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〈語られたがっていること〉ってなんだ?──言葉だけではない場づくりを考える会(しみずみえ:こども×おとな×しごとプロジェクト)

2020年9月に出版した『場から未来を描き出す──対話を育む「スクライビング」5つの実践 』。言葉だけでなく、「描く」ことで、対話を深める実践について説いた本です。
英治出版では、この本を起点に6人のさまざまな場づくりの実践者が集う「“言葉だけではない”場づくりを考える会」を開催しました。この勉強会から生まれた参加メンバーによる気づきや、新たな試みの記録をご紹介します。

語られたがっていること

「言葉」って、なんて伝わらないんだろう。
これが、『場から未来を描き出す』という本の勉強会に参加して抱いた最初の想いだった。
勉強会と言っても、本の内容を忠実にたどるのではなく、本を入り口に、参加者がそれぞれの「場づくり」の実践をシェアし、思索を深めていく、そういう語らいの時間と空間。

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この本の日本語版序文には、「生成的なスクライビング」(描くことで、場を生成的に深める実践)について、こんな記載がある。

人々の意識にまだ上がってきていない、言葉になっていない、目にも見えない「何か」 のトーンや質感を捕まえて描きます。場にいる人達の「声なき声」、まだ言語化されていないけれど、そこに在るエネルギーを感じ取り、表現することで、その場にいる人達と共有するのです。

まだ言語化されていないけれど、そこにある何か。私が参加した語り合いの場では、これが「語られたがっていること」と呼ばれ、話題の端々に登場した(本のなかでは「聴かれたがっている声」「見られたがっているもの」「場に現れたがっているもの」などと表現されている)。

他の参加者の話を聴き、想いを深めるうちに「語られたがっていること」という概念がとても大切なものとして、私の思考の中に鎮座していった。

自分の心の、深い深いところにある何か大切なもの。
自分の感情や思考が湧き上がる源泉。

「語られたがっている」くらいだから、自分ひとりのものとして留めておくのではなく、他者と分かち合うことを求めているもの。まだ言語化されていないならば、言葉にすればいいじゃないか、と思うのだが、不思議としっくりこない。何かが足りない気がするのだ。

「言葉」では伝えられない?

思い返してみれば、「言葉」を通すと、自分が感じていたことのニュアンスが違ってしまう、というもどかしさは、これまでにも味わったことがある。それは例えば、木々の間で出会った色を〈みどり〉と言いながら、自分でも何かが足りない、と思う感覚に近い。

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誰かに何かを伝えたいと思う時、伝えたい内容が「朝10時から会議室でミーティングです」のような事務的なことならば、言葉は最高の伝達手段だろう。でも、「感じていること」のように、形のないものを、言葉は本当に伝えられているのだろうか。

私自身は、すごく「言葉」に頼って過ごしている。
わーっと湧き出てきた感情を、あとから振り返って、言葉で理屈をつけて、自分の中に腹落ちさせるクセがある。気持ちがあふれて泣いた時も後から振り返り、あの人の言葉が自分のあのコンプレックスを刺激したから泣けてきたんだな、きっと悔しかったんだな……などと分析し、整理することで自分の理性を落ち着かせてきた。

感情のすべてが言葉で説明できるはずなんてないのだけれど、ひとまず悔しさとか悲しさとか名前をつけると、心の中での納めどころが分かって、安心するのだと思う。

ただ、いつもそんな風にしていると、もっと深いところにある自分の気持ちが置いて行かれたような、本当の自分の気持ちとずれていくようなもどかしさも感じていた。心の底から湧いてくる素の感情みたいなものをあまり感じられていないんじゃないかと。

一方、言葉に頼らない表現を得意とする人の中には、心の底から湧き出てくる感情を、そのまま発露できる人がいる(いるように見える)。想いがそのままメロディーになり即興で演奏する人もいるし、感情のままに身体を動かせば他者の心を打つようなパフォーマンスとなる人もいる。そういう表現の在り方は、表現をする人の心の深いところと、それを受け取る相手の心の深いところを直接的につなげてくれているように思える。

そして、自分にもそういう表現ができればいいのに、と思う。

子どもが見せてくれる「表現」

「そういう表現」への憧憬を抱くようになったのは、〈子ども〉と向き合うようになってからだ。私は高校生の時から子どもと関わる活動を続けているのだが、数年前から子どもへの関わり方の意識を、変えた。

それまでは、子どもに伝えたいメッセージを持ち、受け取ってもらえるにはどうしたらいいか、ということを考えていた。「自分で決めていいよ」とか「一人ひとり違っていてすてきだよ」とか「誰かに喜んでもらえたら嬉しいね」とか。メッセージそのものはおかしくはないと思うけれど、私の側に「模範」があったことには違いない。

けれど、ここ数年は、こちらが意図を持ちつつも、子どもたち一人ひとりが、今どんな状態なのか、何を感じているのか、何をしたいのか……という彼らから出てくるものに向き合ってみようと、自分の意識を変えることにした。

そんな風に子どもと向き合うと、一瞬一瞬の姿から、様々な想いが伝わってくることに気づいた。例えば、絵の具や粘土などの作品を作る活動をしていても、完成した作品だけではなく、何かを創り、描き、試行錯誤する姿そのものが、彼らの「表現」だと感じるのだ。絵の具の手触りを確かめるかのように手のひらで絵の具を伸ばし、色を混ぜて変化することを面白がり、筆を走らせることを楽しみ、線になりきって「すゅぅーん」などと声を出す。その在り方は、エネルギーに満ちていて、魅力的で、まさに「表現」だなあって、感動する。

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そうやって生まれた作品を他の人に見てもらう時にも、その感動を何とかして伝えたいと思うのだが、伝え方には、いつも苦心する。作品を見るだけで、言葉にならないエネルギーを感じて、「うわぁ」って思ってくれる人もいる。でも、同じ作品を見ても「色がぐちゃぐちゃに混ざり合っている」という風に理解する人もいて、その人に伝えることは、とても難しい。

これを描く子どもたちが、どんなに夢中になっていたか、どんなにきらきらしていたか……言葉を継いで伝えながらも、なにか説明的で、感動が伝わらないもどかしさを感じていた。

もっとも私自身、表現の現場を見ていなければ「言葉で情景を説明してもらわないと理解できない」タイプだ。だからこそ、言葉の限界を感じながらも、言葉を尽くして説明をすることが私の役割なのだろう。

いま私が探究していることは、子どもたちが遊びの場を通して〈自分を表現する心地よさや、知りたいという好奇心を抱き、創造的に学ぶ〉ために、どんな環境(物的環境・人的環境)を整えるか。したがって、子どもたちの在り方に向き合い気づいたことは、いつかは言語化して体系化していくことが必要になるだろう。

でも、「言語化」を焦りすぎると、子どもの感じていることや学んでいることを、大人の知っている枠の中に押し込めてしまい、大切な要素を見失ってしまうのではないか、という不安も、子どもと向き合うようになってから感じるようになった。

言葉は便利すぎるから不自由で、あまりにも、心との距離が遠くて、説明的で、ありきたり。だからこそ、「語られたがっていること」という概念が、すごく気になったんだと思う。

言葉に頼りすぎると本質にたどりつけないんじゃないだろうか。子どもの想いや、自分自身の想いや、そういう深いところにある「語られたがっていること」に気づけないんだろうか、と。

同時に、ちょっと途方にくれた。
言葉じゃなかったら、どうしたらいいんだろう、と。

「言葉」が悪いんじゃない

幸いにも、言葉ってなんて心と遠いんだろう……という私の戸惑いは、勉強会の場で他の参加者たちが、明確に否定してくれた。

言葉が、心と遠いのではなく、言葉の使い方が、心と遠いのだと。

言葉だって、自分の心に向き合い研ぎ澄まして使えば、もっともっと色々な表現ができる可能性がある。便利だからと用事を伝えたり、事務的な確認をしたりと、普段機能的に使っているけれど、それは言葉のチカラのごく一部しか活用していないんじゃないか。

なるほど。それなら、言葉がもっと心と直結するような、そういう方法を試してみたら、「表現としての言葉」を紡ぎだすことができるかもしれない。

試してみたくなった。

言葉の可能性は拡がるのか?

まずは「描く」を介することで、言葉の可能性を拡げてみることができないだろうか(そもそも、きっかけとなった本の主題が「描くこと」なのだし)。言葉と表現を遊ぶことをテーマに、ワークショップやることにした。

手順はこう。
一人が、自分の心のうちにあるものを話す。それを聴いた他の人たちが、話を聴いてイメージしたものを、色や線やカタチで表現する(これを、〈絵〉と呼ぶ)。話した人が、その〈絵〉を見ながら、その時に湧き上がった気持ちを伝える。

「色やカタチでの表現」を経由することで、ありきたりじゃない言葉になることを期待した。

また、言葉の可能性を拡げる、というチャレンジのためには、何を話すのかも大事。ポジティブな感情が動かされるような話題がいい。前向き。そう、未来に目を向ける話だ。

私は「キッザニア東京」の創業に携わった経験がある。キッザニアは、子どもたちが、様々な仕事や、大人になったつもりの体験ができる場所。私は、ここを訪れる子どもたちに「自分の未来をわくわく思いめぐらす気持ち」を味わってもらいたいと思っていた。将来の夢を一つの職業名で語ることよりも、将来ってこんなにも、たくさんの中から選べるんだー、って、可能性の拡がりを感じてもらいたかったのだ。

キッザニアの仕事を離れた今でも、「自分の未来をわくわく思いめぐらす気持ち」は大切にしたいことの一つ。子どもだけじゃなく、大人にも味わってもらいたいと、ずーっと思っていた。だから、ポジティブな感情が動くことを期待して私が選ぶ話題は、「自分の将来・夢・これから成し遂げたいこと」。これしかない。

「自分の将来の夢」と問いかけた時に、「叶うかどうか分からないけれど」とか「大きすぎる夢で恥ずかしいんだけれど」とか、そういう言い訳はない方が、わくわくしそうだと思った。「これから叶えたい夢」というよりは、「夢がかなったと仮定した自分」に想いを馳せたらどうだろう。

そして、こんな問いからスタートした。

自分が人生の終わりに本を書くとしたら、それはどんなタイトルの、どんな本?

生きることの価値観を語る

参加者は私も含めて四人。普段から「言葉」を意識して使っている人が多い。問いについて少し考える時間を取ったあと、本のタイトルや内容について、他の参加者のうちの一人がインタビューをする形式で、それぞれの想いを話してもらう。

一人の話を聴いたあと、全員が、感じたことを色や線やカタチで表現する。話した本人も描く。10分間。色鉛筆やクレヨンを手に、静かな時間が流れる。

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10分経ったら、人生を語った人だけが、他の三人が描いた〈絵〉を見ながら、湧き上がった気持ちを共有する。ここまでで1ターン。このワークを四人分。

意図していた以上に、表現を吟味する場面が多かったと思う。テーマが「本のタイトル」だったので、自分を表現するための象徴的な言葉を選ぼうとした。

「なぜそのタイトルか」「だれに読んでほしいか」などとインタビューで問われることで、自分が意識していなかったことにも想いを馳せた。だから、自分なりの定番の答えを繰り返す「定型の語り」ではなく、その場で、少しは自分の心と向き合うことができたように思う。

そこで語られたものは、単なる「夢」に留まらなかった。生きていく上で自分が大切にするものは何か、どんな自分で在りたいか、一生をかけて為したいものは何かという、生きることへの価値観だった。

定型の語りから脱することができただけでも、自分の心の中で、いつもとは違う部分に触れ、いつもとは違う言葉を選んだ。多少なりとも、「語られたがっていること」に近づけた気がした。

また、その語りを聴いて感じたことを、色や線やカタチで描く時間は、誰もが〈絵〉の世界に没頭した。5分のインタビューに対して、描く時間は10分。それでも、時間が足りないと感じることもあった。いつも使い慣れている「言葉」ではない方法の中で、自分の感じたことを、なんとか伝えようと必死になった。

誰かの将来の夢を聴いて、「感想どうぞ」とマイクを向けられるだけだったら、こんなに必死になれるだろうか。言葉じゃないからこそ、一人ひとりの「伝えたい」というエネルギーは、否応なく高まった。お互いの描いた〈絵〉を見る時には、照れくさいような嬉しいような、そんな気持ちだった。

描いてもらった色の混ざり具合の美しさや、線の持つ力強さや、一つひとつのカタチのわくわくしたエネルギーを受け取り、自分が思い描く将来は、こんなにも美しくて力強いんだよ、って、認めてもらえたような気持ちになった。言葉がなくても、誰かに肯定された気持ちが、すっと、伝わった。

今までにない表現方法に興奮

そこまでのワークでもう充分に満足していたのだけれど、実は、最後の最後に真骨頂が待っていた。

お互いに向けて描かれた〈絵〉を見ながら、「どうして、こんな風に描いたのか気になるね」という好奇心が、それぞれにふつふつと湧いてきた。そこで、描いた人が〈絵〉の意図や、そこに込めた想いを言葉で伝えることにした。

そこで語られた言葉の意味の深さったら!

絵から感じていた「美しさ」や「力強さ」や「エネルギー」が、立体的になるのだ。例えば、私が「信念」だと感じたカタチを、描き手は「影響力」をイメージして描いていた。ならば絵解きとして「影響力」が正解なのかと言えば、そうではない。私が感じた(おそらく私自身の中にそういう概念があったから感じた)「信念」と、描き手が伝えようとしてくれた「影響力」との、両方の意味を併せ持つようになり、同じ〈絵〉なのに、もう一段、深い意味を伴って感じられた。そしてまた、私の話から「影響力」を想起した描き手も、〈人と人とが影響を与え合うこと〉に、自らの心が動くのだと気づいたのだと思う。

限られた時間で、自分の感じたことを〈絵〉で表現しつづけた私たちは、きっと感覚が開かれた状態になっていただろう。「機能だけではない、表現としての言葉」の姿を、垣間見たような気がした。

人生で成し得たいことについて言葉を紡ぎ、その言葉を聴いて感じたことを別の誰かが〈絵〉で描き、それをもう一度言葉で語る。そこで語られた世界は、他者の視点や想いや違う表現手法を経ることで、より深く、色濃くなった。

「語られたがっていること」を語ることができたのか、心のどれくらい深いところから出てきた言葉なのか、確信はない。でも、心に届く「言葉」だった。自分の心の深いところと繋がることができるのかもしれない、という可能性を感じる「言葉」だった。

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描くこと

結局、「語られたがっていること」とは一体何なのだろうか。
いま私が理解している「語られたがっていること」は、自分の心の深いところまで伸びていて、全容を一目で見ることはできない。ただ、心の深いところの想いを自分らしい方法で表現する時、その表現は、「語られたがっていること」の想いとつながっているのだと思う。

絵画だって音楽だってダンスだって、その表現が、借り物だったり、定型化されたりしていたら、「語られたがっていること」には、届かない。けれど、どんな表現方法であっても、「語られたがっていること」の存在を意識して自分なりに表現すれば、自分も相手もその存在を感じられるに違いない。もちろん「言葉」でも、できる。

私は、「言葉」が好きだし、「言葉」の可能性を信じているし、これからも「言葉」に頼って生きていくだろう。ただし、いつも定型化された言葉だけを選んで安心しないようにしよう。時には、絵や音楽やダンスや、そういう違った表現のチカラも借りて、自分の「言葉」の新しい可能性も試してみよう。

さて。最初の本の話に戻る。
正直に言うと、『場から未来を描き出す』を読むと、スクライビンングは特別な訓練を経た人だけができるスペシャルな領域、という印象だった。

もちろん、著者であるケルビーさんが実践しているような、会議やディスカッションの場面で描いて場に貢献し議論を活性化させることは誰にでもすぐにできることではないのだろう。

けれど、自分の心の中を色とカタチで表現するとか。友達同士、相手に聴いた話をお互いに描いてみるとか。そういうことならば、気負うことなく、誰にだってできる。そして、そんな風に、心を遊ばせながら描くことで、思ってもいなかったことに、ふっと気づくことだってあるんだな、って思った。

もう一回読んでみよう。
もしかしたら、専門的で難しそうに見えた実践も、ワークの中で、意図せずに体験していたかもしれない。

そんなわけで、「心と繋がる言葉を使うこと」を、ぜひみなさんにもおすすめしたい。言葉は便利すぎるから、簡単に、誰にでも、研ぎ澄まさなくても使える。だから、機能を果たしさえすればいいと思ってしまいがちだ。

でも、言葉も、ちゃんと、深い思索とつながることができる。アートと呼ばれる領域で自分を表現することができない人でも、言葉を使うことならば、可能かもしれない。

そのために、色や、線や、音や、動き……そういうものの助けを借りてみることが、新しい表現を生み出す助けになってくれるんじゃないかな。そう考えれば、表現の形が、言語か非言語か、なんて気にする必要はないのかもしれない。

場から未来を描き出す』は、描くことの本だ。しかし大事なのは、手法ではなく、「語られたがっているもの」の存在を知ること。そして、それを何とか表現して伝えようとすることへの誠実さ、なのかもしれない。

しみずみえ
こどもの育ちとあそびの専門家。
玩具の企画開発、キッザニア東京の創業、保育園の立ち上げ支援などに携わる。現在は、あそびを通して、おとな・こどもが共に自分らしさを育むことを目指し、こどものための遊びプログラムの提供 及び こどもに関わる大人のための講座や研修を行う。
著書『あそびのじかん──こどもの世界が広がる遊びと大人の関わり方』(英治出版)
note: mieshimizu
こども×おとな×しごと プロジェクト
『場から未来を描き出す──対話を育む「スクライビング」5つの実践』
ケルビー・バード[著]/山田夏子[監訳]/牧原ゆりえ、北見あかり[訳]

言葉で問うのではなく、「描く」ことで、対話を深める──。

一人ひとりの感情、人と人との関係性、場のエネルギー。「言葉になっていない」ものを、グラフィックで可視化することで、人々の内省や当事者意識が促され、新しい洞察やビジョンが生み出されていくー。
U理論深化の一翼を担った著者が説く、新しい場づくりの実践。

【目次】

日本語版序文(山田夏子)
序文(C・オットー・シャーマー/『U理論』著者)
はじめに
この本について
1 実践モデル
2 在る
3 融合する
4 捉える
5 知る
6 描く
付録(カラーページ/著者のスクライビング)

【著者】ケルビー・バード

アーティストであり、世界的に認められているスクライビングの実践者。Fortune500企業や世界経済フォーラムはじめ、企業や行政、教育機関で、描くことによる場づくりをしてきた。またプレゼンシング・インスティチュートの共同創設者として、グローバルコミュニティに数々の貢献をしてきた。最近では、エデックス〔マサチューセッツ工科大学とハーバード大学によって創立された無料のオンライン講義のプラットフォーム〕でのオンライン講座「Uラボ:出現する未来から学習する」でスクライビングをしている。社会的な理解を促進するためのスクライビングを専門とする会社「デピクト」の共同設立創設者でもある。2016 年には、『Drawn Together through Visual Practice(未邦訳)』と題する視覚化実践者による文集を共同編集している。米国マサチューセッツ州サマービル在住。

【序文】C・オットー・シャーマー
マサチューセッツ工科大学(MIT)上級講師、清華大学客員教授、u.lab共同創設者。ベストセラーとなった著書『U理論』と『出現する未来』(ピーター・センゲ、ジョセフ・ジャウォースキー、ベティー・スー・フラワーズとの共著)で、出現する未来から学ぶという「プレゼンシング」の概念を紹介した。カトリン・カウファーとの共著『出現する未来から導く』(英治出版、2015年)はマインドフルネスのビジネス、社会、自己への応用に焦点を当てている。中国とインドネシアでセクター横断型イノベーションのためのMIT IDEASプログラムの座長を務めるほか、MIT×u.labを通して185カ国の75,000人に変革を導くリーダーシップのための学習を提供している。2015年にMITジェイミソン教育功労賞を受賞。

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