
彼女は無意識に、心理学者が「未来を軽視する」と呼ぶ行動をしてしまっていた──患者の健康という、時間はかかるがより重要な問題を深く考えず、医師が即座にするであろう反応を重視しすぎてしまったのである。
私たちについ未来を軽視してしまう傾向があるなら、無益なあるいは不健康な行動(チョコレートケーキを余分に1つ食べてしまう、骨の折れる仕事を先延ばしする、など)がそこかしこにあふれているのは道理だ。
さらに言えば、そのようなありがちな問題行動のなかでも、職場で率直に発言できないというのは重要な、しばしば見過ごされている行動の典型である。
多くの人と同様、クリスティーナは気づかぬ間に、職場での自分のイメージをコントロールしていた。著名な社会学者のアーヴィング・ゴッフマンが、独創性に富む著書『行為と演技──日常生活における自己呈示』(誠信書房)で述べたように、人間である私たちはさまざまな付き合いのなかで情報をコントロールし、それによって、他人に与える自分の印象に絶えず影響をもたらそうとしている[2]。これは意識的にも無意識にも行っている。
別の言い方をすると、どんな人でも朝、目覚めて気が重いのは、勤め先で無知・無能に見えたり混乱をもたらす人だと思われたりする場合だ。そのように思われるのが対人関係のリスクと呼ばれるものであり、無意識かもしれないが、およそ誰もが避けたいと思っている[3]。実際、大半の人は、頭がよく有能で役に立つ人間だと他人から思われたいと願っているのだ。
職業、地位、ジェンダーにかかわらず誰もが、人生の比較的早い時期に、人間関係上のリスクをコントロールできるようになる。子どもは小学校のある時点で、他人にどう思われているかが重要であることに気づき、拒絶あるいは軽蔑されるリスクを下げる方法を身につける。
大人になる頃にはたいてい、そうするのが本当にうまくなっているのだ。達人張りにうまくなってしまうため、それをするのにもはや意識的に考えることもない。無知だと思われたくない? それなら質問するな。無能に見えたくない? それならミスや弱点を認めるな。事態をややこしくする人間だと言われたくない? それなら提案するな。
意義ある行動より見た目の申し分なさを重視するのは、社交の集まりでは妥当かもしれないが、職場ではそうした傾向によって重大な問題が起こりかねない──イノベーションが阻害されたりサービスの質が低下したり、最悪の場合には人命が失われたりするかもしれないのだ。それなのに、他人に軽視される結果を招くかもしれない行動を避けることが、大半の職場でほとんど習慣になってしまっている。
影響力の強い経営理論家ニロファー・マーチャントが、アップルの幹部を務めていた頃を振り返って次のように述べた。「ミーティングでは、ほかの人が気づかない問題点が、私にはとてもはっきり見えることがよくあった」。だが、「間違っている」ことを恐れて、「何も言わず、傍観することを覚えた。ほかの人を敵にまわさないように。私は、発言して愚かに見えてしまうかもしれないリスクを冒すより、安全地帯にとどまることによって、仕事を維持したいと思った[4]」。
率直な発言の経験に関するある調査では、85パーセントの人が次のように回答した。重要な問題について懸念を抱いても、上司に話すのは無理だと感じた経験が、少なくとも一度はある、と[5]。
それは組織の下位層の人々に限った行動だと思うなら、大手電気会社に幹部チームの一員として採用された最高財務責任者(CFO)のケースを考えてみよう。
ある会社の買収計画を強く懸念しているにもかかわらず、この新任のCFOは何も言わなかった。他の幹部が皆、乗り気であったため、彼らの判断に同意したのである。
のちに、その買収の失敗が明らかになると、幹部チームはコンサルタントとともに集まって事後検討を行った。自分のどんな行動が今回の失敗の原因となった可能性があるか、あるいは、何をすれば回避できたかもしれないかを、一人ひとりがよく考えるよう求められた。
今ではもう部外者ではないCFOは、早い段階から懸念を抱いていたことを打ち明け、さらに、率直に発言しなかったことでチームの力になれなかったことを認めた。他のメンバーが皆とても乗り気であったため、「ピクニックを台無しにするイヤな奴」になるのがはばかられたのだと、CFOはひどく申し訳なさそうに訴えた。
率直に発言せず、安全地帯にとどまって傍観していると、自分の身は守れるが、よい結果につながらず、後ろめたくなるかもしれない。組織を危険にさらす事態にもなりかねない。幸い、クリスティーナと双子の新生児のケースでは深刻な問題は起きなかったが、後述するとおり、率直な発言に対する不安は、避けられたはずの事故を引き起こしてしまうかもしれないのだ。
対人関係のリスクを不安に思うために黙っていると、生死に関わる問題が発生する場合もある。航空機が墜落したり、金融機関が破綻したり、入院患者が無用に命を落としたり。いずれも、職場の風土に関わる理由があり、誰かが率直に話すのを恐れたせいで起きた。幸い、そんな事態にならないようにすることは可能である。
心理的に安全な職場を構想する
もし心理的に安全だと思える病棟に勤めていたら、クリスティーナは、予防的な肺の薬の新生児への投与を必要と考えているのかどうか、ためらうことなく新生児学者であるドレーク医師に尋ねていただろう。
率直に尋ねるという判断をするのは、やはり無意識だと思われる。確認するのが当たり前だからである。結果として治療方法が変わらなかったとしても、クリスティーナは自分の意見が尊重されるのを当然と考えただろう。信頼と尊敬が混ざり合う心理的に安全な文化であったなら、ドレークはクリスティーナの意見にすぐに同意し、調剤室に電話して薬を依頼したか、あるいは、今回はその薬の投与が適切でないと思う理由を説明しただろう。
いずれにせよ、その病棟は結果的によりよくなったにちがいないのだ。薬を投与された患者が命を救われたかもしれないし、新生児医学に細やかな配慮と慎重さが欠かせないことについてチームが理解を深めたかもしれない。
ドレークにしても、部屋を出る前に、注意を促してくれてありがとうとクリスティーナに礼を述べたかもしれない。クリスティーナの率直な発言のおかげで、ミスをしたり、細部を見落としたり、注意散漫になったりせずにすむのをありがたいと思っただろう。
やがてクリスティーナは、双子に薬を与えながら、こんなことを思いついたかもしれない。サーファクタントが、それを必要とするすべての新生児に確実に投与される手順を、NICU(新生児集中治療室)に整えられないだろうか、と。そして、仕事の合間に看護師長と会って提案したかもしれない。心理的安全性は、(クリスティーナとドレークのような)個人と個人の間ではなく、職場集団(ワーク・グループ)のなかに存在する。そのため、看護師長がクリスティーナの提案を受け容れる可能性は高いと思われる。
率直な発言は、職場で人々が行う各種の意見交換(ミーティングで積極的に懸念を述べることから、同僚にフィードバックすることまで)がどうあるべきかを示している。これには電子的コミュニケーションも含まれる(ある件について明確にしてほしい、あるいはプロジェクトを手伝ってほしいと頼むために、同僚にあらためて電子メールを送る、など)。
率直な発言という有益な話の仕方には、電話会議で別の考え方を提起したり、報告書について同僚に意見を求めたり、プロジェクトが予算をオーバーしていることや予定より遅れていることを認めたり、──21世紀の仕事の世界を形づくる、言葉による無数のやりとりが含まれるのだ。
言うまでもないが、率直な発言はさまざまな程度の対人関係のリスクを孕んでいる。ひどく不安を覚えたのちに話す場合もあれば、無理なく楽に話せるケースもある。一方で、NICUのクリスティーナのように、対人関係のリスクを(意識的にせよ無意識にせよ)考えて沈黙することを選んでしまうために、全く話せない場合もある。
考えや懸念や疑問を気兼ねなく話すことは、多くのマネジャーが気づいているよりはるかに頻繁に、決まって対人関係の不安によって邪魔をされる。この手の不安は、はっきりとは見えない。沈黙しようと思う人が──声を出せたとして──、これから沈黙しますと宣言することはまずない。やがて時間が過ぎて結局、意見を言わずにいた者がいちばん賢かったことになる。
対人関係のリスクを取っても安全だと信じられる職場環境であること。それが心理的安全性だと、私は考えている[6]。意義ある考えや疑問や懸念に関して率直に話しても大丈夫だと思える経験と言ってもいい。心理的安全性は、職場の仲間が互いに信頼・尊敬し合い、率直に話ができると(義務からだとしても)思える場合に存在するのである。
心理的安全性のある職場には、クリスティーナが経験したような、一回一回は些細でも、やがて重大な影響をもたらすかもしれない沈黙はほぼ生まれない。代わりに、人々は思うがままを話す。そして、率直な本物のコミュニケーションを促進し、問題とミスと改善の機会にスポットを当て、知識とアイデアの共有を増やしていく。
後述するが、ゴッフマンが面子を保つという興味深いマイクロ・ダイナミクスを研究したのを機に、職場における対人関係のリスク・マネジメントを私たちは深く理解できるようになった。
今では、心理的安全性がグループの特徴として表れることや、対人関係の文化が組織内のグループごとに大きく異なることが明らかになっている。強力な企業文化を持つ会社であっても、部署によって心理的安全性が高かったり低かったりするのである。
クリスティーナが勤める病院を例にとろう。ある治療ユニットでは、看護師は臆せず医療上の決定について異議を唱えたり疑問を呈したりできるが、別のユニットでは、そんなことは到底できないと思われている。こうした職場風土の違いによって、行動はそれとなく、だが強力に方向づけられる。
(注)ウェブ掲載にあたり、可読性向上のため、改行を加えています。
原注
[1] Rozovsky, J. "The five keys to a successful Google team." re:Work Blog. November 17, 2015. https://rework.withgoogle.com/blog/five-keys-to-a-successful-google-team/(2018年6月13日に閲覧)
[2] Goffman, E. The Presentation of Self in Everyday Life. Overlook Press, 1973. Print. [E・ゴッフマン『行為と演技―日常生活における自己呈示』(石黒毅訳、誠信書房、1974年)]
[3] Edmondson, A.C. "Managing the risk of learning: Psychological safety in work teams." International Handbook of Organizational Teamwork and Cooperative Working. Ed. M. West. London: Blackwell, 2003, 255-276.
[4] Merchant, N. "Your Silence Is Hurting Your Company." Harvard Business Review. September 7, 2011. https://hbr.org/2011/09/your-silence-is-hurting-your-company(2018年6月13日に閲覧)
[5] Milliken, F.J., Morrison, E.W., & Hewlin, P.F. "An Exploratory Study of Employee Silence: Issues that Employees Don't Communicate Upward and Why." Journal of Management Studies 40.6 (2003): 1453-1476.
[6] Edmondson, A.C. "Psychological Safety and Learning Behavior in Work Teams." Administrative Science Quarterly 44.2 (1999): 350-83.