『コーポレート・エクスプローラー』解説全文公開
本書『コーポレート・エクスプローラー』は、「両利きの経営」を理解するためではなく、まさに実践するための本です。本書の意義を十分に理解するためには、この経営理論の本質、そしてこの理論が日本でどのように受け入れられてきたかを振り返ることが欠かせません。
この解説の前半では、両利きの経営の核心を説明し、後半で本書の読むべきポイントをお伝えします。
両利きの経営、4つの論点
上滑りする危険のある両利きの経営
マイケル・タッシュマン、チャールズ・オライリー両教授が提唱した経営理論Ambidexterityは、「両利きの経営」という名訳と、「知の探索・知の深化」というキャッチ・コピーで注目を集めています。
この経営理論は、両教授が1996年にCalifornia Management Reviewで発表した論文Ambidextrous organizations: Managing Evolutionary and Revolutionary Changeをベースとしており、『両利きの経営』(原題:Lead and Disrupt、原著出版:2016年)が2019年に出版されて以降、日本でも広まりました。
成熟企業が「イノベーションのジレンマ」に陥らず、既存事業(コア事業)を深化させながら、新規事業をどのように立ち上げ(探索)、組織全体として進化するかを説明したこの理論は、経営者を中心に賛同を得て、多くの企業の中期経営計画(中計)やビジョンの策定などに影響を与えています。
例えば、中計において「既存事業の磨き上げと成長領域の探索」を掲げる企業や、「収益軸と成長軸の両軸経営」といった独自性を打ち出す企業も現れてきました。
私は、20年以上にわたり、上場企業の経営者に対するエグゼクティブ・コーチングを起点とした全社的な組織変革の支援を行っています。「この先、一本調子ではやっていけないのではないか?」と考える経営者たちにとって、既存事業を回しながら、新しい領域に挑戦する両利きの経営が、彼らの発想や思考に大きな影響を与えていることを肌で実感しています。
一方、実際の組織変革に伴走するなかで、「両利き」という言葉の本質が理解されないままバズワード化し、やがては実践が難しい理論として忘れ去られてしまうのではないか、という懸念を感じる事例に遭遇することも多くなってきました。
例えば、経営者がやみくもに探索活動を形だけスタートさせてしまうケースです。ただでさえ限られた人的リソースで既存事業を回しているので、探索としての新たな取り組みは既存事業の担当者に兼務させる形にならざるをえない。担当者は既存の仕事との板挟みとなり、どうしても足元の仕事を優先する。いつまで経っても探索事業が立ち上がらない。悪循環の連鎖です。
しかし、両利きの基本は、「自社の強みの拡張戦略」です。自社のコアとなる組織能力を別のどの領域に再活用するか、つまり、勝負する領域の設定(本書でいうところの「ハンティング・ゾーン」)と経営資源の再配分が不可欠です。この点を十分に理解していないと、独立した探索部門を設立したものの、経営陣が「形だけ」の両利きに満足してしまい、言わば「両利きの構え」を作ることにとどまってしまうのです。
また、「個人レベルの両利き」と「組織レベルの両利き」の混乱もあります。本来、両利きの経営は「組織レベル」を論じているにも関わらず[1]、個人の副業解禁や「20%ルール(仕事時間の20%を目の前の仕事以外にあてる)」などに飛びついている印象があります。つまり、いつの間にか両利きの経営論が「個人レベルの学習論」に置き換えられているのです。
なぜ、こうした問題や意図せざる誤解が生まれてしまうのでしょうか? 私には、「知の探索・知の深化」(原語ではExplorationとExploitation)という、わかりやすいキャッチ・コピーに、その遠因があるように思われてなりません。わかりやすいが故に、読者側のイメージが勝手に先行してしまうのです。
両利きの経営の本質は「組織としての戦略実行力」
詳しく説明する前に、タッシュマン・オライリー両教授の提唱する「両利きの経営」を改めて定義しておきましょう[2]。
両利きの経営とは、「既存の経営資源や組織能力を再活用して、新しい成長領域を見出す経営」のことです。そのために、同じ会社の中で(オライリー教授の表現では「同じ屋根の下で」)、コア事業を深化させる組織能力と新しい事業機会を探索する組織能力を敢えて同時に追求するのです。
有名な事例としては、やはりAGC(旧旭硝子)が挙げられます。ガラス・メーカーとして世界トップクラスだったAGCが、「ガラスの会社」から「素材の会社」へと進化しました。
その背景には、①自社の存在意義を再定義した上で、②「10年後のありたい姿」を描き、③戦略面で事業ポートフォリオの組み替えを断行し、④戦略を実行するための組織改革(ハード面での組織・制度の再デザイン、ソフト面での組織カルチャー変革)に取り組み、⑤継続的な組織変革を可能とした一枚岩の経営チームの存在がありました。まさに、両利きの経営の実践があったのです[3]。
その結果、従来のコア事業だけではなく、モビリティ、電子部材、ライフサイエンスといった分野の戦略事業が立ち上がり、「素材ソリューション会社」へと進化を遂げたのです。
これまで成功してきた大企業のコア事業の論理は、主として「効率性/リスク回避」です。一方で、新たに始める探索事業の論理は「検証/挑戦」こそが求められます。「同じ屋根の下」で、どうやって異なる事業論理を併存させるのか。両利きの経営を実践するには、様々な組織運営上の工夫(組織の構造的分離と組織プロセスの部分的統合)が必要であり、さらには運営上の矛盾を引き受けるリーダーの覚悟が問われるのです。
理解の鍵は、「組織能力(ケイパビリティ)」です。組織能力とは、組織の行動能力とそれを可能とする組織構造のことです。例えば、いくら事業本部長が新たに大胆な事業方針を決定しても、それを実行するために、「我々は何が出来るようになる必要があるのか?」について合意し、組織の環境設定を整えることができれなければ、その方針は実行できません。つまり、組織能力とは、「戦略実行力」と言ってもよいでしょう。
また、強調すべき点として、ここで焦点があたっているのは、個人の能力(人材育成)というよりも、「その個人を活かす枠組み」だということです。探索事業に携わる人たちの中には、「イノベーションはたった一人からはじまる」という格言があります。
確かにイノベーションの起点となるのは個人の行動ですが、その行動が可能となるような枠組み・システムをどのようにつくるかにこそ、両利きの経営の本質があります。
「知の探索」では不十分
本書のなかで新規事業には「着想、育成、量産化」の3つの原則(イノベーションの原則)が必要だということが語られています。アイデアを出し、その仮説を検証し、利益が出る形でスケールしていくということです。特に本書のなかでは「量産化」が強調されています。なぜなら、そのタイミングでこそ、大企業の経営資源や組織能力を活かすことができるからです。
ところが、「知の探索」という表現でイメージされるのは、以下のような「着想」に関することが大半ではないでしょうか。
異業種の人と会いアイデアのヒントを得る
違う分野の書籍を読む
未知の体験を積む
もちろん、着想も新規事業の重要な一側面ではあります。しかし、両利きの経営の本質、本書の趣旨からしても、重要なのは着想から量産化までを一連の流れとしてトータルに捉えることです。
育成や量産化のタイミングになると、「コア事業とどのような関係を築くか」「コア事業の経営資源や組織能力をどのタイミングで活用するか」など、「組織システム」という観点がとても重要になってきます。
しかし、「知の探索」という表現は、基本的に個人の行動や能力に依拠する「着想」をイメージさせる傾向が強く、両利きの経営にとって重要な「組織システム」という観点から注意を逸らすことにつながってしまったのではないでしょうか[4]。そもそも、もし「知の探索」というならば、それは既存事業においても必要なものです。
つまり、「知」という抽象的な概念や理論を持ち出すのではなく、「コアと探索という異なる論理で動く事業をどのようにマネジメントするのか?」という取り組みこそが実践の鍵なのです。
実践の難しさを個人レベルの学習能力やマインドセットの問題にするのではなく、まず経営者が組織としての活動を促進する環境(組織システム)を整えることが必要です。だからこそ、両利きの経営の実践には、経営者の覚悟が問わるのです。
両利きの経営は第二フェーズへ
オライリー教授は、両利きの経営を概念論ではなく、実践論として捉えてほしい、と繰り返し述べています。私たちは提唱者のこの言葉をしっかりと受け止め、この理論を理解する第一フェーズを終えて、実践する第二フェーズに進む必要があります。
その第二フェーズで出版される本書において、タッシュマン・オライリー両教授に加え、主著者にアンドリュー・ビンズ氏が名を連ねていることの意味は大きいでしょう。
ビンズ氏(通称アンディ)は、マッキンゼーにてコンサルティング経験を積み、2000年前半にIBMに入社。社内コンサルタントとして、当時のIBM全社の事業変革に取り組み、その際、タッシュマン・オライリー両教授に出会いました。両教授は、当時のIBMに対し外部アドバイザーとして事業変革プロジェクトに参加しており、その経験から1996年に発表していた両利きの経営を実行論にまで磨き上げたと言います。
そこで生まれた事例が、本書で紹介されているEBOです(原著者たちが関わったIBMの新規事業開発プログラムで、ここから数十億ドル規模のライフサイエンス事業などが生まれました。本書第1章などを参照)。
変革プロジェクト終了後の2007年にビンズ氏は、両教授と共にコンサルティング会社であるチェンジ・ロジック(changelogic)社(在ボストン)を立ち上げました。以来、当社は両利きの経営の実践を支援する会社として、主に北米と欧州で活動しています。私自身も2022年より当社に参加しており、日本においても積極的に活動しています。
したがって、本書は、両教授の監修の下で、ビンズ氏が十数年にわたる実際のコンサルティングの現場で得た知見やコンセプトが余すところなく語られています。
たとえば、「ハンティング・ゾーン」「サイレント・キラー」「新3C=顧客(Customer)、組織能力(Capability)、経営資源(Capacity)」などです。本書をざっと通読されるだけで、今すぐにでも使えそうなスライドや図表が掲載されていることに気づかれるでしょう。またクライアント企業の許可を得た実例も多数掲載されており、日本企業からは、NECとAGCの事例が取り上げられています。
「探索事業に必要な組織能力とは何か、それを可能とする組織システムとは何か?」という問いに向き合った本書は、まさに、両利きの経営の「実践書」なのです。
ここまで、本書の意義を理解するための前提として、両利きの経営についてお伝えしました。ここからは本書の読むべきポイントを説明していきましょう。
本書のポイント
CEの立場から実践プロセスを追体験
両利きの経営は、戦略論であり、組織論でもあるという、ユニークな経営理論です。それ故に、様々な論点があり、多面的な議論や解釈が可能です。また、事業の存在意義の問い直しに始まり、矛盾した組織活動を同時に追求することによる「組織感情」も扱うこととなります。
つまり、ロジック(論理)だけではなくエモーション(感情・ナラティブ)を視野に入れており、その実践には経営者のリーダーシップ(意思表示と価値判断)が問われる側面もあります。非常に奥行きのある理論なので、1冊の本では語り切れない内容を秘めています。
本書は、日本において3冊目となる両利きの経営関連書です。『両利きの経営』(東洋経済新報社)では、両利きの経営に関する経営理論と主に海外の事例が紹介されました(増補版では、組織カルチャーの重要性とAGCの事例が追加されています)。
拙著『両利きの組織をつくる』(英治出版)では、実際の日本企業の事例であるAGCを取り上げて、日本企業における両利きの可能性、また組織開発の重要性(トップダウンとボトムアップの相互作用による組織変革)を提示しました。
そして3冊目となる本書は、「大企業の中で新しい事業を探索するリーダー」、すなわち「事業開拓の責任者(コーポレート・エクスプローラー、CE)」に焦点をあてたものです。
これまでの2冊は、主に経営者の視点で理論と実践事例が語られてきました。しかし、両利きの経営は経営者のみで実現できるものではありません。なぜなら、経営者のリーダーシップに共感し呼応して動く実務レベルの人間が必要になってくるからです。本書は、豊富な実践事例をCEの視点で読み解き、両利きの経営の実践を描き出します。
注目すべきは、大企業の中で新事業を探索するCEは、スタートアップの起業家とは異なるという点です。ゼロ・ベースで新しい事業を生み出す起業家とは異なり、CEはコア事業の経営資源を活用するという使命があります。つまり、起業家とCEとは似て非なる存在なのです。CEにとって、既存の経営資源活用は、強みであると同時に弱みでもあります。
例えば、コア事業という足場がある故に、事業を立ち上げやすい一方で、コア事業からの抵抗によって事業開発のスピードが思うようにあがらない。それゆえ、CEには二つの顔があります。
一面においてはイノベーターの顔を持ちながら、一方で既存の組織システムに変革をもたらすチェンジ・エージェント(変革者)の顔を併せ持つ必要があるのです。つまり、CEは「コア事業と探索事業の両方を往復できる人材」、言わば、「架け橋となる人材」であると言えるでしょう。
さらに、CEのストーリーからその"頭の中"や"胸の内"を想像できることも本書の長所でしょう。両利きの経営の実現を左右するのは、「組織感情」です。CEという個人に焦点をあてることで、組織の外部からの観察ではなく、当事者の視点から実態を描き出すことを意図しています。
自分は安全なところに身を置いて、外側から冷静に観察しているだけでは、組織を動かしている原動力を感じ取ることはできません。現場では、「正しくても実行できない」という現実がある。タッシュマン・オライリー両教授は研究者の限界を自覚しているが故に、自らコンサルティング会社を設立し、理論と実践の往復運動を続けています。
提唱者たちの観点で言えば、本書は両利きの実践を促すための「3本目の矢」という位置づけになります。読者の皆さんは、CEの立場に身を置き、彼/彼女の思考・行動・感情を通じて、両利きの経営の奥行きの深さを感じ取るとともに、実践の追体験をすることができるでしょう。
失敗事例から学べること
本書の魅力は何と言っても、CEが具体的な活動を通じて、どのように探索事業を立ち上げていくかをリアルに体系的に描いている点でしょう。しかし、個人的には、まず第十章から読み進めることをお勧めします。この章では「失敗事例」が分析されているからです。
なぜ成功している大企業においては探索事業が立ち上がりにくいのか、もう一歩踏み込んで言えば、なぜ探索事業はコア事業に殺されてしまうのか。意図せざる失敗が生まれる事情が生々しく描かれています。実際に探索事業に従事している方が読めば、まさにご自身の葛藤が書かれていると感じられるのではないでしょうか。
10章で注目すべきは、あのGEの衰退の歴史の一部が事例として取り上げられている点です。鳴り物入りで始まったGEデジタルという探索部門が、どのように失速し、やがて失敗に終わったか。その事例を通じて、コア事業が探索事業を殺してしまう「サイレント・キラー」が大企業の中には隠れていることを再認識されることでしょう。
オライリー教授とビンズ氏が来日した際に開催した経営者向けの講演において(2022年7月)、一番反響があったのは、このGEデジタル失敗の事例でした。当時のCEOであったジェフリー・イメルト氏は、時代の先を読んでモノづくりメーカーを進化させる新しいコンセプト「インダストリアル・インターネット」を大々的に打ち出しました。
探索事業部門としてGEデジタルを立ち上げ、外部からビル・ルース氏を招聘したものの、最後はコア事業との妥協を重ねた結果、GEデジタルは形骸化され、その先進的な取り組みは既存事業に「殺されて」しまったのです。
両利きの経営を実践するには、経営者の覚悟(価値判断)が問われる局面が必ず訪れます。参加された経営者にとっては、自社の取組みを振り返り、ご自身の覚悟を問い直す機会となったようです。本書が提示する数々のフレームワークと実践事例は、自社の現在地と実力を確認する絶好の素材となることでしょう。
ありたい姿(Being)だけではなく組織行動(Doing)
コア事業と探索事業では、その事業の論理、リズム、ワーク・フロー(組織プロセス)等がまるで違います。前者は効率/リスク回避が目的であるのに対し、後者は検証/挑戦が目的なので、それらが異なるのは当然です。
オライリー教授は、「実践の鍵は異なる組織カルチャーのマネジメントだ」と繰り返し強調します。なぜなら、事業システムの中でも特に組織カルチャーの形成が最も時間がかかり、経営トップのコミットメントがないと、全社共通のカルチャー、各事業部門において必要なサブ・カルチャーの実現が難しいからです。
オライリー教授の語る組織カルチャーとは、いわゆる社風や風土のことではありません。社風や風土と捉えてしまうと、マネジメントの対象となりえないからです。経営者が取り組むべき組織カルチャーとは、その組織特有の行動パターンであり、経営者の役割は、当該事業に適した行動パターンを生み出すための基準・原則を明示することなのです。
例えば、グローバル空調メーカーのダイキン工業では、「二流の戦略、一流の実行力で勝つ」という合言葉が社内にあります。そうしたモットーを支えている行動原則のひとつに、「答えのないところに答えを出し、走りながら修正する」というものがあります。強い組織カルチャーを有する組織は、価値観としてのありたい姿(Being)だけではなく、具体的な組織行動(Doing)として行動基準を設定しているのです。
流行のパーパスやMVV(ミッション・ビジョン・バリュー)を策定するだけでは、戦略の実行力は高まりません。経営者が必要な組織行動の文脈として、大きな方向性とセットで望ましい行動パターンの基準・原則を再設定し、自ら有言実行する。こうして初めて大企業に潜む「サイレント・キラー」を駆逐する組織行動にスイッチが入るのです。CEに期待される役割とは、これらの基準・原則を体現する「ロール・モデル」であるとも言えましょう。
行動の前提にある思考のあり方
本書は読まれる方の立場によって、様々な読み方ができます。
例えば、CEや探索部門の方にとっては、自らの役割や行動を振り返る鏡となることでしょう。経営者の方であれば、探索部門にどのような支援が必要なのか、さらには具体的にどんな人材をCEに任命すべきかを考えるヒントとなるでしょう。コア事業の方にとっては、CEの行動や言動の背景にある論理や感情を理解するための良いテキストとなるのはないでしょうか。また本社コーポレート部門にとっては、CEに対しては従来の管理型ではなく、支援型のアプローチが必要であることを再認識するきっかけになるでしょう。
様々な読み方と気づきが得られるのが本書の醍醐味ですが、どの立場の方にとっても有益なのは、12章で触れられている「両立する」思考法(Both/And、課題を二者択一ではなく、両立できる課題として捉えなおす思考法)です。前節で組織行動の重要性に触れましたが、行動の前提には思考があることを考えると、その思考のあり方に着目することには大きな意義があります。
状況が複雑で、正解が存在しない事業環境においては、「AかBか」ではなく、「AもBも」という思考が求められます。目標が固定されている状況であるならば、その目標から逆算して、最も効率的な選択肢を選べばよいでしょう。
しかし、目標自体が動いている状況にあっては、AもBも試して、検証を通じて学びながら、自ら正解を作り出していく必要があります。不確実性に対応するアプローチが、従来の論理的な思考法とは異なるのです。
実際、両利きの経営を実践しているAGCの宮地伸二副社長(CFO)は、公開インタビューの場で次のような発言をされています[5]。
AGCは2002年以来、「innovation and operational excellence」をシェアード・バリューとして、掲げてきました。ここにも「and」が表れています。矛盾したものを包摂する思考様式が、AGCにおける両利きの経営の底流に流れているとも言えましょう。
両利きの経営を、「矛盾のマネジメント(Management of Paradox)」という文脈で捉えようとしている研究者たちもいます[6]。また日本にも、矛盾したものを包摂して考えることを「楕円思考」と呼んだ経営者がいます[7]。
不確実性がますます高まる事業環境において、二者択一だけでは乗り切れない経営の局面もあることでしょう。もし判断の選択肢が二者択一に陥り、葛藤やジレンマを感じる場合には、一歩引いて、相矛盾するものを両立できる課題として捉えなおしてみる。それは敢えて組織の中に矛盾を抱え込むことで組織の進化を目指す両利きの経営を実践することの第一歩です。矛盾の中で感じる違和感にこそ、私たちのパーパスにつながるヒントが隠れているのです。
本書を通じて、「両利きの経営」が概念論を越えて、さらに具体的な実践論へと加速することを願ってやみません。
(注)ウェブ掲載にあたり、可読性向上のため、漢数字を英数字に変更する、改行を加える、などの修正を加えています。
解説・注
タッシュマン・オライリー両教授が提唱する「両利きの経営」論は、コア事業と探索事業を構造的に分離する点を特徴としています。組織の構造的分離には、組織間での経営資源の再配分が必要であることから、最低でも事業部レベルでの両利き論を想定しています。つまり、個人レベルやチームレベルでの両利きは想定していない点ついて、注意が必要です。
一般的な両利きの理論研究には、組織学習論と組織進化論の流れがあります。また研究対象も、組織レベルの両利き論から個人レベルまで、幅広い射程を有しています。しかし、タッシュマン・オライリー両教授の提唱する理論は「構造的両利き」と分類されるもので、組織レベルを扱っています 。そのベースにある考え方は、組織経営のシステム論、すなわちコングルエンス・モデル (組織経営の整合性モデル)です。コングルエンス・モデルについては『両利きの組織をつくる―大企業病を打破する「攻めと守りの経営」』(加藤雅則、チャールズ・A・オライリー、ウリケ・シェーデ著、英治出版、2020年)の70頁以降を参照。
AGCの両利きの経営については、以下のサイトを参照。「【超図解】日本初の「両利きの経営」事例企業はどう課題を打破してきたのか」、https://www.agc.com/hub/pr/np_infographic.html
2022年7月の来日時における独占インタビューで、オライリー教授は「両利きの経営は知の探索ではない」と明言しています。(「【本家】両利きの祖師が、日本に『どうしても伝えたいこと』」〔特集:本当の両利きの経営〕、NewsPicks、2022年7月26日号)
『NewsPicks Stage.:New Business Way #1 両利きの経営で企業の進化を加速する―両軸を実現する経営&組織戦略―』(2022年5月25日配信)
Wendy K. Smith, Marianne W. Lewis, Both/And Thinking: Embracing Creative Tensions to Solove Your Toughest Problems (Harvard Business Review Press 2022)
常盤文克著『楕円思考で考える経営の哲学』(日本能率協会マネジメントセンター、2017年)
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