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「仕方がない」から「仕方がある」へ──『コミュニティ・オーガナイジング』序章を一部公開します

おかしな制度や慣習、困ったことや心配ごと等、社会の課題に気づいたとき、私たちに何ができるでしょうか。11月発売の新刊『コミュニティ・オーガナイジング──ほしい未来をみんなで創る5つのステップ』(鎌田華乃子著)は、人々のパワーを集めて政治・地域・組織を変える手法の入門書です。

社会を変えると言っても、自分にはできないと感じてしまいがちかもしれません。しかし現に日本でも、ごく普通の人たちが社会を変えてきた例はたくさんあります。うまく変化を起こすには何が必要なのか。コミュニティ・オーガナイジングとはどのような手法なのか。本書の序章「「仕方がない」から「仕方がある」へ」を(長いですが)一部公開します。(掲載にあたり見出しや表記を一部変更しています)

社会なんて変えられない?

「仕方がない……」何気なく口にする言葉ですが、日本では社会のことについて特にそう思っている人が多いようです。

内閣府の調査によれば、「私の参加により、変えてほしい社会現象が少し変えられるかもしれない」という項目に「そう思う」と答えた日本の中高生は32.5%。アメリカの中高生は63.1%、ドイツは51.1%です。

若者が、自分の参加によって社会を変えられるとは思えない。日本は「変えられない、仕方がない」国、そういう空気がある国なのかもしれません。
本当でしょうか。日本はそんなに希望のない国なのでしょうか。


環境問題について考えてみましょう。日本は環境パフォーマンス指数で世界12位に入る環境先進国として世界的にも知られており、私たちは綺麗な水や空気を当たり前のように享受しています。

しかし、1950年代~60年代の高度経済成長期には、環境保護への関心は低く、工業活動と経済発展が優先されていました。そのため水俣病や四日市ぜんそくをはじめ、さまざまな公害、自然破壊が日本各地で起こったのです。この問題に政府や企業が対応するようになったのは、公害の被害者やその支援者たちが訴訟を起こし、社会に訴えて、「なんとかしなければならない」という気運を作ったからでした。全国に広がった運動の結果、1970年の国会で14もの公害関連法案が通りました。一般の人々の行動によって政治が動いたのです。

同じ年、ある主婦が「カラーテレビはどの店でもいつも割り引きで売られている。本当の価格はいくら?」と疑問をもちました。アメリカでは日本製のカラーテレビが安すぎると問題視されていた頃のことです。実はメーカーは、カラーテレビへの切り替え需要が旺盛な国内では高くても売れると見込み、海外向けよりもずっと高い価格を設定していたのです。それを知った主婦たちの怒りが爆発。「適正な価格で買えるようになるまでボイコットしよう」という呼びかけが始まりました。当初はこの動きを軽んじていた電機会社でしたが、ボイコットは全国に広がり、業績に影響が出てきました。そして約半年後、松下電器やシャープといった大企業が大幅な値下げに踏み切ったのです。


「仕方がある」「変えられる」のは過去の話ではありません。現代にもあります。

LGBTQ、性的マイノリティという言葉は少し前の日本ではよく知られていませんでした。アメリカでも同じでしたが、1969年にニューヨークのゲイバーに警察の手入れがあったことをきっかけに、LGBTQの人たちが「私にはPRIDE(誇り)がある」とデモ行進をはじめました。日本でも1994年8月に最初のプライド・パレードが行われ、約1000人が新宿中央公園から渋谷・ 宮下公園まで、多様性を表すレインボーフラッグを掲げて行進しました。2011年に現在の「東京レインボープライド」の形になり、2019年には1万人以上がパレードに参加。イベント全体の総動員数はなんと20万人になりました(主催者発表)。 LGBTQに限らず多くの人が参加する、ゴールデンウイークの大きなイベントの一つに成長したのです。

「パレードで何が変わるの?」と思われるかもしれませんが、「いないことになっている」人たちが、「私はここにいるよ!」と社会に訴える、そして誰しもが「そのままの自分でいい」と自分を認めることができる機会になっています。パレードのおかげでLGBTという言葉が日本で広く使われるようになったと言っても過言ではないでしょう。

もう一つ最近の事例で挙げたいのは「子どもの貧困問題」への取り組みです。スラム街など目に見える貧困がない現代日本で、「貧困」は見えにくくなっています。また、現代日本の貧困は絶対的貧困ではなく相対的貧困で、食べるものがないほど貧困な世帯はほとんどなく、生活困窮による家庭環境の問題なのです。栄養のあるものを食べられない、金銭的に習い事や塾にいけない、進学を断念する子どもたちがたくさんいますが、見た目が変わらないため、その困難さに気づかれません。それを「貧困問題は身近にある」と示してくれたのが、全国に広がる「こども食堂」でした。

こども食堂とは、一人でご飯を食べていたり、栄養のあるご飯を食べられずにいる子どもに手作りの食事を提供するものです。週に1回から月に数回の頻度で主に一般市民ボランティアの人たちの手で担われています。2012年に東京都大田区にある「気まぐれ八百屋だんだん」の店主、近藤博子さんが始めたのが最初でした。それがまたたく間に全国に広がったのです。こども食堂の数は、2019年には全国で3718か所になりました。全国に約2万ある小学校の5分の1弱です。本当に支援が必要な子どもが来ない、真の意味で貧困対策になっていない、等の指摘もあります。しかしこども食堂の広がりが、全国に子どもの貧困の存在を知らしめたのは確かです。社会課題は社会の注目が集まるからこそ解決に向かって動き出せます。政府や自治体が市民社会と一緒に取り組み、貧困対策は近年進んできました。

そして2020年には、新型コロナウイルスの感染が拡大する中で、若い世代が活発に動きました。高校生が休校を要請するためにネット署名を行って休校が決定したり、意見表明や署名だけでは聞き入れられなかったところでは高校生が登校をボイコットし、県が休校を表明したりしたのです。感染拡大が深刻になり始めた2020年4月下旬で、ネット署名の活動は200も立ち上がったそうです。今、日本でも「仕方がない」と諦めるのではなく、自ら動いて社会を変えていこうとする人が、若い世代を中心に増えていると感じます。

「日本人は声を上げるのが苦手」は本当か

人々が声を上げることで、社会を変えられる。その実例は確かにあります。

でも多くの人は、世の中のおかしなことを見ないように、感じないように生きているのかもしれません。そのほうが一見楽に生活できるように見えます。世の中に疑問や不満があっても変えられる気がせず、「声を上げるなんて無理!」と思うのではないでしょうか。

日本では目立つことをすると白い目で見られる。他人と違うことをすると、のけものになる。そんなことがよく言われてきました。「和を尊ぶ文化だから」「農村文化だから」など、声を上げるのが難しい理由には事欠きません。

本当でしょうか。私たちはそもそも声を上げるのが苦手なのでしょうか。

そんなことはなさそうです。私たちは「一揆」を歴史の授業で習ってきたと思います。みなさんは「一揆」にどんなイメージを持っていますか? 農民が鎌や斧を持って領主を襲うイメージでしょうか。私も以前はそう思っていました。

しかし調べてみると、面白いことがわかりました。そもそも「一揆」とは民衆による暴力をさすものではなく、「ばらばらの個人をある目的のために一体にし、動く集団」を意味します。つまりたくさんの人と立ち上がって行動することを「一揆」とよぶのです。14世紀から16世紀(鎌倉時代~戦国時代)は「一揆の時代」とも言われているそうで、日本全国で数多くの一揆が起こりました。

たとえば、こんな状況で一揆は起こりました。ある日突然、領主が年貢を引き上げると言い出したのです。それは領主がぜいたく好きで新しい屋敷を建てたいから。でも村ではここ数年、洪水、火山の噴火、日照りなどの天災が続き、農民たちは自分たちの食べるものも殆どない状況です。彼らは怒ります。「もう黙っていられねえ! おらたちの暮らしの苦しさも知らず年貢を上げるなんてとんでもねえ!」

しかし、権力を持つ領主に対して行動を起こすのは、とても勇気がいることです。人々は寄り合いを開き、みんなで一緒に行動しようと決意します。一揆のはじまりです。彼らは神社に集まりました。「領主様に逆らうのは怖いけど、神様になったつもりでやるべ」。みんなで一体になれるように、全員が署名した誓約書を書き、それを焼いて浸した水を全員で回し飲みました。そして蓑や笠を被り、いつもの自分と違う存在、神様になったつもりで行動を起こしたのです。

一揆と言っても、暴力的に襲うばかりではありません。全員で領主の家へおしかけて訴える、農作業をボイコットする、全員で村から逃げる、などさまざまな戦略、戦術を状況に応じてとったのです。農民に逃げられたら領主も困ってしまいます。一揆を受けて為政者が重税をとりやめたり、借金に苦しむ人々への救済措置をとったりした事例がたくさん記録されています。

一揆は単なる暴動とは異なり、その時代の人々による政治参加の方法だったと言えるでしょう。そこにはさまざまな「作法」も見られます。たとえば一揆の後でリーダーが捕らえられ死刑にされることが多くあったため、誰がリーダーかわからないように誓約書に円形に署名する方法が生まれました。リーダーが殺されたらその家族の面倒は村民全体で見るという誓約書も書いたりしました。そういうリスクがある一揆だったにもかかわらず江戸時代には6889件の一揆があり、年間平均して25の一揆がありました。

現代ではあまり聞かれなくなりましたが、日本各地では一揆を起こした人たちがヒーローとして語り継がれていました。そして一揆は、悪政を正すもの、必要なものとして社会的に認められ、明治時代まで脈々と続いたのです。

自由な現代社会で声が上げづらいのはなぜか

しかし、ここで疑問が湧きます。一揆が盛んだった時代と違って、今は民主主義の世の中で、発言する自由が保障されています。なのに、なぜ私たちは声を上げづらいと感じるのでしょうか。先に挙げた環境問題やカラーテレビの価格問題以外にも1950、60年代ぐらいまでは大きな市民運動がたくさんあったようです。現代の方が声を上げづらくなっているのでしょうか?

実際に、声を上げることへの抵抗がここ最近強まっていることがデータからわかります。NHKの「日本人の意識」調査(2018年)で、「自分の近所で公害問題が起きたらどうしますか?」という問いに対し、「あまり波風を立てずに解決されることが望ましいから、しばらく事態を見守る」と答えた人は1973年に23.2%でしたが、2018年には37.5%と行動しない人が増えています。「この地域の有力者、議員や役所に頼んで、解決をはかってもらう」は36.3%から46.2%に増加。「みんなで住民運動を起こし、問題を解決するために活動する」という人は、1973年は35.8%でしたが、2018年には13.2%と劇的に減っています。身近な課題の解決に向けて動く人が減っているのです。

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また、過去一年ぐらいの間に政治の問題についてどんな行動をしたことがあるかという問いについて、デモに参加したことのある人は4%から0.6%に減っています。署名をした人は24.4%から10.7%に、献金をした人は14.2%から4.6%に下がりました。

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日本の歴史を調べれば、戦前も戦後も、民主的な政治を求めて多くの人がデモをしたり、劣悪な条件で働く人たちが立ち上がって労働条件を変えたり、女性たちが就職や雇用条件で受ける差別をなくすために行動したりと、たくさんの事例が見つかります。人々の力で社会を変えてきた歴史はあるのに、なぜ私たちは「社会を自分たちで変えられる」とあまり思えていないのでしょうか。なぜ声を上げにくいと感じているのでしょうか。

不思議に思った私は旅に出ました。私たちがほしい未来のために行動できる社会、行動したいと思える社会を作るにはどうすればいいかを知る旅に。

大切な木が奪われた

なぜ私はそんな旅に出ることにしたのか。私の話をします。

私は両親と弟の四人家族で育ちました。幼い頃よくやったのが木登りです。近所に木が生い茂る公園がありました。運動が苦手、でも痩せて小さくて身軽だった私は他の子よりも高い場所に登れて、それが自慢でした。いつでも優しく受け入れてくれる木は大事な友達のような存在で、中でも一番大きな木がお気に入り。当時、母が病気がちで不安を感じていた私に、大好きな木は安心して自分らしくいられる場所をくれました。

しかし私が八歳のとき、公園に工事が入りました。ちょうど地域は宅地開発の真っ最中で、その一環でたくさんの木が切られ、アスレチック遊具が設置されたのです。工事の終わった公園に行くと、私の大好きな木もなくなっていました。

友達のような木を奪われた私は悲しみ、怒りました。「大人はなぜ毎日公園で遊んでいる子どもたちの意見を聞かずに勝手に変えたのだろう」と思いました。そして「自分も大人になれば決められるのかな」と考え、将来は環境や社会を守る職業に就きたいと思うようになりました。

自分で変えるって楽しい

「何かを自分の意志で変えることって気持ちがいい」ということを初めて経験したのは、木を失った翌年、九歳の時でした。

ある日小学校で、絵の具箱を全員買うようにと、先生からカタログの入った注文用の封筒を渡されました。「女の子は赤、男の子は緑色の絵の具箱です」と先生は言いました。私は落胆しました。もともと赤は好きな色ではなく、カタログで見た赤い絵の具箱には全く惹かれなかったのです。家に帰って母親にぐちをこぼしました。「赤の絵の具箱はださい。緑のがほしい」。すると母親が「じゃあ、緑を買えばいいじゃない。先生に聞いてごらん」と言ったのです。

私は「先生が男は緑、女は赤と言ってたし……」と迷いましたが、翌日勇気を出して言ってみました。朝礼後にどきどきしながら先生のところに駆け寄り「先生、緑の絵の具箱が買いたいです」と言うと、先生は「あ、いいよ」と二つ返事でした。

ルールだと思っていたことが、自分の意志を伝えることで変わり、びっくりしました。女の子で一人だけ緑の絵の具箱を持っていると友達から何か言われるかな、と心配でしたが、それも図工の時間に前の席の子が「あ、かんちゃんの絵の具箱は緑なんだね」と言っただけで終わりでした。

高校時代の出来事も忘れられません。私が通った高校は神奈川県内でも自由な学校として知られる希望ケ丘高校。1960年代には学生運動の影響でテストや成績表が廃止された過去があり(やがて復活)、生徒が自ら考え自ら行動することを大事にする学校でした。高校一年の中間テストが近づく中、国語の先生の発言に驚かされました。「成績をつけるため期末テストは必ず行いますが、中間テストをするかどうか、みなさんで話し合って決めてください」と言い残して、教室を去ってしまったのです。クラスメイト全員で中間テストをする利点、欠点を挙げて話し合い、最終的には投票をして決めました。結果は覚えていませんが、「自分たちのことを話し合って決められるのは気分がいい!」と興奮したのを今でも覚えています。

子どもだから力がないのではない

環境問題について勉強するため農学部の農芸化学科で学びましたが、就職氷河期だったため環境関係の仕事に就くのは難しく、商社に就職しました。4年後、子どもの頃からの夢を叶えようと、環境コンサルタントの仕事に26歳で転職しました。

仕事をする中で驚くことがありました。ちょうど同時期に同じような内容の環境保護の法律がヨーロッパ、北米、日本で検討されていて、私はコンサルタントとして検討状況を分析して日本政府や企業に伝える仕事をしていました。欧州ではNGOが提案した法案を元に検討が行われ、NGOが議論に大きく影響を与えていました。また欧州政府も一般市民の見方を知るためにパブリックコメント・ヒアリングを積極的に行い、わかりやすく法案を解説したり、答えやすいように質問を設定したりしていました。北米でもNGOが主要な政策を作るメンバーになっていました。

一方で、日本では官僚が法案を作り、パブリックコメントは募集するものの法案の解説はほとんどなく、ただコメントを型どおり募集するのみです。新しい法律を検討する政府の審議会を傍聴したときは、欧米とのあまりの違いにショックを受けました。審議会のメンバーは大学教授などの専門家に加えてNGO関係者も少し参加していましたが、それぞれ言いたいことを言うだけです。議論を交わして法案を固めていくという感じではありません。どのような方向で法案をまとめるか予め決まっているように見えました。実際、その結果できた法律は、欧州や米国の同等の法律と比べると新しさのないものでした。

私は唖然としました。国によってこうも法律の作り方が違うのだと。そして政策決定に市民が参加するかどうかによって、できるものが大きく違ってくるのだと。

子どもの頃、毎日公園を使う私たちの意見を聞かずに大人が公園の工事をしたのは、子どもだから無視されたのかと思いました。しかし、そうではなく、現代の日本社会がそういう構造であることに気づきました。逆に当事者である市民が声を上げることを尊重し、意見をしっかり聞いて意思決定する国もあることを知ったのです。

欧州でNGOが提案した環境法案は、人々や自然を守ることが主眼になっていました。NGOが、普通の人たちが考えることを反映して法案を提案するのです。それまで私は、法案を作るのは政治家の仕事だと思っていました。もちろんそうあるべきだと思いますが、外交や経済など多様な課題を扱う政治家に一つ一つの社会課題について一般の人々の声を詳しく聞く時間はありません。それをするのが、市民が作る組織であり、「市民社会」なのだと知りました。欧州や米国では一つの市民組織に何万という会員がいて、人々の会費や寄付で運営されています。普通の人々を代表する組織として社会的に認められているのです。

私は日本に閉塞感を覚えていました。経済もかつてほど成長しない、少子高齢化で将来自分の生活がどうなるかもわからず、明るい未来が見通せない。でも、自分たちで未来を作っていけると思えたら、希望が持てるのではないか。そのためには市民参加を強くすることが日本に必要だと考えました。

市民参加について学べる場所を探しましたが、当時日本には市民参加を学べるような大学院はありませんでした。知人からは市民参加に強い海外の大学院への留学を勧められました。友人に背中を押され、いくつかの大学院に出願。幸い、調べた中で最も自分の関心に合っていると思った、民主主義に重きをおく公共政策大学院ハーバード・ケネディスクールで学ぶ機会を得ました。2011年のことです。

ハーバード・ケネディスクールは世界各地から政策立案に関わる人たちが来て学ぶ場です。政府関係者だけでなく、NPOで働く人、ビジネスパーソン、弁護士、医師、社会活動家、さらに独裁国家でクーデターを起こして政府に追われている人など、さまざまなバックグラウンドの人が学んでいました。

ガンツ先生が教える草の根社会運動

さまざまな授業を受け、行政主催のパブリックミーティングを企画運営するNGOへの訪問なども行いましたが、手応えは今一つでした。そんなとき、他の学生や教授たちに「日本の市民参加を強めるために学びたい」と話すと、みんな同じことを言いました。「マーシャル・ガンツ先生の授業を取りなさい」

私はアドバイスに従い、2学期目にガンツ先生の授業を取りました。ガンツ先生は20年以上、現場で「コミュニティ・オーガナイザー」として実践してきた人です。人々の間につながりを作り、リーダーシップを育て、共に行動することで社会的な変化を生み出す。それを「コミュニティ・オーガナイジング」と呼んでいます。

ガンツ先生は1964年にハーバード大学を中退し、公民権運動に参画。白人学生をアラバマ州など黒人差別がひどい地域に派遣し、黒人のコミュニティに働きかける動きに加わったのです。黒人の人たち一人ひとりに話しかけ、投票権を得るための運動に参加するよう勇気づけました。2年後、故郷のカリフォルニア州に戻り、そこでメキシコやフィリピンから移民してきた農場労働者の悲惨な境遇を知ります。その頃、シーザー・チャベスという活動家が、農場労働者をオーガナイズする組織ユナイテッド・ファームワーカーズ(UFW)を立ち上げ、ガンツ先生はそこにオーガナイザーとして加わりました。

UFWはそれまで頻繁に農場を移動するために組織化が困難だった農場労働者につながりをつくり、組合員を増やし、その組合員と共に時給アップや休暇を勝ち取りました。特に約1000人の農場労働者と共にカリフォルニア州のデラノからサクラメントまで約400キロメートルを行進したのは有名なアクションです。多くの農場労働者がメキシコ人だったため、その文化からデモ行進というより「巡礼の旅」と呼びました。この行動の結果、多くの市民からも賛同を得て、労働条件向上だけでなく、労働組合の存在に反対する雇用主に組合を認めさせることができました。

ガンツ先生はUFWで16年間オーガナイザー、理事として活動した後は、草の根の選挙キャンペーンの立ち上げに従事します。しかし48歳の時に自身の活動に行き詰まりを感じ、大学に戻って学び直すことにしたのです。ハーバードで博士課程まで学び、さまざまな運動を分析し、運動に必要な要素をリーダーシップとして誰でも学べるように体系化したのです。

一躍彼の名が知れ渡ったのが、オバマ元大統領の初めての選挙キャンペーンでした。教え子がキャンペーンに関わっており、「黒人初の大統領を生み出すチャンスだ」と声を掛け、ガンツ先生は選挙キャンペーンに本格的にコミュニティ・オーガナイジングを導入しました。コミュニティ・オーガナイジングに必要なリーダーシップを短期間で学ぶワークショップ「キャンプオバマ」を開発。特に激戦区では、地元住民の持つ人脈を通じてリーダーをリクルートし、リーダーらがまた自分の人脈からボランティアを集めて戸別訪問や電話をする草の根戦術を展開。米国初の黒人大統領を誕生させる力を生み出しました。

ガンツ先生の授業では、学生たちは実際にコミュニティ・オーガナイジングのプロジェクトを行わなければなりません。クラスメイトと一緒にやるのは禁止です。一人でまず動き、コアチームに入ってくれる人を探し出し、変えるためのアクションを取ります。ガンツ先生とティーチング・フェローというサブの講師が受講生をフォローし、どんどん行動するように仕向けられます。

社会に働きかけるアクションなど起こしたことがなく、英語も不自由な私は面食らいました。周りの学生たちは思い思いのプロジェクトに取り組んでいます。選挙キャンペーンや地域の貧困問題といったコミュニティ活動に取り組む人もいれば、大学院の人気講師を契約満了で解雇することにした学長への働きかけ、学内の教授陣や授業内容がアメリカ人・白人に偏っているため多様性を求める運動など、学校に対してチャレンジする学生もいました。普通の人々が社会を変えるための理論やリーダーシップが大学でこのように実践的に教えられ、学校側も学生が声を上げることを尊重している。その事実は私の目を開かせてくれるものでした。

画像3マーシャル・ガンツ博士(提供:コミュニティ・オーガナイジング・ジャパン)

普通の人たちのリーダーシップ育成が鍵

ガンツ先生の授業では、キング牧師で知られる公民権運動、ガンジーで有名なインドの独立運動が事例として取り上げられました。でも、これらの出来事は私には壮大すぎ、遠くのことに感じられました。そんなとき、授業で扱った事例に私は釘付けになりました。

アメリカ西海岸のサンノゼで、自治体がある学校の廃校を決定しました。学校がなくなり困り果てた母親たちは、コミュニティ・オーガナイザーに勇気づけられて立ち上がり、自分たちで学校を立て直そうとしたのです。最初は人前で言葉を発することさえできなかった母親が活動を通じてリーダーになりました。そんな母親たちが次々に現れ、活動は大きくなり、見事、学校を立て直すことに成功したのです。

「みんなで力を合わせて課題を解決することって、日本にもあるよね。それを広げて、こんな風に多くの普通の人がリーダーになる日本をみたい」

私はそう思いました。そして公民権運動もキング牧師が一人のカリスマリーダーとして引っ張ったのではないことを知りました。運動を通じてたくさんのリーダーが生まれ、リーダーシップが豊かに育成されることで運動が広がり、強くなったのです。

その日の授業の後、すぐに私はガンツ先生に会いに行きました。

「実際にコミュニティ・オーガナイジングがどう機能するのか、現場で確かめたいです。卒業後にコミュニティ・オーガナイザーとして働ける場所を紹介してください!」

猛烈なお願いは実りました。卒業後に一年間、ニューヨークの中南米からの移民を支援する地域組織でコミュニティ・オーガナイザー見習いとして働くことになったのです。

最初は「ニューヨーク市で病欠有給休暇を実現する」キャンペーンに関わりました。驚いたことに、アメリカでは病欠有給休暇が国の法律で定められていないのです。幸運にも、法案が市議会で可決される瞬間に居合わせることができました。次に高校生と共に行動し「警察による人種差別的な路上での取り調べをなくす」キャンペーンを担当。これも1年間で条例案の検討が進むなど、大きな進展を見ることができました。

コミュニティ・オーガナイジングによって実際にアメリカで市民の声が社会変化を起こしていることは実感できました。が、私がやりたいのは日本にこの手法を広めることです。NPO活動などしたことがなく、その分野の人脈もない私にはどうしたらいいかわかりません。そんなとき知人の紹介で、日本の大学で社会福祉の分野でコミュニティ・オーガナイジングを教える室田信一さんに出会いました。室田さんはコミュニティ・オーガナイザーとしてアメリカで働いた経験があり、日本に帰ってから思うようにコミュニティ・オーガナイジングが広がらないことに悩んでいました。

このとき、私の旅は一人旅ではなくなったのです。私と室田さんはチームを作り、2013年12月に日本で初めてのコミュニティ・オーガナイジングワークショップを開催。翌年その仲間たちと特定非営利活動法人コミュニティ・オーガナイジング・ジャパンを立ち上げ、日本でコミュニティ・オーガナイジングを教える活動を始めました。それから6年間で、この活動からは多くのコミュニティ・オーガナイザーが生まれ、政府の政策や法改正、事業の成立、地域での活動の広がりなど、実際に世の中に変化を生み出しています。

(中略)

デモや署名は一つの戦術にすぎない

社会に働きかけるアクションというと、「デモ」が思い浮かぶ人は多いでしょう。次は「署名」でしょうか。ケネディスクールでコミュニティ・オーガナイジングを実践する中で、常に問われたのは「そのアクションで変わるの?」ということでした。

食器を変えるプロジェクトに取り組むことにした私はチームメンバーと話し合い、まず署名を集めようと決めました。報告すると先生は言いました。「その課題の意思決定者は誰なの?」「彼らにとって署名は脅威になるのかな?」 意思決定者は学食運営会社です。その会社にとって学生の署名はどれだけ影響力を持つのか。メンバーと考えてみると、会社側は学生のことを無視できるのだ、と気づきました。先生は言いました。「関係者を調べてみなさい。学食会社に影響を与えられる人も含めて」

いろんな人にヒアリングをして調べていくと、それまでも環境問題に敏感な学生や職員が、学食会社にリサイクル食器の使用を求めていたようでした。しかし、みんなバラバラに要望を伝えていたため、会社側は真剣に検討していませんでした。リサイクル食器にするとコストが上がるため、変えたくないのが本音だったようです。

「学食会社に影響力を持つ人はだれ?」と調べてみると、学食会社との契約は学校の施設部が担当していることがわかりました。そこでもう一度チームで作戦を練り直したのです。学生や職員の中で環境問題に取り組む人や団体、学生自治会代表者、施設部と関係者全員で連帯して要望すれば変わるのではと考えました。署名アクションから変更して、関心のある人に学食会社との話し合いの場に来てもらうように約束を取り付けていきました。そして話し合いの日時が決まった後、なんと学食会社側から「リサイクル食器に変える」と伝えてきたのです。

デモは、意思決定者が脅威に感じたり、対応しなければならないと思ったりするなら力を発揮するでしょう。でもそれは状況によって異なります。バラバラの人たちが一時的に集まっているだけだとしたら、意思決定者は「そのうち熱が冷めるだろ」と無視するかもしれません。人が集まればいいというものでもないのです。2003年2月にイラク戦争開戦に反対するデモが世界約600都市で行われ、ギネス記録に残るほどの人々が参加しました。しかし当時のブッシュ大統領は大規模デモの一ヶ月後にイラクに対する戦争をはじめたのです。

デモに人が大勢集まるものの、何も変わらない。私たちは同じような事象をたくさん見て、感じてきたのではないでしょうか。ある研究者たちは「バラバラの人たちをまとめる組織の不在」「運動のハンドルを握るリーダーシップの不在」を指摘しています。デモの後も活動が継続しさらに広がるようにしかけられる人がいるか、またはそのようなつながりが参加者間にあるか、デモだけでなく運動全体を見渡して効果的な戦略をとれる人がいるか、といったことがデモの実効性を大きく左右します。

そしてデモは数ある戦術の中の一つの選択肢に過ぎません。社会に働きかけるアクションは他にもいろいろあります。第7章で紹介するセルビアの事例では、親の育休中の給与支給を求めるキャンペーンのキックオフとして、街中にベビー服を吊り下げるアクションをして注目を集めました。可愛いベビー服に街を歩く人々が足をとめ、問題を知るきっかけになったのです。私たちが刑法を変えるキャンペーンをした際は、みんなで簡単に踊れるダンスを作って問題を知ってもらったり、国会議員と一緒に踊って一体感を持ったりしていました。

社会運動はただ集まって声を上げるだけではうまくいきません。効果的な戦略・戦術をとることが欠かせないのです。コミュニティ・オーガナイジングはそのための方法論と言えます。

失敗してもコミュニティは育つ

社会運動を行っても、うまくいくとは限りません。むしろ失敗に終わることのほうが多いかもしれません。成功の見込みが低いのに、取り組む意味はあるのでしょうか。ガンツ先生に意見を求めたところ、こう言われました。

「そうだね、うまくいかないことのほうが多いかもしれない。でも、活動を通じて人々のつながりを生み出し、リーダーシップをたくさん育て、コミュニティを作っていくことができる。そうすればそのとき失敗しても、次の機会にはそれがベースになって、より大きなことにチャレンジできるようになるんだよ」

アメリカでは選挙運動にコミュニティ・オーガナイジングを取り入れることがよくあります。お金もない、組織選挙もできないけど、人々が共感する志を持つ人を当選させるために、ボランティアをコミュニティ・オーガナイザーに育て、地域の人たちをオーガナイズして戸別訪問や電話かけをしたりします。ある選挙キャンペーンでは、候補者は落選したものの、ボランティアの人たちは互いの頑張りを称え、負けたと思えないほど祝福し合いました。これまでつながりのなかった人たちとつながり、大きな動きを作り出せたことを誇りに思ったからでしょう。

コミュニティ・オーガナイジングは、たとえ運動そのものの目的を遂げられなくても、活動の過程で人々の間につながりを生み、草の根のリーダーシップを育てることで、コミュニティの力を高めること、より健全な市民社会を創ることができるのです。それを中心的に行うのがコミュニティ・オーガナイザーです。そしてコミュニティ・オーガナイザーは「専門的な、ある一部の人がする仕事」ではありません。やりたいと決意し、学んで、実践することでできるようになる。コミュニティ・オーガナイザーが、多くのコミュニティ・オーガナイザーを育てることで、よりよい市民社会が作られていくのです。


人の心を動かす力があり、効果的な戦略・戦術を持ち、たくさんのリーダーシップを生み出す社会運動。普段そうしたことには関わらない人、関わりづらいと感じる人も参加でき、自分たちの手で変化を起こせる社会運動。現代の日本社会には、そんな社会運動が切実に求められているように思います。「社会運動」と言うと大ごとのように感じると思いますが、私が学校の食器を変えたように身近なこと、家庭生活、日々の生活を変えること、それが積み重なり「うねり」になっていきます。

次の章から、そんな社会運動を行うための強力な手法、コミュニティ・オーガナイジングについて詳しく紹介していきます。


※本書の第1章は以下リンクからお読みいただけます。


コミュニティ・オーガナイジング──ほしい未来をみんなで創る5つのステップ』鎌田華乃子

「仕方がない」から「仕方がある」へ。
ハーバード発、「社会の変え方」実践ガイド。

おかしな制度や慣習、困ったことや心配ごと……社会の課題に気づいたとき、私たちに何ができるだろう? 普通の人々のパワーを集めて政治・地域・組織を変える方法「コミュニティ・オーガナイジング」をストーリーで解説。

〈構成〉
序章「仕方がない」から「仕方がある」へ
(PART I METHOD 変革の起こし方)
第1章 コミュニティ・オーガナイジングとは何か
第2章 パブリックナラティブ――ストーリーを語り、勇気を育む
第3章 関係構築――価値観でつながる
第4章 チーム構築――三つの成果、三つの条件、三つの決めごと
第5章 戦略作り――みんなの資源をパワーに変える
第6章 アクション――リーダーシップを育てる
(PART II CASE 実践!コミュニティ・オーガナイジング)
第7章 人々の力を引き出す
第8章 身近なことから変化を起こす
第9章 政治を動かし、法を変える

〈著者〉
鎌田華乃子(かまた・かのこ)
特定非営利活動法人コミュニティ・オーガナイジング・ジャパン理事/共同創設者
神奈川県横浜市生まれ。子どもの頃から社会・環境問題に関心があったが、11年間の会社員生活の中で人々の生活を良くするためには市民社会が重要であることを痛感しハーバード大学ケネディスクールに留学しMaster in Public Administration(行政学修士)のプログラムを修了。卒業後ニューヨークにあるコミュニティ・オーガナイジング(CO)を実践する地域組織にて市民参加のさまざまな形を現場で学んだ後、2013年9月に帰国。特定非営利活動法人コミュニティ・オーガナイジング・ジャパン(COJ)を2014年1月に仲間達と立ち上げ、ワークショップやコーチングを通じて、COの実践を広める活動を全国で行っている。ジェンダー・性暴力防止の運動にも携わる。現在ピッツバーグ大学社会学部博士課程にて社会運動に人々がなぜ参加しないのか、何が参加を促すか研究を行っている。