組織構造を変えてもうまくいかないときに、本当に大切なこと──日本企業のリーダーたちから学んだ経営哲学 (アイザーク・ゲッツ)
現代のビジネス環境では、どの組織も若い世代の人材を引きつける上で大きな課題に直面している。例えば、2023年にデロイト トウシュ トーマツが実施した調査では、ミレニアル世代の34%は自分の価値観に合わない仕事のオファーを辞退した。しかし、このジレンマは採用で終わらない。社員たちは、もっと大きな課題を経営者に突きつける。
それは社員のエンゲージメントだ。日本で実施されたギャラップ社の調査では、労働者のうち仕事にやる気を感じている、つまり経営者のために全力を尽くして働くと決意している人の割合はわずか6%だった。一方、働くモチベーションは主に給料だと答えた人は71%で、残りの23%は「反発を感じて」おり、意欲の高い同僚の足を引っ張るという形でその不満を示している。
しかし、ギャラップ社のデータには、従業員エンゲージメントが70%に達し、反発を感じている社員の割合が無視できるほど少ない企業も存在する。そのようなことがどうして可能なのだろう?
「企業というボート」の平均像
エンゲージメントに関するこうした数値を明確にイメージするために、ここに、8人乗りのボートを思い浮かべてみてほしい。最前列のあなたと、そのすぐ後ろに座るもう1人は懸命に漕いでいる。中央の5人は時々オールを水につけてちょっとした水しぶきを上げている。一方最後の1人は、力いっぱいオールを動かしているのだが、他のクルーとは反対向きに漕いでいる。そのようなボートがあれば、まったく動かなければ運がよいほうだ。なぜならほとんどいつもそのボートは後方に進んでいるからだ。
これは典型的な組織内の仕組みを反映している。だが、次のような疑問が湧いてくる。このような無関心な、あるいは反発をいだくチーム・メンバーは入社時からそのような傾向を示していたのだろうか?
管理職の経験がある人なら、若手社員の変化を覚えているのではないか。入社したての数週間、あるいは数カ月間は、経費削減や顧客満足度の向上、あるいは製品の品質改善のために前向きなアイデアや提案を熱心に出してきたはずだ。ところが、かつては情熱的だった個人が殻に閉じこもる転換点が往々にしてやってくる。この変化に気づいたマネジャーが様子を尋ねると、彼らはたいてい、諦めたような調子でこう答えるのだ。
「何をすべきかを言ってください。そうすればやりますから」
最初はモチベーションが高くやる気満々だった社員が、ただの指示待ちの作業員になるとは、いったい企業内の仕組みはどうなっているのだろう? いや、それ以上に重要なのは、いったい私たちはどうすればこのような有害なサイクルを止めて、こうした人々のやる気を取り戻すことができるのか?
従来のアプローチ
もちろん、企業は社員の無気力問題に気がついている。私は多くの経営者と時間を共にするが、非常によく耳にするのは次のような意見だ。
「社員にすべきことを指示しても、何も成果が上がりませんでした」
彼らが考えがちな意欲向上策は、インセンティブに関するものだ。例えば、「社員の給料や賞与、臨時収入、快適な職場の提供などによって、社員はこれまでよりもよく働き能率も上がるはずだ」と考える。ところが残念なことに、60年以上におよぶ調査結果は、実はこのアイデアが誤りであることを示したのだ。
たしかに、このような「にんじん」を1本ぶら下げると、社員は遅くまで残業したり週末に出社したりするようになるかもしれない。ところが、次に何かを依頼するときには、にんじんは1本ではなく2本必要になる。悲しいことに、インセンティブ施策によってやる気に満ちた社員が増えることはなく、逆に何をするのにも見返りを求める、報酬目当ての社員の割合が増える、という現実を突きつけられることになるのだ。
もう1つの考え方は、無気力の主要因は組織の階層構造と官僚制であるというものだ。これは、1950年代後半の経営理論家であるアージリス、ハースバーグ、マクレガーにさかのぼることができる。彼らは組織の階層構造と官僚制が社員のやる気をそぐと主張した。
現場レベルでは、1970年代に、オランダの電気技師で企業のオーナーでもあったゲラルド・エンデンブルグは、階層的な官僚制に代わるものとして、多数決でも総意(コンセンサス)でもなく、幅をもたせた合意(コンセント)で意思決定する「ソシオクラシー」を導入することによって、社員のエンゲージメントを改善しようとした。やがてその方法論を体系化し、ソシオクラシー・グループを設立して普及活動を展開した。
多くの企業が、ソシオクラシー的な合意(コンセント)による意思決定、サークル(自己組織化された意思決定のグループ)、サークル同士の橋渡し役を2人置くダブルリンキング(二重連結)などを採用しているにもかかわらず、組織構造としてのソシオクラシーはどの主要企業でも導入されたことがない。
最近では、ソシオクラシーに影響を受けた「ホラクラシー」(詳細はその開発者であるブライアン・J・ロバートソン著『HOLACRACY[ホラクラシー]──人と組織の創造性がめぐりだすチームデザイン』を参照のこと)と呼ばれるアプローチが生まれている。他のやり方でも、階層構造に代わる組織デザインによって社員の無気力問題を解決できるはずだという問題意識を持つことはできるだろう。
実際、産業革命が始まったばかりの頃、企業は次のような問題を解決しようとしていた。
その数学的な答えは階層構造で、それぞれのノード(節点)が監督者を表していた。
今日、企業は無教養な小作人ではなく、個人の生活については自ら多くの重要な決断をしている社員を雇っている。したがって、産業革命の時とは大いに異なるため、問いを次のように再定義する必要がある。
もしあなたが10層におよぶ組織階層を維持しつつ、社員に信頼と自主性を提供できているのであれば、組織階層は問題ではない。事実として確かなのは、階層構造と官僚制は「統制」のための構造であり、統制は「信頼」とは反対の概念だ、ということだ。したがって、自主調整を促す組織構造は、階層が少なく、官僚的な要素も薄いことが多い。
だがここでも、焦点は、階層の少ない組織構造の具体的な形態にあるわけではない。重要なのは、社員が自ら活動を調整し、信頼と自主性を実感できる構造をどのように築くかにある。
問題は組織構造ではなくリーダーシップにある
読者は、ここまで紹介してきたさまざまな概念は、しょせん言葉の違いだと言うかもしれない。しかし以下に示す事実はそうではないことを明らかにするだろう。
ある会社が、従来型組織の階層を思い切って減らそうとしているとする。その際に組織デザインを先頭に立って担うのは、常にトップの経営層だ。それを自主的に行うか、コンサルタントの助けを借りるかは関係ない。
この際に経営層は、新しい組織構造のデザイン案が社員たちに受け入れられるかどうか、つまり「バイイン(関係者の賛同)」を確保できるかどうかが重要課題になると考えるだろう。
しかし、懸命に社員の賛同を得るために努力しても、ピーター・センゲが指摘するように「人は、誰かが自分を変えようとしていると感じると、たとえうわべでは支援を口にしても、心のどこかで変化を拒んでいる傾向がある」(ロバート・グリーンリーフ著『サーバントリーダーシップ』の「おわりに」p537)という状況が頻発する。
一方で、もし経営層が社員を最優先に考え、社員間の信頼と自主性を育む組織環境を目指すのであれば、その会社は次のように物事を進めるはずだ。
信頼と自主性を生み出す要素を真に把握できるのは社員だけなので、その環境の共創に彼らを関与させる。
社員たちの信頼を裏切るような「社員にとって何がベストかを知っているのはマネジャーだ」という家父長的なスタンスをとるのではなく、新しい組織を共同でつくる活動に社員を招待する。
社員たちが共同でつくり出した組織のあり方と、将来にわたって進化させる権限を社員たちに与える。
こうした取り組みを主導できるのは、会社の変革を実行する最終的な権限を持つ人物、つまり会社または事業部門のトップである。私たちの調査によると、そのような変革を成功させるには、組織トップは「献身的な哲学者」かつ「サーバントリーダー」でもあるという2つの主要な資質を体現している必要がある。
献身的な哲学者であること
私たちの本『フリーダム・インク』は、そのタイトルから1つの組織モデルを提示しているように見えるが、実際にはそのようなモデルなど一切提示していない。その代わりに、本書はビジネス哲学(組織環境の土台となる一連の考え方)と、企業のリーダーが新しい組織を社員と共創するための原則を紹介している。歴史を通じ、社会や人間の営みを把握するには、社会学や心理学などで分析された「普遍的」モデルよりも、より広い意味での哲学の方がはるかに強力だった。
これと同じことが、企業における営みにも言えると私は思う。これに関する最も強力な見解は、ダグラス・マクレガー、クリス・アージリス、エドワード・デミング、大野耐一(トヨタ自動車工業元副社長。「トヨタ生産方式を体系化した)、柴田昌治などの経営哲学者によって提供されてきた。
興味深いことに、モデルと技法を求めるあまり、多くの経営者はデミングの品質管理や大野のトヨタ生産方式など、こうした哲学から派生したツールや手法を主に取り入れてきた。しかし、こうしたツールを支える根本的な信念や哲学、例えば社員の知性に対する信頼や自発的な行動への意欲などを見落としてしまった。その結果、デミングや大野が主張したほどには、こうしたツールが社内ではうまく機能しなかったため落胆した者も多いだろう。
ところが、タイヤ製造で世界トップのミシェランはそうではなかった。第1に、ミシェランは他の多くの企業と同様、トヨタ生産方式の影響を受けたさまざまなツールを実装し、ミシェラン・マニュファクチャリング・ウェイ(MWW)と名付けた。その結果、生産性も品質も改善したのだが、工場現場を頻繁に訪ねているミシェランの経営陣は、工場作業員たちがMMW導入前よりも幸せに見えないことに気がついた。そこで、2013年に、社員の信頼と責任に基づく組織への変革に乗り出すことにしたのである。今日、ミシェランの80工場のうち60以上でこの変革が実現している。恐らく、ミシェランは21世紀のトヨタになるのではないだろうか(私はこの記事でミシェランの変革を描いた)。
日本は、CEOが献身的な哲学者になれる文化と伝統を備えた国だと思う。私はエーザイの内藤晴夫社長の実績を研究し、彼と長時間にわたって議論した。内藤は、日本の武士道が業務担当者に一定の倫理的義務を課しているのだと説明してくれた。
「侍には社会に対して『人々を幸せにするために働く』という義務がありました。それができないと恥ずかしくて名を残せなかったのです」
こうした伝統があるからこそ、企業のリーダーは、社員たちが幸せな気持ちになって、会社と社会のために自ら最善を尽くす組織環境をつくり出すという明確な責務を負っているのだ。
私はまた、京セラ創業者の稲森和夫がパリで講演をした時に運営に関わった。稲盛は自著の中で「アメーバ経営」を提唱しているが、講演では、従業員1人ひとりの知性や自主性を発揮する能力を信頼すべし、という強い道徳原則とそれに基づくビジネス哲学について説明し、企業は社会全体の幸せと繁栄に貢献することを目指すべきだと語った。そのような哲学は普遍的なものだが、それを自分の会社にどう導入すべきかについてはリーダー1人ひとりが自分の方法を見つけ出すべきだ、というメッセージだった。
変革を成功させるリーダーにとっては、真の哲学にこだわり続けることが重要だが、それだけでは十分ではない。サーバントリーダーでもあらねばならないのだ。
サーバントリーダー
サーバントリーダーシップは経営思想家のロバート・グリーンリーフによって提唱された概念で、社員や顧客、コミュニティを第一に考え、彼らのニーズに奉仕する人のことを意味する。この概念は道教の創始者、老子までさかのぼれると私は考えている。老子はこう書いた。
以前、私は東芝CEOの島田太郎と東芝本社で対談を行った。私は多くの大企業の本社を訪ねたことがあるが、経営委員会が開催されるような部屋であれほど控えめだったのは(スウェーデンで経験した)1度だけだ。いや、「CEO」という案内板があれほど小さく掲げてあるドアは見たことない。しかし恐らく、これらは島田太郎の謙虚さの象徴ではなく、日本企業にはよくあることなのではないか?
それでは、彼が私に言ったことに耳を傾けよう。島田ははっきりと、企業の役員と管理職は「現場で働く社員を信じ」なければならないと強調した。そして、「一人一人のアイデアを活用している点や、助け合いの精神などは、日本人の心の奥深くに根ざしており、日本の文化的背景にも近い概念です」と付け加えた。
実際、武士道は、謙虚なサーバントリーダーになりたいと思っている多くのCEOには非常に役立つ可能性がある。例えば、本田宗一郎は退任にあたり、1年半をかけて日本中のホンダの社員全員と握手をして感謝の言葉を述べ、その後半年をかけて外国の従業員と同じことをした(と野中郁次郎は著書で紹介している)。彼はそんな義務を背負っているわけではなかったが、この謙虚で奉仕しようとする姿勢を目にした多くの社員は涙したという。
あるいは2000年代後半に日本航空のCEOを務めた西松遥の例を紹介しよう。彼は社長室の壁を取り払って誰でも入れるようにし、会社の食堂で社員とともに昼食を取り、飛行機内で新聞紙を並べる作業を手伝い、社員たちと話すために空港内を歩くことも多かった。そして賃下げをしなければならなかった時、まず自分の報酬を下げた。こうした行動すべてが社員の忠誠心とエンゲージメント向上に貢献した。
謙虚さは、サーバントリーダーであるための必須条件だ。ところが、誰もが最も知的だと思っているCEO自身が、自分よりも現場の社員の方が解決策を知っていると明言するのは簡単なことではない。そのような謙虚な姿勢を見せるには、CEOは「事前の自己変革(priori self-transformation)」をしなければならない。
実際のところ、一部のCEOには、そして恐らく多くの日本のCEOには、謙虚で他の人々のために奉仕することは自然で簡単なことかもしれない。そして、自己変革を必要とする他のCEOは、経営者向けコーチの助けを借りればそれができる可能性がある。仏教では、「自分自身を変えることほど難しいことはない」という。例えばミシェランは、コーチを雇って1000人の幹部層の自己変革を手助けした。
島田太郎は言う。
これによって会社が得られるものも多いだろう。島田との対談で、私はあるベルギー企業の物語を紹介した。私の研究対象だったその会社は信頼と自主性を重んじる組織環境を導入した。数年後、その会社の経営陣は、会社の将来を考えるため地中海のキプロスに出向いて4日間のセミナーに参加したのだが、セミナーから戻ってみると、出かける前よりも会社の業績がよくなっていたのだという。これを聞いた島田は、「私もキプロスに行こうかな(笑)」と反応した。
実のところ、会社が素晴らしい業績を上げるためには、CEOや他の経営者がオフィスに常駐する必要がないというのは、信頼と自主性に基づく企業風土から得られる最大の報酬の1つかもしれない。もう1つの副産物は、経営者が会社の日々の業務から解放されるので、目線を上げて会社の将来を考えられるということだ。そして、海辺の散歩もそのような思考にはうってつけかもしれない。
理想化しない
ただし、信頼と責任に基づく組織運営を理想とすることは避けるべきだ。私もまた、現場の社員の知性を何十年も信頼してきた日本式経営を理想化すべきではないと自戒している。
最近訪日した際に、日本企業に対して、KPI(重要業績評価指標)などによって社員を統制する西洋式の経営アプローチを採用せよ、という圧力が高まっているという話を聞いた。統制は信頼の反対だが、この圧力に屈している日本企業があるとしても驚かないだろう。したがって、信頼と責任に基づく組織運営は多くの企業には効くとしても、あなたの会社には向かないかもしれない。
さらに、従来の企業が信頼と責任に基づく組織に変革すべきだ、あるいは変革するはずだという進化の法則など存在しない。私は多くの解放企業が従来型のマネジメントに戻ってしまった例を何度も目撃してきた。そうした企業は解放企業の少数派であるが、それでも存在している。ホラクラシーを採用した企業にも同じことが言える。ミディアム(出版プラットフォーム)やザッポス(オンライン靴小売店)のような最も有名な企業も、何年か実践したあとにいくらか手放している。
実際、どのような組織の変革も、まずはリーダーシップの問題なのだ。企業のリーダーが、社員、顧客、コミュニティが持っている人間としての基本的なニーズに奉仕し、そのような献身的努力の結果として経済的な成果を上げることに真摯に取り組むことは厳しい行程であるが、それ自体は目標ではない。
別の言い方をすると、仮に社員、顧客、コミュニティのニーズに奉仕するような組織ができたとしても、リーダーあるいはその後継者が業績向上を第一に考えはじめると、数カ月で崩壊する可能性がある。
結局のところ、解放への旅は困難であり、それが継続できるかどうかは不確実だ。しかし、この旅は毎年成果を上げており、新しい組織のあり方は可能であることを実証している。