生活と仕事が一体化したラオス(岩佐文夫)

連載:ベトナム、ラオス、ときどき東京
「海外に住んでみたい」という願望を50歳を過ぎて実現させた著者。日本と異なる文化に身をおくことで、何を感じ、どんなことを考えるようになるのか。会社員を辞め編集者という仕事も辞めてキャリアのモデルチェンジを図ろうとする著者が、ベトナムやラオスでの生活から、働き方や市場経済のあり方を考える。

日本人にとって実に羨ましいラオスの日常

先日ラオスでタクシーに乗ると、助手席に小さな女の子が静かに寝ていた。こちらが驚いていると、運転手さんがニヤッと笑い返す。どうやら自分のお子さんらしい。お父さんは仕事をしながら、子どもの御守りをしているようだ。

ラオスに来てから職場に子どもがいる光景をいたるところで目にしてきた。ローカルの食堂では、店の一角に囲いをつくって子どもを遊ばせている。店員さんはその囲いを通るたびに、子どもに一声かけたり、あやしたりする。路上の屋台などでもお店の奥で赤ちゃんが寝ていることが多い。

トゥクトゥクと呼ばれる三輪タクシーも、夕方になると子どものお迎えをした道すがらお客さんを乗せることがある。荷台に運転手さんの子どもと僕らのような外国人が同乗することも珍しくない。

子育てと仕事の両立が大きな課題になる日本から見ると、実に羨ましい光景である。

ラオスでは仕事と生活が一体化しているように見える。家族経営のお店などでは店先に洗濯物を干していて、お店に入るというより人の御宅にお邪魔する感覚に近い。お昼過ぎになると店員さんが昼寝をしていることがあり、起こすのをためらって出直すこともある。

トゥクトゥクの運転手さんは、一日中町中で見かけるが、よく見ると客待ちの時間は友達としゃべったりカフェに行ったり、また荷台にハンモックを吊るして熟睡している人もいる。

制服を来た警察官もカフェでお茶していて、(銃のようなものを床に置いているのを見るとギョッとするが)普通のお客さんに交じって空き時間を潰している。

生活感が出まくりの仕事ぶりは、サービスの質とか生産性などという言葉を持ち出すと議論の余地がなくなってしまうが、仕事とは本来、生活の一部であるということを再認識させられる。

違いを「あっぱれ」と思えるか

日本では仕事に家庭や自分の生活を垣間見せることに抵抗が強い。僕自身、仕事を真面目にしていないと思われるのではないかという危惧があった。だが本来プロフェッショナルとは、仕事の成果に責任を持つことであり、生活と仕事を分離することとは無関係のはずである。

職場に自分の事情を持ち込まない流儀が、お互いを窮屈にさせてしまう側面も無視できない。子育てや介護に追われていること、働きながら勉強していること、自分の趣味の時間を確保したいことを職場で公言できない人も多いだろう。

多様性とは、性別や年齢の違いだけを意味しない。人にはそれぞれの生活の違いがあることを認め合うことである。その違いをないものとして一律な働き方を求めてしまうと、すべての人がその一つの働き方に合わせなければいけなくなる。

それはその人本来の生活ではなく一律的な働き方に合わせるよう「無理」を強いていることにもなる。そしてその状態が当たり前だと思ってしまうと、「無理」をしている自分に気づかなくなってしまう。

もちろん、一人ひとりの生活に合わせた働き方を認め合うのは決して容易でない。ラオスでお店を経営している日本人は、人を雇う苦労が多いことを語ってくれた。その一方で、「あっぱれ」と思うこともあるという。定時になっても来ない社員がいたので電話したら、「今日、友達から急に滝に行こうと誘われた」と。それを聞いて唖然としたそうだが、「そこまで自分を優先できるのが羨ましい」とも思ったそうだ。

ラオスで学ぶべきはこういう違いを許容する姿勢かもしれない。

この話を聞いたあと、屋台の前を通りかかった。お客さんがいないその屋台では、高校生くらいの女の子がひとり、いつものように店番をしている。女の子は屋台の上においたスマホの動画を見て、笑いをこらえられず身体をゆすっている。彼女が仕事を楽しんでいるかどうかは分からない。だが、いまの日常を楽しんでいるのは確かである。

岩佐文夫(いわさ・ふみお)
1964年大阪府出身。1986年自由学園最高学部卒業後、財団法人日本生産性本部入職(出版部勤務)。2000年ダイヤモンド社入社。2012年4月から2017年3月までDIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集長を務めた。現在はフリーランスの立場で、人を幸せにする経済社会、地方活性化、働き方の未来などの分野に取り組んでいる。ソニーコンピュータサイエンス研究所総合プロデューサー、英治出版フェローを兼任。
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