岩佐さんバナー最終回

[最終回]「いったい何があるというのか」と言われるラオス。その田舎に何があったか(岩佐文夫)

「海外に住んでみたい」という願望を50歳を過ぎて実現させた著者。日本と異なる文化に身をおくことで、何を感じ、どんなことを考えるようになるのか。会社員を辞め編集者という仕事も辞めてキャリアのモデルチェンジを図ろうとする著者が、ベトナムやラオスでの生活から、働き方や市場経済のあり方を考える。
連載:ベトナム、ラオス、ときどき東京

悪路を5時間、クルマで走る

「ラオスは田舎がいいですよ」
首都ビエンチャンに住んでいた僕に、現地での生活が長い人はこう言う。「ラオスにいったい何があるというんですか」と言われるこの国の田舎に、それこそ何があるんだろう。

想像もつかない興味が湧いてきた頃、1泊2日の田舎旅行へ行く機会が訪れた。現地在住の日本人Sさんが一緒に行きましょう、と誘ってくれた。

行き先はラオス北部のカシーに位置するナムポッという小さな村。Sさんお知り合いのラオスの人が紹介してくれて、この村の村長さんの家に泊めてもらえることになった。

ビエンチャンからはクルマで約5時間半かかる。公共の交通手段はないので、タクシーを2日間チャーターすることに。運転手さんの日当と宿泊費、さらにガソリン代を含めて総額230ドル。ラオスに来て最大の出費かもしれない。

ビエンチャンを朝の6時に出発。クルマは、ラオスで最も主要な道路である北13号線をひたすら北上する。最も主要な道路とはいえ、そこはラオスなので、路面は日本の道路と比べるまでもない。至るところに舗装が壊れた溝やわだちがあり、ドライバーは数分置きに減速を余儀なくされる。

乗っているだけの僕らでさえ、その振動は相当体に堪えた。一度ドライバーが溝を見落とし、普通のスピードで悪路を通過した際には、一瞬、全身が宙に浮いたほどだ。特にいまは雨季であり、道路はさらに凸凹。また現在、ラオスの北部は中国が鉄道建設をしており、そのためのトラックによる道路へのダメージも大きいとのことだ。

途中でローカルの食堂で朝食、観光地であるバンビエンを散策してそこでランチ。いくつか寄り道し、夕方4時前にカシーの中心地に到着。そこから舗装のされていない山道をさらに5キロ走り、目的地であるナムポッ村にたどり着いた。

どこか懐かしい音、匂い

村は山間の集落のように、高床式の家が所せましと並んでいる。人口は約400人で約80世帯が暮らしているという。ここに村人以外の人が訪れることが少ないのか、僕らは多くの視線を浴びながら、今晩泊めてもらう村長さんの家へと案内された。

村長さんは思っていたよりもはるかに若い。30代かと思って伺ったら44歳とのこと。とはいえ、平均年齢20歳のラオスでは44歳は、もう長老の部類かもしれない。村長さん一家は、奥さまと子どもが3人。子どもの数は村では少ないそうで、多い家には子どもが10人もいるという。

さっそく村長さんに村を案内してもらった。高床式の家は、どこも竹で編んだ壁でできており、隣の家とは1メートルほどしか離れておらず密集している。

家の周りには、犬や猫はもちろん、鶏やアヒル、あるいはヤギや豚も放し飼いされていて、僕らには、どの家の家畜なのかさっぱり分からない。家の周りをこれら家畜とともに子どもたちが走り回って遊んでいる。

多くの家にはトイレもお風呂も洗面所もない。何か所か、村民共有のトイレや水場がある。水場では、体を洗ったり、夕食の用意で水を汲みに来る人などが多い。

村は、さまざまな家からもれる生活音に溢れている。食材を切る包丁の音、ラジオから流れる音楽、子どもたちの笑い声、それにどこからとなく食事の匂いも漂ってくる。

この光景や音がなんだか懐かしい。子どもの頃、近所から魚を焼く匂いやテレビの音が一緒に聞こえてきて、家に帰らないといけない時間が迫ってきているのを感じたものだ。

村から数百メートル離れたところに、プレハブ群が見える。村長さんに聞くと、鉄道工事をするために中国からきている作業員の人が暮らしているという。中国が掲げる「一帯一路」の方針のもと鉄道工事が、いままさにラオスで進行中である。

この大規模な鉄道工事のため、大勢の中国人が作業員としてラオスに単身赴任で来ている。プレハブ群には食堂があり、料理人がつくる食事を中国人は食べているそうだ。村のはずれに村人が経営する居酒屋があるが、ここは中国人相手に商売をしているようだ。

この居酒屋以外、「中国人村」と村人の接点はほとんどないようで、村長さんが数か月に一度、中国村を訪問して、お互いの距離感を維持しているようである。

村の人にとって、この中国村の人たちは不気味に映っているかもしれない。言葉は通じず、単身でこの地に来ている中国人男性とどうかかわっていいか分からない。

村人から不気味にさえ映る中国人だが、彼らの心境も測りかねる。家族から離れ一人知らない異国の地で暮らすわびしさ。おまけに息抜きのできる娯楽施設はない。

同じような中国人がいるとはいえ、友達として来ているわけではない。この山奥で仕事以外の日常に癒されるものを見つけるのは難しいだろう。

夕暮れ時、ぼーっと空を眺める数人の中国人がいた。その多くは誰かと話すわけでもなく、ぼんやりと一人の時間を過ごしているように見えたが、その後ろ姿が印象的だった。

命が食材に変わる瞬間

村の案内を終えた村長さんは、夕食の準備を始めた。それは、鶏を一羽、家に持ち帰るところから始まる。「鳥を絞める」。僕はいまだにその光景を見たことがなかった。

村長さんについて台所に入ると、村長さんは、まず鶏の羽根を1本引き抜く。いきなり随分乱暴なことをするなあと思っていたら、その羽根を鶏の首筋に刺した。

鶏はその衝撃に悲鳴を上げ全身を使って痛みを表現する。それは「まだ生きたい」という叫びのように感じた。テレビで人が殺されるシーンを見ているかのよう。想像を超えた痛みと「生きる」ことへの未練を、この鶏が表現したのだ。

村長は、すかさず首を折り、あっという間に鳥の命は絶たれた。それからお湯をかけ、丁寧に鳥の毛をむしっていく。何度も何度もお湯をかけ、毛がすっかりなくなるまでこの作業を丁寧に続ける。

一つの命が自然の恵みに変わっていく過程を見る思いであった。息を呑みながら見ていたが、とても神聖な儀式を見ている気持ちになった。

夕食は、先ほど捌いた鶏肉のスープと、タケノコ、そしてラオス特有の大量のもち米である。鳥の手はこれまで「不気味」で避けてきたが、この日はすんなりと食べることができた。

食材が一つの生命と引き換えであることの実感は計り知れない。鶏肉はまさに地鶏の噛み応えたっぷり。噛めば噛むほど肉のうまみが口に広がる。そして鳥とショウガでとったスープの香りと美味しさは言葉にできないほどである。

400人がともに暮らし、ともに働く

夕食後は村長さんにじっくり話しを聞くことができた。

村人はみな農業に従事していて、自給自足である。農作業は協力し合って一緒にすることが多い。なので、どの家がどのくらいの収入でどのくらいの生活レベルなのかは筒抜けだ。おまけに家と家の距離も近いし、扉を締め切った家も少ないので、だれがいつ何をしているかも、まるわかり。

現金収入は、米であり、それが年間約1万5000円くらいだと言う。そのため、村人は閑散期に日雇い労働に出るが、一日1300円くらいの収入。これらのお金で電気製品を買ったり、家の修繕に当てたりする。

ちなみにエアコンのある家は一軒もない。テレビのある家は20軒ほど。この日も村長さんの家には、近所の子どもたちがテレビを見に居間に集まっていた。冷蔵庫となると数軒しかないらしい。

家電製品が少ないにもかかわらず、多くの人がスマートフォンを持っているのは驚きだ。村長さんは「誰かが持っていると、みんな欲しくなって買ってしまう」と苦笑い。

こういう話しを聞くと、先ほどの夕食がいかにご馳走だったかがよくわかる。そもそもお肉を食べるのは特別な機会だそうだ。

気がつくと、街灯のない村は真っ暗になっていた。夕食を済ませた家は早々に寝ることも多いようで、夕方の喧噪が嘘のように村は静まりかえっていた。

この日は10時頃には就寝。村長の奥さんが僕らのために、二階に蚊帳つきの寝床を用意してくれた。

村の朝は鶏の鳴き声で始まる。学校に行く子どもたちはその用意に勤しんでいる。共同の水場で洗濯する人や歯を磨く人、畑に仕事に向かう人など。村長さんの家には、朝からテレビを見にやって来る子どももいる。誰がどの家の家主かわからないほど、人の行き来が多い。

一人ひとりが顔見知りであるだけでなく、400人が一つの家族のようなコミュニティとなっており、お互いのことを知り合っている。

お互いのことが筒抜けの社会は息苦しいかもしれない。だが子どもたちの様子を見ると、親だけではなく村のおとな皆から見守られて育っているようだ。

ラオスに住む日本人は、「ラオス人は自己肯定感が高い。親を含め周囲に見守られて育った人たち」と言っていた。また別の日本人在住者は、「悩みを一人で抱えてうつ病になるラオス人は、とても少ないのでは」と言っていたが、これらの意味が分かった気がした。

プリミティブな生活は桃源郷か

村の生活は穏やかで、自然と共存した暮らしは都会の人間からは眩しいほどのプリミティブな生活スタイルが営まれている。同時に、人々が一緒になって暮らす村では、お互いをよく知り、誰もが安心して暮らせる「場」となっている。だからと言って、僕ら日本人の「幸せ」の基準を満たした生活をしている訳ではない。

医療サービスを受けていないことで健康を害する人や命を落とす人も多いに違いない。十分な教育も受けられないことから、農業や日雇いの仕事以外の選択肢は限られるだろう。主観的な「幸せ」は測れない。だが、プリミティブな生活ならではの「生存」への力は、僕ら以上に注いでいるに違いない。

僕はこのラオスの村の人を思い返すと、出稼ぎできていた中国人を同時に思い出す。中国村で過ごす中国人は、食も住も提供されて働くことに専念し、多くのお金を家族のために獲得しているに違いない。しかし自分を癒してくれる相手のいない生活は、どこに日常の楽しみを求めるのか。

一方のラオスの村人は、現金収入の不足に悩まされてはいるが、家や村という安心と安全が保障された居場所がある。自分のモノサシを持ち出すのは野暮かもしれないが、どちらが幸せだろうかと考えざるを得ない。

僕らはなぜ働き方で悩むのか?

僕はラオスとその前に滞在していたベトナムでの合計半年の生活で、日本人がいま見直そうとしている働き方について、ずっと考えていた。仕事の楽しさとは何か、どういう働き方がいいのか、と。

しかし、この村では、歯を磨くことや体を洗うことと同じように、働くことが位置づけられているように思える。働くことが好きとか嫌いとか、仕事が楽しいとか悩んでいるとか、まるでなさそうに見える。

朝晩、歯を磨くように、日が昇ったら畑に行く。それが日常であり、それが刺激的でワクワクするとか、成長を感じるとかではない。

「働く」という動詞だけが存在し、「やりたい(want)」「できる(can)」「すべき(must)」という助動詞がつかない。「働く」、それ以上でもそれ以下でもない。

当然、村の人も貧しさを克服したいと思っていたが、それとて、どこまでが僕の狭い価値観からの見方なのか自信がなく、安易に「べき論」を口にすることはできない。言えるのは、「働き方」という次元の問題意識は、村の人には無関係であろう。

仕事は楽しいかとか、どんな働き方をしたいかと問われても答えられない人は、いまの世界に数十億人いるに違いない。一方の日本人は働くことに意味を見出さないといけないほど選択肢に溢れた世界で生きている。それも「自分で」選択することを強いられる。

得られる自由が多いから生まれる悩み。僕らは、まだ自由との付き合い方を知らず、自由に振り回されているのかもしれない。

ある意味、働き方の選択肢はいまでも十分に広い。だが、生き方の選択は画一的に考えがちになる。プリミティブな生活、生存に関わることに注力しない生活、安全と安心に満ちた生活、など生き方は無数の選択の集合で決まる。しかも、想像もしなかった選択肢はまだまだ見つかる。

ベトナムとラオスで過ごした6か月で、さまざまな働くスタイルを見た。自分自身、会社員を辞め、異国の地でフリーランスで働くという新しい「働き方」を手に入れたし、多様な働き方を実感することができた。

しかしそれ以上に、生き方の多様性の方がはるかに大きいことを知った。自分の価値観では測ることのできない生き方も見た。そして僕にとって未知なる生き方がきっと無数にあるに違いない。

こういう大海原の中で自分がどういう生き方をするかを考えるほうが、はるかに厄介かつ大きな課題であり、自分に迫ってきた焦りでもある。

それに比べると、「どう働くか」は小さな問いに思えてくる。異国で半年「働くこと」というテーマで考えてきたが、より大きく複雑なテーマと遭遇したことで、自分のイシューと思えなくなった。身も蓋もないが、これが僕のいまの答えである。

岩佐文夫(いわさ・ふみお)
1964年大阪府出身。1986年自由学園最高学部卒業後、財団法人日本生産性本部入職(出版部勤務)。2000年ダイヤモンド社入社。2012年4月から2017年3月までDIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集長を務めた。現在はフリーランスの立場で、人を幸せにする経済社会、地方活性化、働き方の未来などの分野に取り組んでいる。ソニーコンピュータサイエンス研究所総合プロデューサー、英治出版フェローを兼任。
(noteアカウント:岩佐文夫

*編集部からのお知らせ

2018年4月に始まった岩佐文夫さんの連載「ベトナム、ラオス、ときどき東京」は、今回が最終回です。お読みくださった皆さん、ありがとうございました!
本連載の終了を記念し、トークイベントを開催します。テーマは「仕事を原点から問い直す」。連載著者の岩佐文夫さん、ソフィアバンクの藤沢久美さん、注文をまちがえる料理店発起人の小国士朗さんをゲストにお迎えします。詳細・お申し込みはこちらから!

10/11(木) 岩佐文夫トークイベント
仕事を原点から考え直す:ベトナム・ラオス滞在6か月の報告会

ゲスト:藤沢久美さん、小国士朗さん