行き詰まりを乗り越える、特別な話し方・聞き方とは?━━『それでも、対話をはじめよう』の「はじめに」全文公開
手ごわい問題が平和的に解決されることはめったにない。たいてい、まったく解決されずに「行き詰まる」か、あるいは力の行使で決着をつけるかのどちらかである。もどかしく、おぞましい結果に終わるのは日常茶飯事だ。家庭では、何度も何度も同じ口論がくり返され、ともすれば親が頭ごなしに叱りつける。
組織では、どこかで見たような危機がくり返され、ともすれば上司が新しい戦略を命ずる。地域社会は物議を醸す問題をめぐって分裂し、ともすれば政治家が答えを押しつける。国同士では、交渉で行き詰まり、ともすれば戦争をはじめる。問題の関係者たちは、どの解決策をとるかについて合意できずにいるか、一部の力(権力、金、銃など)を持つ人々が自分たちの答えを他の全員に押しつけるかのどちらかである。
手ごわい問題を解決する方法はもう一つある。関係者たちが互いに話し、聞き合う対話によって、平和的に解決に取り組むことだ。しかし、この方法は、容易に結果につながらず、時間がかかり過ぎるため、力の行使がてっとり早い既定路線となる。
私が本書を執筆したのは、手ごわい問題を解決しようとしている人たちが、もっと上手に対話できるよう、そして対話することでより多くの結果を生みだし、もっと頻繁に平和的な方法を選択できるようにするためだ。私は、対話することが、信頼できる第一の選択肢になってほしいと願っている。
問題が手ごわいのは、三つの面で複雑だからだ。まず、ダイナミクスの観点で複雑である。つまり、原因と結果が空間的・時間的に離れているため、それらを直接的な体験から把握することが難しいのだ。
次に、生成的(ジェネレイティブ)に複雑である。つまり、変化がなじみのない、予測不可能な形で展開する。
そして、社会的(ソーシャル)に複雑である。つまり、関係者たちのものの見方が大きく異なるため、問題は二極化し、行き詰まるのだ。
話し合いによって複雑な問題を解決できないことはよくあるが、たいていは私たちの話し方と聞き方が原因だ。もっともよくある話し方は、ただ主張することである。つまり、物事がどうなっていて、どうあるべきかについて唯一の真実を主張し、他の真実や可能性がありうることを認めないのだ。
そして、もっともよくある聞き方は、他の人の話を聞かないことだ。つまり、自分自身が話すことにのみ耳を傾け、自分以外の人の話は聞いていないのだ。このような話し方や聞き方であっても、単純な問題なら解決しうる。権力者や専門家が問題を細かく切りわけて取り組み、過去にうまくいった解決策を適用するのだ。
しかし、複雑な問題を平和的に解決するには、問題の中にいる人たちが、自分たちの状況を理解し、それを改善するために創造的に協働する他はない。
ゆえに、私たちのよく使う話し方や聞き方では、複雑な問題は行き詰まったままになるか、力の行使でしか決着がつかないかのどちらかになることは目に見えている(この単純な解決策で解けないほど複雑な問題など存在しない、とする見方もあるがそれは間違いだ)。私たちはべつの、普段とは違う、よりオープンな話し方と聞き方を学ぶ必要がある。
これが、私が二五年間、専門家として手ごわい問題に取り組んできた結論だ。私のキャリアのはじまりは、解決策を考案することだった。最初は大学で物理学と経済学を学び、次に政府の政策や企業戦略のアナリストを務めた。
そして一九九一年、南アフリカでの思いがけない素晴らしい経験に触発され、問題解決プロセスの中立的なファシリテーターとして仕事をはじめて、人々が自らの解決策を考えだすための支援をするようになった。これまでに、全大陸で五〇カ国の企業や政府、市民社会組織のリーダーシップ・チームのファシリテーションを行い、組織が抱えるもっとも困難なチャレンジに向き合う支援をしてきた。
例えば、シェル、インテル、PwC(プライスウォーターハウスクーパース)、フェデックス、カナダ政府、欧州委員会、南アフリカ労働組合会議、英国国教会司教会議などである。
また、実業家と政治家、軍高官とゲリラ、公務員と労働組合員、地域活動家と国連職員、ジャーナリストと聖職者、学者と芸術家などで構成されるセクター横断的なリーダーシップ・チームのファシリテーションも行い、世界でもっとも困難な問題に取り組む人たちを支援してきた。
例えば、アパルトヘイトから転換する際の闘争中の南アフリカ、内戦真っ只中のコロンビア、大量虐殺の余波の残るグアテマラ、社会崩壊した際のアルゼンチン、そして深く分裂したイスラエルとパレスチナ、キプロス、パラグアイ、カナダのケベック州、北アイルランド、バスク地方の人たちなどである。
こうしたさまざまな世界を行き来することによって、私はどのように手ごわい問題を解決できるか、あるいはどのように解決できないかを理解できるようになった。多くの類いまれな人たちと、多くの非凡なプロセスを通じて仕事をする機会に恵まれてきた経験から、特別な状況だけでなく、通常の状況にも適用可能な結論を導き出したのだ。
生きるか死ぬかの対立の強烈な光の中では、人々がどのように新しい現実を創造するかのダイナミクスは、極彩色で描かれる。そうしたダイナミクスを見てきた結果、今では、色彩が抑えられた状況でも、そのダイナミクスを認識することができるようになった。
どのような話し方や聞き方が行き詰まりや力の行使を生むのか、そしてどのような話し方や聞き方をすれば、もっとも困難な問題でさえも平和的に解決できるのかを学んだのだ。
行き詰まった状況を描いた映画の中でも私のお気に入りは、『恋はデジャ・ブ』というコメディ映画だ。
ビル・マーレイが演じるフィル・コナーズは、皮肉屋で自己中心的な気象予報士である。米国ペンシルベニア州の小さな町パンクサトーニーで二月二日に迎えるグラウンドホッグ・デイについて取材した。フィルはその仕事と町を見下していた。翌朝、目を覚ますと、再び二月二日であり、そしてその日に起こる出来事を再度切り抜けなければならないとわかってゾッとする。
これが毎朝くり返されるのだ。彼は何度も何度も同じ日をくり返し経験しては行き詰まる。番組プロデューサーのリタにこの循環を説明するが、一笑されてしまう。このくり返しを断ち切ろうと、怒ってみたり、愛想よくしてみたり、自殺してみたりと、あらゆることを試してみるが、どれも効果はない。
最終的に、リラックスして今を味わい、その町とリタに対して自分をオープンにしていく。そうして初めて、目が覚めると新たな一日とよりよい未来を迎えているのだ。
私たちの多くは、フィル・コナーズの体験と同じ状況に陥る。自分の意見や計画、アイデンティティ、一つの真実に固執することによって、行き詰まるのだ。だが、リラックスして「今ここ」に存在し、自分のマインドと心と意志をオープンにすると、行き詰まりから自分が解放され、周りの世界も解放することができる。
私は、自分がオープンになればなるほど──自分の周囲や内側にある物事のあり方や可能性に注意を払えば払うほど、そして物事のあるべき姿に執着しなければしないほど──より効果的に、新しい現実を生みだす支援ができるということを学んできた。そして、そのような姿勢で取り組めば取り組むほど、私は自分が今ここに存在し、生きていることを実感できる。
ガードを緩めて自分自身をオープンにすることを習得していくにつれ、ますますよりよい未来を生みだす支援ができるようになってきたのだ。
私たちの話し方や聞き方は、世界と私たちの関係を表している。一方的に話すことと人の話を聞かないことの罠にはまると、世界に自分を変えられることを避け、自分の中に閉じこもり、世界を変えられるのは力の行使によってのみだという狭い了見に陥る。しかし、マインドをオープンにし、心をオープンにし、意志をオープンにして話し、人の話を聞けば、よりよい自分とよりよい世界を生みだせるのだ。
(注)ウェブ掲載にあたり、可読性向上のため、改行を加えています。
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