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「この国で、生きていても死んでいても居場所がないのは、同性愛者だけ」──『純粋な人間たち』第一章前編公開

英治出版オンライン

実際に起こった事件を題材にセネガル社会のタブーに切り込み、集団の正義のために暴力を行使する人間の根源的な愚かさと、社会から排斥されることへの潜在的な恐怖を克明に描いた、2021年のゴンクール賞受賞作家による衝撃作『純粋な人間たち』(モハメド・ムブガル=サール著)。本書の第一章前半を公開します。

「あの動画観た? 一昨日から出回ってるやつ」

僕は快楽の余韻に身を任せて眠りこんでしまおうとしていた。そうはいかなかった。この地上ではいつだって慈悲に満ちた声が最大の災厄をもたらしてくれる。そうして素面に戻されてしまう。
声は執拗に、「携帯持ってる人ならみんな観てるんじゃないかってくらい。テレビでもどこかの局が流したんだって。すぐ中断されたらしいけど……」

仕方ない。観念して僕は寝室に、汗ばんだ腋窩と煙草の香りが漂い、それにもまして、他のすべての匂いを圧倒するように、性器の、彼女の性器のくっきりとした痕跡が支配する空間に帰還した。嗅覚に訴えかける唯一無二の徴。それを、交わりの後の性器の匂い、満潮の匂い、楽園の香炉からたなびいてきたかの如きその匂いを僕は、たとえ幾百千の匂いの中からでも嗅ぎ分けてみせただろう……。闇が濃さを増してきていた。何時ごろと言えるような時間は過ぎている。深夜。

それでも、外では声の破片たちが薄らいでゆくのを拒んでいた。疲れ果て、けれど眠る楽しみをとうに見失った人々のさざめき合う音が聞こえる。話している、のだろう。どこから来てどこへ行くとも知れないフレーズや、未完の独り言、終わりのないやりとり、届かない呟き、大袈裟な反応、感情のこもっていない間投詞、傑作なオノマトペ、夜がさせる鬱陶しい説教、みじめな愛の告白、卑猥な罵詈の数々を指して、ことごとく話すと呼ぶのならば。

話す。違う、断じて話してなどいない。奴らは言葉とその連なりを脂ぎったソースよろしく口からだらだら垂らしているのだ。流れ出したソースは、どこへゆくでもなく、しかも、どこへでもゆき、ひたすら口の外へ飛び出し、死にも等しく作用しかねないものをなんとしても遠ざけておこうと躍起になっている。
すなわち、沈黙を。奴ら一人ひとりにありのままの自分を直視させずにはおかない、かの恐るべき沈黙を。茶をすすり、カードに興じ、憂いと倦怠に沈みこんでいながら、うわべだけは高邁に、洗練された風を装うことで己の無力を選択の産物のごとく演出し、ある者はそれを、高みから、尊厳と名付ける。クソったれが。奴らが言葉を発するたび、身振りをするたび、その一つひとつにかけようとする実存の重さは、一切の重みを持たない。運命の秤はぴくりとも動かない。針はゼロを、虚を、指し続ける。

なによりおぞましいのは連中の死にもの狂いの抵抗が、その営みの本義にふさわしい壮大な舞台で繰り広げられてはいないことだ。それどころか、砂埃舞う薄汚れた通りの一隅で、闇に紛れ、無限の匿名性の中で行われる。なによりだ。互いの姿が見えていたりした日には、一人残らず自殺してしまうだろうから。それでなくてもじゅうぶん惨めだというのに。連中は待っているのだ。何をかは神のみぞ知る。ゴドーか。夷狄か。タタール人か。シルト人か。野生動物の投票か。誰をかは神のみぞ知る。連中の内の誰かが笑い声を上げるたび、そいつが宙へ投げ出した、懊悩の詰まったブイのようなものが、上空で破裂している気がした。

その様に敬意を表す者もいる。見ろよ、あの人たちはなんて肝が据わってるんだろう! なにがあっても笑ってる! 死に向かって生命への信仰を突きつけてるんだよ! 貧しくとも気品があるな! とかなんとか。そうやって感動して、叙勲も辞さない勢いで、威厳に満ちた立派な胸像をいくつも建立するわけだ。僕に言わせれば、像を建ててもらえるのは死者か英雄か、さもなきゃ独裁者だけだ。夜の住人達、あいつらは、ただただ惨めなだけじゃないか。僕はあの実体を欠いた度胸のメッキを剥がしてやりたいんだろうか?

「ねえ聞いてた?」
「うん、あの動画の話だよね」
「おっ! 観たんだ?」
「いや、なんの動画かはよくわかってないんだけど」
「え、じゃあなんで『あの動画』って言ったわけ?」
「わかんない。なんかつられて」
「聞いてなかったんじゃん」
「うーん、うん、あんまり。ごめん。でも『動画』って言ってたのは聞こえたよ。何の動画?」
「ちょっと待って。持ってるから」

彼女はそう言って僕の肩の窪みを抜け出すや、枕、シーツ、掛け布団、それに抱擁を急ぐ二人が先刻ベッドの上に脱ぎ散らかした衣服の中で行方不明になっていた自分の携帯電話を、ものの数秒で探し出した。そうして我が上半身に再び収まる。画面が発する鮮烈な光にしばし目をやられている僕をよそに顔からわずか数センチのところで携帯を操作する彼女。程なくして、なにも、見えなくなった。画面を残して。

「僕たちはこうして自らが生きる時代のメタファーを敷衍しているわけだ。誰もが盲いた時代、そこではテクノロジーのもたらす光が人々を照らし出すばかりか瞳孔を突き破り、世界を常闇へと沈め、さらには……」
「インテリなうえに」彼女が割って入った。「容赦ないよね。今言ってたことだって、聞く人が聞いたら興味深いお話なのかもしれないけどさ。わたしにはわかんない。ぜんっぜん」

嘘だ。本当はぜんぶわかってる。それどころか、こちらの言おうとしていることを必ずと言っていいほど当てて、いや、もっとこう、演繹というか、そう、まさにそうだ、たちまち演繹してみせるのだ。最初の一言を聞いただけで。ラマ。それが彼女の名前だった。活力に満ちたむき出しの知性の、その煌めきを持て余すあまり彼女は、ある種の恥じらい、あるいは謙虚さから、人前ではひた隠しにして過ごしていた。でも僕はそのくらいずっと前からお見通しだ。憤りとともに僕は仮面を剥ぎ取ってやった。

「嘘だね。そうやって息を吐くみたいに嘘を吐いて。みえみえだよ」
「盲いた世界がどうとか、ほんとどうでもいいから。だいたいみんなの目が見えなくなってるのが見えるってことは、自分はそうじゃないって思ってるわけでしょ。自分は見えてる、って。でもそれ、ほんと? なら見てみなよ、これ」

ラマが再生をタップすると、明らかに素人が撮ったとわかる、声と映像のガチャガチャ入り混じったものが流れ出した。状況を示す手掛かりは一切なく、様々な声と、人影と、息遣いだけが伝わってくる。どうやら動画を撮影している人物は一人ではなく、人の群れに取り囲まれているようだった。手元が揺れており、映像は不鮮明だったが、すこしすると安定してきた。

撮影者が喋りだし──そこで男性だとわかったのだが──半分は自分のため、もう半分は動画を観ている我々のためといった感じで、なにが起きているのか周囲に尋ねるものの、誰からも答えは返ってこない。彼が腕を上方へすこし伸ばし、周囲がより広範囲に映し出されると、人々が群れを成して移動してゆくのが見えた。かなりの人数で、押し合いへし合いしている。遠くの方でいくつもの声が上がる。

「墓地だ! 墓地へ向かうぞ!」
「──墓地? なんで?」
問いかける撮影者。

映像はまだガタガタと揺れ続けている。それにリズムの変化というか、揺れがより小刻みになって、まるで、群衆を追いかけようと、撮影者が携帯を持ったまま走り出したような感じがした。
「なんで墓地なんだ?」懊悩のごとく繰り返す彼。「なんで墓地なんだ?」。
またしても一切の返答は得られなかったがそのままどんどん進み続け、やがて荒ぶる男性の声がいくつも響き渡った。

「着いたぞ! あれだ!」
撮影者は歩みを緩めると、独り言のように「ここは墓地の中だ。近くに行って見てみることにする」プロのナレーター気取りが滑稽と言う他ない口調でそう呟き、塊と化した群れに肘で通り道を開き(痛がる声や、憤慨している声が聞こえる)、謝りながらも、押し入り、肩をねじこみ、進み続ける。不意に画面が派手に乱れたかと思うと、真っ暗になり、数秒が過ぎた。

「そこで携帯落としたみたい」とラマ。
「でもすぐまた始まるから」との言葉通り程なくして、今風の醜悪な用語で言うところの「ビジュアル」が戻ってきた。撮影者は進める限界まで到達したらしく、そこから先は少しの隙間もなさそうだった。

と、口からなにか恐怖とも怯えともつかぬ言葉を漏らし、彼は携帯を人々の頭上へかざした。すると画面の中、数メートル先に、人だかりの壁に囲われるようにして、墓穴が、スコップを持った屈強な男二人の手で掘り進められている様子が映し出された。穴は既にかなりの深さで、地上という肉体にぱっくりと、大きな傷口のごとく穿たれており、あたりには、掘っている二人を除き、誰ひとり動く者はなかった。誰も彼も穴を囲んだまま立ちすくみ、静まり返って、まるで誰か身内の遺体が、さもなくば自分の身体、自分自身の魂が葬られるのを見ているかのようだ。

撮影している男の手にしてからが石にでもなってしまったのか、震えが止まり、映像はくっきりと、生々しい。一心不乱に掘り続ける男二人は永年追い求めてきた財宝に今まさに手をかけようとしているとでもいった風で、一人は上半身裸、もう一人ははだけたシャツが大量の汗で肌にぴったりと張り付き、ともに息が荒い。並々ならぬ力の入れようで掘っているのが伝わってくる。粘土と憤怒を一杯に載せて、代わる代わる動かされるスコップ。穴は広がり、深くなり、やがて片方の男が言った。「よし!」。

すると待ちわびていた合図を得たかのごとく、群衆から、再び、先ほどまでよりも濃厚で血の通ったどよめきが上がり始めた。どうやらなにか人智を超えたおぞましいものが穴と群衆の奥深くに横たわっているようだ。怒鳴り声が方々から響く。

「引きずり出せ! 腐り始めてるぞ、この臭い! 神に背いた者の臭いだ! 決して通してはならなかった者を通した母親の性器の臭いだ!」

なにを言っているのかわからないまま、僕は片方の男を見つめた。墓穴の脇に膝をつき、露わな上半身は穴の中まで入りこんで、筋肉が隆起している。それからものの数秒で、再び外へと出てきた。最初に肩と頭、続いて腕、そうして最後に姿を現したものは、そう、あれは確かに、なにかの先端部だった。墓掘り人の手はなんとかしてそれを墓の外へ引き上げようとしている。

もう一人の男が助けに加わり、一緒になって引っ張りながら、ハアハアとあえいでは、悪態をついた。千年前から埋まっていた重たい匣のようにすこしずつ地中から出てきつつある、なにか。
群集の漏らす息は、嫌悪と快楽が相半ばして荒くなり、アッラーは偉大なり! アッラーは偉大なり! と何度も聞こえてきて、撮影している男自身もまたそう叫んでいた。男二人はまだ引っ張り続けていて、モノはほぼ外へ出てきており、さしずめ白い布に包まれた大きな枯れ木の断片といったところだった。

二人が最後にもうひと踏ん張り、木こりがバオバブに打ちこむとどめの一撃よろしく引っ張ると、死体は穴から勢いよく飛び出して重々しくも無情なざわめきの只中へと突っこみ、怯えきった叫びがいっせいに上がってクルアーンの諳誦と罵声に重なった。掘り出された体が地面に叩きつけられて砂埃が舞う。

その光景に僕は目をつむり、恐ろしさと曰く言い難い不快感にとらわれたが、動画は続いており、不健全な好奇心をそそられて、再び目を開けた。

(注)ウェブ掲載にあたり、可読性向上のため改行を加えています。

モハメド・ムブガル=サール Mohamed Mbougar Sarr
1990年、セネガルはダカールに生まれる。医者の父親をもち、セネガル随一の名門高校を卒業後、渡仏。名門グラン・ゼコールの1つとして知られる社会科学高等研究院に入学し、現在も博士課程に在籍。
2015年、ジハーディストに占拠されたサヘル(北アフリカの丘陵地帯)の架空の村を舞台にしたデビュー作『Terre ceinte(仮題:囲まれた地)』でアマドゥ・クルマ文学賞、Prix du roman métis des lycéens(高校生が選ぶ多文化小説賞)受賞。2017年、シチリア島のある村へ流れ着いた移民たちを描いた第2作『Silence du choeur(仮題:聖歌隊の沈黙)』でサン・マロ市主催世界文学賞受賞。
2021年、『La plus secrète mémoire des hommes』で、フランスで最も権威のある文学賞の一つであるゴンクール章を受賞。


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