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はじめて担任したのは、「残された時間」を生きる生徒だった(『夢中になれる小児病棟』の第2章一部を公開します)

6月9日発売の『夢中になれる小児病棟――子どもとアーティストが出会ったら』(松本惠里著)。長期入院する子どもたちにアートを届ける活動の経緯と思いを綴った一冊です。

教師になって初めて赴任した先は院内学級でした。長期入院する子どもたちのための病院内にある学校です。このとき担任した子どもたちとの出会いが、活動へと大きく後押しするきっかけとなります。どんな出会いがあったのでしょうか。本書の「第2章 院内学級という原点」のなかで、院内学級の子どもたちについて書いた部分を公開します。

「残された時間」を前にして

教員になって初めて担任を受け持った優くん。

難病を発症してすでに数ヶ月の入院生活を送っていました。ベッド上を無菌状態にする透明ビニールのカーテン、クリーンウォールを通しての始業式に、私も立ち会いました。手指の消毒をし、無菌室用のガウン、帽子、マスクを着用して校長先生と入室。形式的なやりとりを済ませ、午後あらためてゆっくりと病室を訪問しました。

「ほら、先生が来てくれたよ」
「先生? 来てくれてありがとう」

なんて礼儀正しいのだろうと感心していると、次に耳にしたのは、こんな言葉でした。

「先生、ごめんね。僕、もう目が見えなくなって、せっかく来てくれたのに先生のことが見えないんだ……」

発病してから何ヶ月も入院し、治療を頑張ったにもかかわらず身体の機能が低下していく。そんな状況でも私のことを気遣う優くんを目の前に、こんなことがあっていいのか、不条理すぎはしないかと、やり場のない怒りを強く感じました。かたわらにはわが子に起こっている現実を見守るお母さんの姿がありました。その毅然とした表情は、悲しみをなんとか振り払い、運命を受け入れているかのようでした。

優くんはこのとき、すでに治療ではなくターミナルケアを受ける段階でした。残された時間を宣告された生徒を受け持つことになったことに戸惑いながらも、担当していた英語と国語の授業の時間以外も、とにかく空いた時間は彼の部屋へと足は向かいました。

残された時間に、少しでも生きる喜びと楽しさを実感してほしい。そのためには、教科書を読んで聞いてもらうだけではダメだ、と思ったのです。限られた時間のなかで、ほとんど動くことのできない優くんとクリーンウォール越しに何ができるのか、考えることはそればかりでした。

主治医をつかまえては、「クリーンウォールに入って一緒に活動することはできるのか」「どのくらいの時間ならそばにいていいのか」と質問攻めにしました。先生、なんとかしてください! 頭では状況がわかっていても、そんな気持ちもあったのだと思います。

新米教員で病気のことも勉強不足な私は空回りし、職員室で先輩教員にアドバイスを求めても、医療スタッフに関わり方を聞いても、返ってくるのは、「もはやなにかをする、という段階ではない」「ゆっくり話し相手になってあげてください」という言葉だけでした。病状の悪化により面会時間は日に日に短くなっていきます。何を話せばいいのかもわからず、自分の運命を受け入れ静かに病いと闘っている少年を前に、非力さを思い知らされ唇を噛むばかりでした。

一教員として、一人の人間として無力感に押しつぶされるうちに容赦なく時間は過ぎ、3週間後に悲しい日が訪れました。

人生の叡智は逆境が教えてくれると言いますが、私にとってのそれは、まさに優くんとの3週間でした。自分は瀕死の事故から生還し、たび重なる手術と長期の入院に耐え、長く辛いリハビリを乗り越えたのだ。だから、病気の子どもの気持ちもわかるはず。心のどこかでそう思っていましたが、それは単なる自分の驕りだったと気づかされました。力なく横たわり発した優くんの言葉に、頭を強く殴られたような衝撃を受け、ただその場につっ立って身動きさえできませんでした。

「先生、ごめんね」

初めて会った日、今にも消え入りそうな命をふりしぼって、彼にこう言わせた自分ってなんだろう。しかし、彼は私に無力感や悔しさだけでなく、大きな問いも与えてくれました。

病気と闘う子どもたちが、病気のことを忘れて、自分らしく楽しめる時間をどうやったらつくれるのだろうか。

残された時間がわずかであっても、その子らしく充実した日常を過ごすことこそが、今を生きる子どもの尊厳につながるはず。「優くん、君ならどう思うだろう……」。心のなかでそう問いながら、模索する日々が始まりました。なすべき使命に気づかされた、という感覚でした。

子どもたちは、なにに興味を示すのか。心からの笑顔を見せるのはどんなときか。その瞬間を見逃さないように、職員室での業務そっちのけで病棟に身を置くことが多くなっていきました。

「後悔なんかで今日という一日を無駄にしないで! 命をどう使うか考えてよ、先生」

まるでそう優くんに背中を押されているかのようでした。

(中略)

病棟で出会った子どもたち

病棟に積極的に身を置くようになって以来、多くの時間を子どもたちとともに過ごしてきました。教室やベッドサイドでの授業、放課後の病室訪問……。宿題がわからないと職員室を訪ねてくる生徒もいて、病院にいるあいだ中ほとんど彼らと過ごしていたと言っていいくらいです。

先述のとおり、彼らは闘病の苦しみや寂しさ、不安などを抱えながら日々を過ごしています。しかし一方で、そんな心の内側と折り合いをつけながら、限られた環境のなかでいかに楽しむか、自分らしく前向きに過ごすかを工夫する姿も目にしました。院内学級の仲間たちとともに学び、周囲の人々との関わりを通して自分というものを確かめていたようにも思えます。

病気と闘いながら頑張れる自分に、誇りを持っているように見える瞬間をいくつも発見しました。

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拡張型心筋症と診断された小学5年生の正人くんは、入院しながら心臓移植のための渡米を待っていました。ひょうきんで人を笑わせるのが大好きな男の子で、いたずら好きなところが私と気が合いました。

小型の冷蔵庫ほどもある人工心臓に繋がれ、容易に病室から出られない。それでも辛いなどと文句の一つも言わない。そんな明るい正人くんはみんなの人気者で、数人の医療スタッフを従えて、どこかに出かける姿を廊下でよく見かけました。放課後になると病室で、いろんなビーズをあしらったミサンガづくりで何度も盛り上がりました。

改正臓器移植法が2010年7月に施行され、日本でも臓器提供者の年齢制限がなくなり、小児からの脳死臓器提供が可能になりました。しかし正人くんが入院してきたのは改正前。外国人への臓器提供を認めない国は多く、渡米する以外治す方法はありませんでした。費用を集めるために、「正人くんを救う会」が有志により設立され、募金活動が始まりました。

必要額が集まるまで渡航は叶いません。それをいつまで待てばいいのか、見当もつきません。周りの大人は、正人くんが塞ぐことのないように励ましました。しかし、彼は自分への同情がかえって辛かったのか、「大丈夫、僕は平気だよ」とばかりに、当時流行りの芸人のモノマネをしては爆笑を呼んでいたものです。大人を笑わせるのが当時の彼の一番の喜びだったのかもしれません。自分のおどけた姿を見て周りが笑うと、とても誇らしげな表情をしていました。家族、医療スタッフや教員にとっても、周りを笑わせてばかりいた正人くんの屈託のない笑顔と明るさが励みとなっていたようです。

単に受け身で助けられるだけではない。病気であっても、自分が楽しませることに喜びと誇りを感じる。そんな正人くんの力強さは、今でも印象に残っています。その後、正人くんは、集まった募金で無事渡米し手術も成功、今ではすっかり元気になったそうです。

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3歳のころに小児には珍しい固形がんを発症した玲くん。入院での治療を経て、一時は退院して大好きなサッカーの練習に励んでいたのだといいます。しかし時を置かずして再発し、再び長い入院生活を余儀なくされました。彼は中学に入って私の勤め先の病院に転院し、1年後に担任として深く関わるようになりました。

長い闘病生活を経験してきたからなのか、年齢よりもはるかに成熟した彼の言葉は、説得力と重みがありました。一緒にいると自分の未熟さを見透かされている、そして、試されているような気持ちになりました。

「ねえ、先生だったらどうする?」
「これってあんまり人に言わないほうがいいかなぁ」

心の深いところまでぐいぐい入ってくる言葉。狭い穴ぐらのような個室の病室で、秘密会議のような雰囲気になったこともありました。もっとも、気の利いたことなど言えるわけもなく、私はもっぱら聞き役になりました。それでも玲くんの考えに耳を傾けている時間は豊かな時間でした。

努力家の彼は英検を受けるための準備を始めました。筆記試験は院内学級で受けることができますが、二次試験の面接は、外部の会場に行かなくてはなりません。筆記試験を高得点でパスすると、病院から一番近い会場を選んで外出許可をもらい、担任である私も同行のもと、面接を受けました。帰りは帰宅予定時間を少し延ばして、餃子を食べに行ったのもいい思い出です。

シャイな彼は会話は苦手だったけど、本番さながらの練習を何度も繰り返した成果が実り、2回目の面接で見事合格しました。

体力はだんだん落ちていくなかで、高等部に入学すると「医者になる」夢を語ってくれるようになりました。そのためにはどんな準備をしたらいいのか、主治医に相談しながら、参考書をお母さんに買ってきてもらっていました。病室は書籍の散乱する受験生らしい勉強部屋と化しました。

しかし、それから間もなく、彼が危険な状態にあるという報せを受け、私は自宅から病室に駆けつけることになりました。支え続けてくれたお母さんのためにもっと頑張りたい。彼には、そんな気持ちもあったのだと思います。でもいよいよ苦しくて荒い息を繰り返しながら発した声。

「お母さん、もういいかな」

ギリギリまで頑張った玲くんの最後の言葉がいつまでも心に残ります。

「医者になる」前に、命が終わってしまうかもしれないことは、彼自身も感じていたでしょう。それでも、命ある限り、精一杯自分を生きる。そんな決意を秘めた気高さが彼にはありました。そんな彼の姿から、今日を精一杯生きること、今この時を大事にすることの大切さを学びました。

「医者になる」という志を置いていったきり、もう会えないけれど、心のなかで「先生、頑張れ!」と言ってくれる生徒たちの一人です。

(注)ウェブ掲載にあたり、可読性向上のため、改行を加えています。
バナーイラスト:イスナデザイン

〈編集部より〉
入院生活のあいだ、患者としてだけではなく、ひとりの子どもとして生き生きと過ごしてほしい。残された時間を気にするのではなく、充実した日常を過ごして、生きる喜びや楽しさを実感してほしい。では、子どもたちが治療のことを忘れるときってどんなときだろう。そんな思いや問いを手がかりに、活動を模索する日々がはじまります。どのような試行錯誤の末に、今の活動に至ったのか──。ぜひ本書を手にとってみてください。

〈関連記事〉

夢中になれる小児病棟――子どもとアーティストが出会ったら
松本惠里著、英治出版、2021年6月発売

「今」に没頭する時間が、子どもを、親を、病院を変えた──
病気や障がいがある子どもに、アートを届けるNPO。
孤独や未来への不安、治療の緊張感のなかで、「患者ではない時間」が生み出したものとは?

〈目次〉
第1章 患者になってわかったこと
第2章 院内学級という原点
第3章 子どもとアートが出会うために
第4章 子どもが変わる、家族が変わる、現場が変わる
第5章 支援されるだけじゃない!
第6章 その先の支援へ
おわりに──笑顔のサイクル

〈著者〉著者近影
松本惠里(まつもと・えり)
認定NPO法人スマイリングホスピタルジャパン代表理事。外資系銀行勤務ののち、子育て中に教員免許取得。2005年東京大学医学部附属病院内、都立北特別支援学校院内学級英語教員に、09年国立成育医療研究センター内、都立光明特別支援学校院内学級同教員に着任。病院の子どもたちと過ごした経験をもとに、12年、病いや障がいと闘う子どもたちをアートで支援する団体、NPO法人スマイリングホスピタルジャパンを設立。