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農耕がもたらした光と闇──『エネルギーをめぐる旅』本文一部公開(2)

火の利用から気候変動対策まで。エネルギーと人類の歴史をわかりやすく解説し、現代に生きる私たち皆にかかわる「エネルギー問題」の本質と未来への道筋を描いた『エネルギーをめぐる旅──文明の歴史と私たちの未来』(古舘恒介著、2021年8月発行)。出版以来大きな反響を呼んでいる本書の一部を公開します。第1部「エネルギーの視点から見た人類史」の第1〜3章、および第4部「旅の目的地」の第1章、計80ページ分を5回にわたって連載。読みごたえのある「旅」を、ぜひお楽しみください。
火の利用による最初のエネルギー革命の軌跡をたどった前回につづき、連載第2回では「農耕」がもたらした劇的な変化を見ていきます。まず訪れるのは、あの有名な物語の舞台となった地域です。

エレヴァン・アルメニアにて

アラブ首長国連邦にある大都市ドバイ。その郊外にあるシャルジャ国際空港を夜明け前に離陸したエア・アラビアG9247便は、典型的な褶曲山脈であるザグロス山脈の連なりを道標にして、アルメニアの首都エレヴァンへ向け、イラン領空を北上していきます。2時間半ほどのフライトののちエレヴァン国際空港への着陸態勢に入った機体の窓から見えてきたのは、残雪を被った標高5137メートルの霊峰アララト山と周囲に広がる緑の大地でした。

現在、人口110万を誇るエレヴァンは現存する世界最古の都市のひとつとされ、遥か昔から栄えてきた文明揺籃の地のひとつです。

現在の街並みは旧ソ連時代に整備されたもので、そこに過去の面影は残ってはいませんが、時代を超えて変わらないものもあります。その象徴的存在が、街のいたるところから眺めることができるアララト山の雄姿です。

日本人にとっての富士山がそうであるように、アルメニア人にとってアララト山は故郷の景色を象徴する大変に美しい山です。アララト山はまた、旧約聖書の創世記にある「ノアの箱舟」が流れ着いた山と考えられており、それがまたこの山に何か特別なものを感じさせる所以にもなっています。メソポタミア文明を支えたチグリス・ユーフラテス河の水源地域にあたることから、アララト山は古代より神聖な山として捉えられていたようです。

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霊峰アララト山とエレヴァンの街並み(marlenka / iStock / Getty Images)

この地域と旧約聖書とのつながりは「ノアの箱舟」だけではありません。同じく旧約聖書の創世記にある「エデンの園」は、エレヴァン周辺の土地を指すと考えられています。実際のところ今でもアルメニアは、アンズにザクロ、イチゴやブドウといった様々な果物の産地として知られており、エレヴァンの街を散策すれば、街のあちこちで果物を売る露店を見かけることになります。ひとたび街を離れ郊外に出れば、道路脇には農家が果物を売る直売店も少なくありません。「エデンの園」は、今も昔も果物天国なのです。

ちなみにアンズは学名をPrunus Armeniaca(アルメニアン・プラム)と呼び、古くからアルメニアを代表する果物となっています。このことから、アダムとイブが食べた禁断の実はリンゴではなく、アンズだったとする説もあるぐらいです。

アダムとイブの物語

神によって創られた最初の人間であるアダムとイブは、地上の楽園であるエデンの園で何不自由なく暮らしていました。しかし、あるときイブは蛇にそそのかされ、エデンの園になっていた果実のうち、決して食べてはいけないとされていた禁断の果実を食べてしまいます。イブはアダムにも食べるよう勧めます。禁断の果実を食べた二人は神の怒りを買い、エデンの園から追放されてしまいます。そしてアダムは痩せた土地に縛り付けられ、日々のパンの糧を育てるために汗水たらして働くことを宿命づけられることになりました。一方のイブは、出産の苦労という罰を受けたのです。

誰もが知っているアダムとイブがエデンの園から追放される失楽園の物語。これは狩猟採集生活の終焉と、農耕生活の始まりについての暗喩であるともされています。豊かな土地からの恵みで何不自由なく暮らす日々から、痩せた土地に縛り付けられ、日々のパンの糧を育てるために汗水たらして農作業に励む環境への転落。そこには、こんなはずではなかったという思いが滲み出ているようにも思えます。

実際、農作業は骨の折れる作業で、収穫は土地の肥沃さに大きく左右されました。限られた種類の穀物に過度に依存するようになり、食生活の多様性も失われました。洪水や干ばつの発生によって、突如として飢餓に襲われる危険も生じるようになりました。人口密度が高まり、感染症も流行りやすくなりました。進化生物学者のジャレド・ダイアモンドの言葉を借りれば、「農耕を始めたことは人類史上最大の過ち」だったのです[1]。

私がエレヴァン周辺を旅した理由。それは「エデンの園」を追放されたアダムとイブの物語をなぞることで、狩猟採集生活から農耕生活へと転換していった人類の歩みを少しでも感じとりたいと願ったからです。なぜ人類は、汗水たらして土を耕すようになったのでしょうか。(以下の)第二章では、人類史上最大の過ちともされる農業革命がなぜ生まれたのか、農業革命の意味するところは何なのかについて、エネルギーの視点から見つめ直してみたいと思います。

*    *    *

自然界は太陽エネルギーの奪い合いの世界

光合成のできない動物たちにとって、食べ物の確保は死活問題です。微生物、昆虫から、魚類、両生類、鳥類、哺乳類に至るまで、皆が、食うか食われるかの食物連鎖のなかで必死に日々を暮らしています。食べられてしまえば、その時点で命はばったりと終わりを告げられることになりますが、生き延びるために必要な量の食べ物を確保できない場合もまた、待ちうける未来は死のみです。

食物連鎖の下位に位置する動物たちは、植物や菌類を食べることで、生きていくために必要なエネルギーを得ます。菌類には地下や深海など太陽光が届かない場所に生息し、化学反応によってエネルギーを得るものも多く存在しますが、私たち人類が従属する地上の生態系においては、植物が光合成によって取り込む太陽エネルギーが一番のエネルギー源となっています。

食物連鎖の上位に位置する肉食の動物たちは、草食の動物を食べることによって間接的に植物を食べていることになります。つまり、私たちを取り巻く自然環境において動物たちがしのぎを削る食物連鎖の世界とは、植物が取り込んだ太陽エネルギーのすべての動物たちによる激しい奪い合いの世界なのです。

動物の一種族である人類もまた、この苛烈な奪い合いに参加する構成員のひとりです。人類が狩猟生活を行っていた時代には、肉食獣や猛禽類との間で力ずくでの獲物の奪い合いを演じてきました。元来、非力であった人類は、大型肉食獣が食べ残した死肉を漁るほかない生活が長い間続きましたが、やがて道具を使うことと集団で狩りをすることを覚え、動物を自ら狩る機会が増えていきます。

狩りにおいては、マンモスに代表される大型動物が狙い撃ちにされました。捕獲の労力に対して得られる食料が多い、エネルギー効率がよい獲物だったからです。鋭い槍で武装した人類は、新たに進出したオーストラリア大陸や北米・南米大陸においては、大型動物をあっという間に根絶やしにしてしまいました[2]。新しい大陸に住む大型動物は、それまで人類を見たことがなく、人類に対する警戒心が薄かったことが原因といわれています。人類の登場が生態系のバランスを永久に変えてしまった最初の実例です。人類のエネルギー獲得欲求は、狩猟採集時代からすでに猛威を振るっていたのです。

農耕により人類は太陽エネルギーを占有した

1万年前頃に始まったとされる農耕は、さらに大きな変化を生態系にもたらしました。農耕、すなわち土地を開墾し田畑を整備して農作物を育てるという行為が意味することは何か。それはその地に自生している植物をすべて追い出して、その土地に注ぐ太陽エネルギーを人類が占有するということです。この壮大な試みは、人類がそのパートナーとなる植物を見つけたときに始まりました。中近東においてはムギ、中国においてはイネ、メキシコにおいてはトウモロコシと、いずれもイネ科の植物がそのパートナーに選ばれています。いずれも栽培が容易で、保存に長けるという特長がありました。

無論、自然界もそうやすやすとは人類に太陽エネルギーを占有させてはくれません。昆虫や鳥類、草食・雑食の動物たちが、人類が手塩にかけて育てた農作物を虎視眈々と狙い、隙あらば、たちまちのうちに食い荒らしてしまいます。雑草も、抜いても抜いてもまた生えてきます。加えて、洪水や干ばつにも、たびたび見舞われることになりました。

それでも農耕による太陽エネルギー占有の効果は明らかでした。農作業に従事する人々の活動によって消費されるエネルギーを大きく上回るエネルギーが、保存のきく収穫物という形で得られたのです。人類は農耕を始めたことで初めて、計画的に余剰のエネルギーを蓄えていくことができるようになったのです。

私たちの脳は、より多くのエネルギーが得られるものを好みます。また、飢えへの恐怖に対して敏感にできています。エネルギー収支の良さと、保存が利く食料を蓄えることができるという農耕の特性は、私たちの脳の関心を惹きつけるには十分でした。こうして一部の地域で農耕生活が定着するようになると、やがて狩猟採集生活に対する農耕生活の優位性を決定づける変化が起こります。

安定的に確保される余剰の食料によって、農耕民の人口が増え始めたのです。それによって生まれた新たな労働力が新しい土地の開墾を進めたことで、農地は確実に広がっていきました。また、数の力で農耕民は狩猟採集民を次第に圧倒するようになっていきました。もともと狩猟採集民が暮らしていた土地へも徐々に侵入し、奪いとっていったことでしょう。こうして人類の生活基盤は、狩猟採集生活から農耕生活へと徐々に移行していくことになりました。

「人類に与えられた罰」がもたらした革命

1万年ぐらい前に人類が農耕を始めたとき、その労働を担ったのは人間そのものでした。それは狩猟採集生活に適応するように進化してきた人類の体にとっては、災難の始まりでもありました。土を耕して堆肥をまき、種を植え、雑草を刈るといった腰をかがめた作業を行うには、人の体は適していなかったのです。定住が進み、人口が増加するようになると、様々な感染症にも晒されるようになりました。

それでも人類は農耕をやめませんでした。「人類へ与えられた罰」というアダムとイブの宗教的視点に立つならば、農耕をやめることが許されなかったといった方が正しいのかもしれません。それがいかに重労働を伴うものであっても、その労働の結果得られる食料がごく一握りの穀物種に依存し、いかに貧しく偏ったものであったとしても、一人当たりの換算で狩猟採集生活から得られるカロリーの倍ちかいカロリーを農耕生活からは得ることができました[3]。

この余剰の食料に支えられて増えていった人口は、やがて狩猟採集生活で支えられる規模を大きく上回るようになり、もとに戻りたくても戻れないところにまで到達してしまったのです。こうしていつしか後戻りできなくなっていた人類は、ひたすらに食料の増産に励むことになります。それがまた人口を増やしていく結果となりました。

私たち人類は、動植物を食べることによって彼らが獲得し体内に蓄積した太陽エネルギーを自らの体内に取り込みます。取り込まれた太陽エネルギーの大半は自らの身体を維持するための代謝に消費されますが、一部は田植えをしたり、モノを運んだりする労働力、人的なエネルギーとして利用されます。

農耕を始めたことによって人類は、大地に降り注ぐ太陽エネルギーをこれまでになかった規模で取り込むことができるようになりました。取り込まれる太陽エネルギー量が飛躍的に増えたことで、人類が使用可能なエネルギーである労働力、すなわち人的エネルギー量も人口増に比例する形で増えていきました。

その効果は絶大で、研究による推定では、農耕生活が始まる以前の 1万2000年前時点では500万~600万人だった世界人口が、1万年後の2000年前には約6億人にまで到達しています[4]。人類が自由に使うことができる人的エネルギー量が、農耕開始前の約100倍に増えた計算になります。このような非線形の変化をもたらした農耕生活への移行は、火の利用に次ぐ、人類史上2番目のエネルギー革命であったといってよいでしょう。

農耕が解き放ったエネルギーが文明を生んだ

人口が増えたことで、社会の構成単位は大きくなっていきます。人口の多い社会では、それだけ活用できる人的エネルギー量も大きくなり、手工業に代表される農耕以外の活動にも積極的に人的エネルギーを振り向けられるようになっていきました。農作業から解放され専門化していった手工業の職人集団は、経験と学習を集中的に蓄積することにより、着実に技術力を向上させていきます。「より賢くなりたい」と望む肥大化したヒトの頭脳が、技術力の向上をけん引したことはいうまでもありません。

このようにして手工業を発展させていった社会の中から特に発達したものは都市を形成していき、やがて文明が勃興することになります。農耕が解き放った莫大なエネルギーが人的エネルギーとして蓄積し、やがてその蓄積された熱量が臨界点を超えたことで、人類に文明という光をもたらしたのです。

農耕がもたらした闇

農耕は人類に文明という光をもたらしましたが、光は闇を伴うのが世の常です。農耕生活がもたらした闇、その筆頭に挙げられるのは戦争の勃発と奴隷制の始まりでしょう。

人類が農耕生活を始めたとき、その土地に降り注ぐ太陽エネルギーを奪い合う競争相手は、しつこく生えてくる雑草に、農作物を食い荒らす虫や鳥、そして草食や雑食の動物たちでした。しかし、農耕生活が定着、普及するに従い、やがてその競争相手に、最も強力でやっかいな生物が加わるようになります。そう、近くに暮らす人類です。こうして土地の支配、すなわちその土地に降り注ぐ太陽エネルギーの確保をめぐって人と人とが集団でいがみ合い戦う、現代にまで連なる戦争の時代の幕が上がったのです。

戦争の勃発は勝者と敗者を生みます。古代において戦いに敗れた人たちは、程度の差はあれ、殺されるか奴隷にされるのが一般的でした。なかでも古代ギリシアや古代ローマは、戦争に敗れた民族を奴隷化することで成り立つ社会でした。人類が活用できる一番のエネルギー源が人的エネルギーであった古代社会では、人を隷属させることには極めて大きな価値があったのです。
古代の文明社会は、奴隷の存在抜きには語ることができません。文明をけん引する上位階層の市民は、下位階層である奴隷を使役することで、自らは汗水たらして働くことなく生活に必要な糧を得ることができたからです。

上位階層者としての生活。これは私たちの脳にとって、理想的な環境です。体内に取り込まれたエネルギーを奪い合う競争相手となる筋肉に対する脳の優位性が保証されているからです。ゆとりを得た彼ら上位階層者である脳の関心は、哲学や芸術といった、食料を得ることとは直接関係のない文化活動へと向けられるようになっていきます。

古代ギリシアでは、アリストテレスが述べた「スコレー」という言葉がキーワードとなりました。これはギリシア語で「暇」を意味し、奴隷に肉体労働や雑事を任せたことでできた時間を、精神活動や自己の充実に積極的に活用する姿勢をいいます。こうして西洋哲学の礎を築いたギリシア哲学が開化することになりました。ちなみにスコレー(Schole)という言葉は、のちに英語のスクール(School)の語源となっています。

現代社会においても一部の貧しい国では、労働力として小さいころから働かされ、スコレーが得られず、学校にすらまともに通うことが叶わない子供たちがいます。学校教育とは、エネルギー収支に余裕がある社会で初めて成り立つものなのです。その構図は、現代社会においてもなんら変わっていません。

古代ローマはヒトの脳に似ている

古代ギリシアを引き継いだ古代ローマの社会は、古代ギリシア以上に奴隷による人的エネルギーの供給に依存した社会でした。戦争に勝利することによって新たに獲得した属州の土地では、ラティフンディウムと呼ばれる大土地所有制により、大量の奴隷を使った農業が盛んに行われます。60ヘクタールのオリーブ畑には13人の奴隷がおり、25ヘクタールのぶどう畑には15人の奴隷がいたと、紀元前の共和制ローマの時代に執政官として活躍した大カトは記録しています[5]。

戦争に勝利することで獲得した土地を、同じく戦争によって獲得した奴隷に耕作させることで収穫物を得る。そして、それを大規模に展開する。これほど効率よく太陽エネルギーを獲得できる農耕の手法はありません。奴隷には労働の対価として粗末な食事を与えるだけでよいわけですから、土地所有から得られる利潤のすべてがローマ人の地主のものになるのです。

実際、ラティフンディウムが普及するにつれ、その多くを所有していたローマ貴族たちには富が蓄積する一方で、自らの手で自分の土地を耕す中小規模のローマ人農家は徐々に競争力を失い、崩壊していくことになりました。彼らの多くはやがて土地を失い、没落農民としてローマに流入するようになります。

同じローマ人である彼らの不満を解消するために始められたのが、いわゆる「パンとサーカス」と呼ばれる施策です。食料と娯楽を提供することで、貴族が富を蓄積することに対する一般市民の不満を逸らそうとしたのです。こうしてローマ市民全体が、奴隷の労働力に基づく属州からの食料供給に依存するようになっていきました。

古代ローマはヒトの脳の生き写しのような存在でした。より多くのエネルギーを求め、ひたすらに膨張を続けたからです。永遠の繁栄が約束されたかのように感じられた古代ローマではありましたが、無限の膨張を前提とする社会は本質的に持続不可能なものでした。地中海世界の覇者となっただけでなく、フランスやドイツに住む蛮族を切り従え、果ては海を渡ってイギリスにまで攻め込んだものの、領土の拡大に比例して統治の難易度も増していくため、徐々に支配地域拡大のペースは落ちていきました。加えて、長年の耕作により属州の土地が次第に痩せていったうえ、3世紀以降、地球が寒冷期に入ったことで、いつしかローマ市民が必要とする量の食料が確保できなくなってしまいます。

こうして食料と奴隷というエネルギー供給源が細ることになった古代ローマは、次第にその勢いを喪失していくのです[6]。

農奴と領主―中世封建社会の誕生

版図拡大のペースが落ち、新しい奴隷の供給が細るようになった古代ローマでは、奴隷に替わる労働力の確保が求められるようになりました。そこで考え出されたのが、奴隷に職を奪われて没落していた元農民たちの囲い込みです。

農園主である貴族は、自らが所有する土地を耕す労働力を確保するため、元農民たちにその土地を貸し付け、地代を取るようになりました。これをコロナートゥスといいます。こうして土地を所有しない農民である小作人が誕生することになります。しかし、農作業を担う労働力の安定的確保が何にも増して重要となる農耕社会においては、この程度の調整では社会に真の安定をもたらすまでには至りませんでした。

農耕がもたらした余剰の食料という超過利潤は、社会において利潤の配分を優先的に受ける貴族ら支配者層と、分け前にあずかれない奴隷や小作人といった隷属層を生むことになりました。このような社会において支配者層には、経済学用語でいうレントシーキング(自己利益のために制度・政策等を動かそうとすること)を行い、社会の秩序やルールを自らの利益を守る形に作り上げていこうとする動機が常に働くことになります。当時の支配者層である土地所有者たちにとっては、農作業を担う労働力を確実に確保することが何よりも重要なことでしたから、社会的に優位な立場を利用して、徐々に小作人への束縛を強めていきました。結果として、当初は自由人としての権利を有していた小作人は、やがて土地の移動を禁じられ、徐々に土地に縛り付けられるようになっていきます。こうして領主と農奴という、中世封建社会の骨格が立ち上がってくるのです。

闇の深さと文明の光

農耕社会とは結局のところ、常に一定数の人たちにアダムが受けた責め苦を負わせることで成り立っている社会でした。こうした闇は、古代から中世に至るまで、程度の差はあれ世界の様々な文明が等しく抱えていた闇だったといえます。これはアダムと同じ立場に置かれた人たちにとってみれば、こんなはずではなかった、という思いを伴う詐欺的なことだったかもしれません。

一方で、こうした犠牲のうえに成立した文明社会という光は、闇の深さを凌駕する勢いで輝きを増していき、仕舞いには新たなエネルギー革命を起こす原動力となります。結果としてそれは、神がアダムに与えた罰を無効化し、工業化社会という新しい社会を生み出すに至る、とてつもない変革を生み出すことになるのです。しかし、その変革を実現するまでには、ある一つの資源を枯渇させんばかりの勢いで徹底して使い倒す必要がありました。

(つづく)

[著者]
古舘 恒介(ふるたち・こうすけ)
1994年3月慶應義塾大学理工学部応用化学科卒。同年4月日本石油(当時)に入社。リテール販売から石油探鉱まで、石油事業の上流から下流まで広範な事業に従事。エネルギー業界に職を得たことで、エネルギーと人類社会の関係に興味を持つようになる。以来サラリーマン生活を続けながら、なぜ人類はエネルギーを大量に消費するのか、そもそもエネルギーとは何なのかについて考えることをライフワークとしてきた。本書はこれまでの思索の集大成となるもの。趣味は、読書、料理(ただし大味でレパートリーも少ない)、そしてランニング。現在は、JX石油開発(株)で技術管理部長を務める。訳書に『パワー・ハングリー──現実を直視してエネルギー問題を考える』(ロバート・ブライス著、英治出版、2011年)がある。

〈注〉
[1] Jared Diamond(1999.5.1) “The worst mistake in the history of the human race” Discover https://www.discovermagazine.com/planet-earth/the-worst-mistake-in-the-history-of-the-human-race
[2] ウィリアム・ソウルゼンバーグ(2010)『捕食者なき世界』文藝春秋P.238-246
[3] ダニエル・E・リーバーマン(2015)『人体600万年史(下)』早川書房P.23-24
[4] 同上P.34
[5] マルクス・シドニウス・ファルクス(2015)『奴隷のしつけ方』太田出版P.43
[6] 古代ローマが衰退した理由については様々な角度から多くの分析、解説がなされているが、本書では主にエヴァン・D・G・フレイザー(2013)『食糧の帝国 食物が決定づけた文明の勃興と崩壊』P.53-83における記述を参考にした。

※この記事は『エネルギーをめぐる旅』第1部の「エネルギー巡礼の旅② エレヴァン、アルメニアにて」および第2章「農耕のエネルギー」をまとめたものです。掲載にあたり本文中の漢数字を算用数字にする、改行を追加する等の変更を行っています。


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