小さなラジオ局、火山の村を変える──『雑草ラジオ』一部公開
はじめに
2014年、世界銀行主催のハッカソン〈レース・フォー・レジリエンス〉が開催され、先端ITによる防災・減災のアイデアが競われました。
そのなかで、昔からの枯れた技術と最新技術を組み合わせて、受賞したITがあります。「持ち運べる災害ラジオ局」というアイデアです。
スマホアプリと小型のFM送信機・アンテナを組み合わせることによって、ラジオ放送に必要なすべてを鞄サイズに収めてしまおう。そうすれば、どんな被災地にも機材を持ち込んで、支援情報をすぐさま届けることができるじゃないか。
東日本大震災のボランティア活動などをきっかけとして、ITの専門家でも技術者でもない私が、ふと思いついたアイデアです。
その後、このアイデアは「バックパックラジオ」として実用化され、インドネシアの火山地帯に配備されるようになりました。本書は、この取り組みについて物語ります。
……こうやって概要だけをお伝えすると、なんだか専門的で堅苦しいように聞こえるかもしれませんが、私がライター業の傍らで仲間たちとともに続けているこの活動は、「大人の部活動」のようなものだと思っています。楽器を持ち寄ってバンドを結成してライブ配信をしたり、マニアックなメンバー同士でトーク番組をつくってポッドキャストをすることと、同じです。
コンテンツの質を少しずつ工夫し改善していって、ファンが増えて、ついには晴れ舞台がもらえる。そんなの、面白いに決まってるじゃないですか。
おまけに、活動の半分は「旅」でした。びっくりするような光景を訪れ、旨いサテ(焼き鳥)やマンゴーをつまみながら興味深い話を聞く。そんなことをつなげていった結果が、災害多発地域における防災・減災力の向上だったのです。
科学技術を社会問題に応用することを「社会実装」と呼びますが、バックパックラジオの社会実装がうまくいった理由は、私たちの活動の結果だけではありません。日本とインドネシアで、いち早くラジオによる災害情報提供の効果に気づき、取り組みを続けてきた方たちがいればこそです。
実は、日本の「災害ラジオ局」は世界で最も先進的な制度です。被災地にラジオ放送が必要となれば、面倒な書類手続きをすべて省いて、即座に放送免許が交付されます。専用機材も届けられます。
そして世界で二番目に、日本を参考にして同様の制度を設けた国がインドネシアです。
いまどき、ラジオを特別なITと見る人は少ないでしょう。音声だけしか伝えられず、放送範囲も限定的な代物です。しかし、数キロ先にしか届かない小さなラジオ放送だからこそ、できることがあります。それは、歩いて会える範囲の、目の届く範囲の、「私たち」を勇気づけ、力づけ、盛り上げることです。
大手のテレビやラジオ番組ほどに達者なトークはできなくとも、近所のお兄さんやおばちゃんや子どもたちが何を考えているのか、気づくことには意味があります。たとえ大きな災害に遭ったとしても、苦難を分かち合い、立ち直る道筋を話し合い、行動に移すことができるようになります。小さいラジオ局ほど、そんな力を持っているんです。
この本のPART 1では、インドネシアと日本を舞台に、小さなラジオの力を発揮した先駆者たちのエピソードを紹介します。
PART 2では語り口を変えて、私がどのように右往左往しながらバックパックラジオのアイデアを生み出し、仲間を集め、試作し、導入し、そして活用に至ったのかをまとめました。
インドネシアから物語を始めるのは、日本の常識をいったん忘れて、まるで初めて見るもののように「災害」や「ラジオ」に触れてほしいからです。きっと、見過ごしていたものに気づくことができるでしょう。
災害ラジオの本ではありますが、防災だけでなく、地域活性化やイノベーションなどのヒントに満ちた内容になったと思います。それが、あなたのどこかに届きますように。
* * *
PART 1 1章
小さなラジオ局、火山の村を変える
噴火で消えた聖なる岩
インドネシアの成人年齢である21歳になったとき、スキマン・モートー・プラトモは、ムラピ山の頂上を目指して歩きだした。
村の段々畑を通りぬけ、ヒメツバキやミモザアカシアの樹林帯を越え、枯れた川底の土砂を踏みしめていく。どれだけ急な斜面であっても、階段はもちろん、手すりや鎖なんてものはない。162センチのからだで地面の亀裂をひょいと跳び越え、木の枝につかまり、獣道めいた傾斜を駆け登る。
堆積した火山砂をジャリ、ジャリと踏みしめながら進むにつれ、エレファントグラス、シャクナゲ、ジャワエーデルワイスと、周辺に生える植物の背丈が短くなっていく。
やがて山中は、安山岩と玄武岩のガレ場となった。地表に噴き出たマグマが急速に冷やされて生まれた場所だ。どこもかしこも黒い岩と石と砂だらけ。緑あふれる熱帯の国とはとても思えない。下界と完全に切り離されたここは、まるで神話の世界だ。奇岩壁は巨人としてたたずみ、クレーターから立ちのぼる蒸気には精霊が踊る。そこかしこに、石が積まれて社がつくられている。
冷たい強風にあおられ、空気に灰が混じる。二酸化硫黄の匂いが立ちこめてきた。足下から水蒸気が漏れる。岩は、触ると火傷しそうなほどに熱い。
「噴火はここで起こるのか……」
スキマンは感慨に浸りながら、落石に注意して進む。
登りつづけること6時間。とうとうムラピ山の頂上、プンチャック・ガルーダに到達した。10メートルほど突き出たその岩は、神鳥ガルーダが翼を休めている姿から名づけられている。
ガルーダの背に立てば、南に賑やかなジョグジャカルタの街が拡がっているのが見えた。さらにその先にはパラントゥリティスの海、荒波のインド洋が望める。
大人の証しとして伸ばしはじめていた口ひげを風がくすぐる。疲労よりも、達成の高揚感が何倍にも勝る。幼い頃から聞かされてきた神話の世界を踏破し、スキマンの胸は誇らしさでいっぱいになった。
今はもうプンチャック・ガルーダは存在しない。
スキマンの初登頂から20年後、2010年の噴火によって砕け散った。
地質学と神話
ムラピ山はインドネシアのジャワ島中部に位置する。古都ジョグジャカルタから30キロしか離れていない、地球上で最も活発な火山のひとつだ。
この山に西洋科学が持ち込まれたのは1836年にさかのぼる。オランダ軍医の仕事をさぼってジャワ島の自然観察をしていたドイツ人、ヴィルヘルム・ユングフンが植生と地質を細かく調査したのだ。若き探検家は何度も火山に登り、竹とガラスでできた気圧計によって頂上の高さを2920メートルだと計測した。
その後の地質学は、ムラピ山がおよそ6万年前に生まれた成層火山であることを明らかにしている。噴火の繰り返しによって、溶岩や火山砕屑物が厚塗りされて生まれた円錐状の火山だ。日本の富士山も成層火山の一種である。
ニュージーランドからインドネシア、フィリピン、日本、ベーリング海峡、南北アメリカ海岸まで太平洋をぐるりと一周する輪は環太平洋火山帯と呼ばれているが、英語のRing of Fireのほうがわかりやすい。地殻プレートの衝突によってつくられたこの「火の輪」は、地球にとってはガスコンロの火口のようなものだ。
インド・オーストラリアプレートとユーラシアプレートの島弧にあるムラピ山もまた、その火口のひとつである。ジャワ島の人々も、日本列島の人々も、火元のそばでずっと暮らしつづけてきた。
20世紀に入ってからムラピ山の噴火が観測されたのは1902年、1903年、1904年、1905年、1906年、1909年……と驚くほどのハイペースで、列挙するときりがない。5年以上ゆっくり眠ることがない火口付近には、地表に出たマグマが盛り上がってできた溶岩ドームがほぼいつでも見られる。この溶岩ドームが崩れることによって起こる雪崩のような火砕流は50回以上、発生している。ちなみに、1991年に長崎県の雲仙岳で起こった火砕流も、こうしたムラピ型の火砕流だ。
繰り返す噴火はムラピの姿をつねに変え、成長させてきた。カラーコーンのようにきれいな円錐形のときもあれば、のこぎりのようにギザギザだったときもある。2019年時点での標高は2986メートル。最初の計測時から66メートルも背丈が伸びた。
この火山のお膝元、ムラピ山周辺の標高1000メートル圏内には、今なお1万人を越える人々が暮らしている。スキマンのふるさとであるシドレジョ村もそのひとつだ。
1977年、7歳のスキマンが松下電器のトランジスタラジオに触れたとき、まさか将来、自分の村にラジオ局を設立するとは思わなかっただろう。ただ、街から飛んでくる国営ラジオ放送を夢中になって聞いていた。
毎週水曜日の夜は、ワヤン・オラン(舞踊劇)が流れる時間だ。家族だけでなく、集落のみんなでゴザを敷いて、焚き火のようにラジオを囲む。村に電気は通っていない。電池式ラジオのスイッチを入れ、ダイヤルを少しずつ回して調整すると、ノイズの中から、鉄琴や太鼓、銅鑼の音が蠢きあうガムラン音楽とともに演劇が聞こえてくる。ジャワの伝統芝居であるワヤン・オランが語るのは、神話叙事詩だ。
幼い頃のスキマンにとっては、ムラピ山についての科学的なデータより、山の伝説のほうがずっと馴染み深かった。
「だからムラピの森で鳥を殺しちゃだめなんだ。木も切ってはいけない。オシッコなんて、もってのほかだぞ」
叙事詩に夢中になる子どもたちに、大人はクギをさすことも忘れなかった。
ジャワ暦の正月にあたるスロ月1日になると、シドレジョ村の大人はムラピ山に登り、米や果物、野菜、花、家畜などを捧げる。儀式は神への感謝の表明である。装束をまとい、清めたクリスを腰に差した大人からスキマンは、山中のこと、儀式のこと、そこで出会った精霊たちのことを聞いて育った。だからこそ、21歳の初登山は驚きと感慨に満ちていたのだ。
火山のふもとで生きる知恵
シドレジョ村の標高は1300メートル。火口からわずか4キロの距離で人々は暮らしている。人口は約4000人。1200の家族。ムラピ山の南東に位置する細長いかたちの村からは、斜度10%ほどの道が登山口まで続いている。
村役場と学校と石職人を除けば、ほとんどが農家だ。米やキャッサバ、落花生、トウモロコシ、トマト、コーヒー、タバコなどを育て、ハチミツを採取し、ヤギや牛と暮らす。スキマンの父ソモ・ウィヨノも、ありふれた普通の農家だった。
しかし、スキマンがいちばん覚えているのは、噴火時に大声で隣人に呼びかけている父の姿だ。
「そっちに行っちゃいけない! この道沿いに逃げるんだ!」
「走れなければタコノキのゴザを被って灰を防げ! プラスチックのは使うな!」
火口が逆向きのため、シドレジョ村に火砕流や溶岩流が来たことはない。それでも、焼けつく火山灰が大量に降る。熱せられた化学繊維は溶けて肌に張りついてしまうが、タコノキであれば大丈夫。父は、噴火したときに適切な対処ができる知恵を受け継いでいた。
山の異常は、動物たちがまっさきに教えてくれる。ムクドリの群れが山からいっせいに逃げ出せば、それは噴火の予兆だ。
鳥類は体重比で人間の4倍の呼吸器を持ち、いちどにたくさんの空気を吸い込む。だから空気中の毒素には敏感だ。山から硫化水素が噴出すれば、即座に飛び立って森を離れる。「ニャイ・ガドゥン・メラティの森で鳥を殺してはならない」とは、そういう意味を持つ。
空が見えない夜に噴火したらどうする? あらかじめ「警報」を設置しておけばいい。山頂付近に竹をぐるっと植えておくのだ。熱い噴石や灰がそれに当たれば、パァーン!と竹のはぜる音で噴火に気づくことができる。父や祖父、ご先祖様、シドレジョ村に住まう人々は、代々こうした方法によって身を守ってきた。
1991年の初登頂から、スキマンは毎年ムラピに登りつづけている。それもすべて山を知るためだ。火口はどっちを向いているのか。溶岩ドームはどこにあるのか。ガスの噴出孔はどこか。ガスや溶岩はどこを通るのか。神話の世界まで行けば、火山の状態について多くを知ることができる。
そのころにはシドレジョ村にも電気が通うようになった。中央政府によってムラピ山をモニタリングする装置があちこちに設置され、伝統的な手段に代わる新たな緊急連絡の手段が用意された。
近代的な設備が導入されたその結果、情報が伝わる速度は、以前と比べてずっと遅くなってしまった。
誰が危険を伝えるのか?
ムラピをモニタリングする観測所は、山の周囲5カ所に設置された。地底を移動するマグマが活発になると、火山性地震がよく起こるようになる。その震度や、大気中のエアロゾル濃度を測定することによって、噴火の予兆に気づくことができる。
問題は、気づくことができるようになったのは誰か、だ。
火山活動のデータは、観測所からジョグジャカルタの地質災害研究技術開発センターに送られる。次に、首都ジャカルタに転送され、担当省庁によって対応が協議される。その後、県の担当者、地区の担当者を経て、ようやくムラピに住む集落の長に警告が通達される。
ムラピ山の危険は溶岩や灰だけではない。ウェドゥスゲンベル(wedhus gembel)と呼ばれる灼熱の雲が発生することもある。羊のかたちをした摂氏1000度の雲は、斜面を滑るように下っていく。1994年にトゥルゴ村を襲ったウェドゥスゲンベルは66人の死者を出した。中央政府の警告が来たのは、被害が出た30分後だった。観測所がすぐそばにあったにもかかわらず。
当時、村役場に勤めていたスキマンですら、ジャカルタ発のニュース番組を見て初めて山の情報を知ることがあった。
さらに政府は、村人が緊急時に鳴らすケントンガン(木製の打楽器)を撤去し、代わりにサイレンを設置した。辺境の山奥に住む、何も知らない哀れな人々を近代化によって導かなければならない、と。
再び起こった噴火のとき、サイレンは故障して鳴らず、ソレマン村で人が亡くなった。
スキマンにとって、怒りに震える日々が続いた。何世代にもわたって伝えられてきた文化や意識を誰もが蔑ろにする。生きるために必要な情報へのアクセスすら遠ざけられ、苦しむ人々を増やしている。「私たち」の暮らしを誰も良くしようとしない。
であれば、「私」がするしかないじゃないか。
村役場を辞めたスキマンは、学校の卒業証書など就職活動に必要な書類を棚から取り出すと、庭先ですべて焼き尽くした。紙束をあっという間に灰に変えて噴き上がる炎を見ながら、これからはシドレジョ村のための活動だけに集中すると決めたのだ。
「生活はどうなるかしら」
「それはもう、神様におまかせしよう」
ラジオ、開局
ムラピの知恵を受け継ぎ、育てていくために最も適した情報技術、最もふさわしいITは、いったいなんだろうか?
「ハロー、ハロー」とトランシーバーを使ったやりとりは村内でもよく見かけたが、この小型無線機は、軍人か役人でなければ使うことを許されていない。家々をケーブルでつないだインターコムと呼ばれる内線電話もあったが、いちどに大勢の人へ知らせるには不向きだ。当時の村にはスマホはもちろん、携帯電話を持っている人などいない。
2000年代になって、インドネシアでは多くの市民組織、NGOが活発な動きを見せていた。スキマンは市民活動家に会うたびに相談を持ちかけた。
「山のことをみんなに伝えていきたいんだけど、方法が思いつかないんだ」
「それなら、ラジオをやってみたらいいんじゃないか」
そう教えてくれたのは、サトゥナマというジョグジャカルタのNGOだった。スキマンが幼い頃に聞いていたワヤン・オランは街から広範囲に届く電波だったが、もっと小さな送信機を使うことで、村単位でも番組を放送できるというのだ。
トランシーバーのような事務連絡でもなく、インターコムのような1対1のおしゃべりでもなく、ラジオから歌と音楽に添えて語りかければ、1200世帯の家族たちも、耳をかたむけてくれるかもしれない。あの頃の自分と同じように……。ムラピ山が抱える問題の情報伝達に、ラジオを使ってみよう。
ラジオ局の立ち上げにあたって、スキマンはパサグ・ムラピの若者たちに声をかけていった。被災した村民をつなぎ、支援するためのボランティアグループだ。
「でもラジオ放送だなんて、国や大きな企業がやるものでしょう。そんなことができるんですか?」
「小型のFM送信機なら、私たちでも手が届くらしい」
「へえ、じゃあやってみようかな。好きな音楽かけていいんですよね」
「私、ラジオで歌ってみたい!」
こうして、パサグ・ムラピのメンバー数人が放送スタッフとして加わった。
放送に必要な機材は、アンテナに送信機、マイク、ミキサー、音源、ケーブル、そして電源。マイクやミキサーは村の機材を借り受け、音源はYouTubeでもMP3でもCDでもなく、古いカセットテープ。300万ルピア(約3万円)を市民ローンで調達し、20ワットのFM送信機を手に入れた。
放送スタジオはスキマンの自宅。ヤギ小屋の屋根にアンテナをくくりつけた竹を立てかけ、そこから電波を飛ばす。
開局は2002年。局名はリンタス・ムラピ。名前の意味合いは「すべてのムラピの人々へ」。
エンタメから対話の場所へ
「こんにちは。こんにちは。107.9メガヘルツ、リンタス・ムラピFMからお送りします。今日のムラピはすこし曇っていますね……」
シドレジョ村のみんなに向けて語りかけ、カセットプレイヤーのスイッチを押して音楽を流す。音楽と天気とムラピ山に関するトークショー。開局当初の放送内容はとてもシンプルだ。パサグ・ムラピのメンバーが持っているテープだけでは、すぐに音楽に飽きがきてしまう。スキマンは、村中からカセットテープを借りて回った。
テープがこんがらがって放送が止まってしまったこともしばしばあったが、リンタス・ムラピは、シドレジョの人々にとっておおむね好意的に受け入れられた。もっともそれは、生きるための知恵、災害の知識を学べるからではなく、他の放送局より自分たち好みの音楽が流れてくるから、といった理由だった。ツマミを回して音量を上げて、畑を耕しながら、家畜の世話をしながら、庭先で収穫したタバコの葉を乾かしながら、村人たちは放送を聞いていた。
シドレジョでは他の村と同じくらい、あるいはそれ以上に芸能が盛んだ。演劇から演奏まで、さまざまな同好会のグループがある。スキマンは積極的に同好会をラジオ局に招いて、ガムランの生演奏をしてもらうことにした。みんな生粋のお祭り好きだ。隣人がラジオに出演すれば、「あ、自分もやりたい」と思ってもらえる。ただ聴くだけでなく、アーティストとして歌や演奏を披露できる場所として、リンタス・ムラピは少しずつ知られていった。
ラジオには音楽以上の役割がある。村人がそう気づいたのは開局から2年後、2004年のことだった。
周辺の村落によって管理されていたムラピの森が、突然、中央政府によってデレス・インダという名の国立公園に指定され、立ち入りを禁ずると発表されたのだ。違反者には罰則が科せられる。
シドレジョだけでなくムラピ周辺のすべての村がこれに反対し、首都ジャカルタでデモ活動もおこなわれた。スキマンもデモに参加したが、それはそれとして、政府による宣伝・周知活動もリンタス・ムラピで放送した。彼らにも言い分がある。
「なぜ国立公園にするのか、それは自然を将来にわたって保護するためだ。インドネシアの森林は違法侵入によって減少が著しい。これからは厳しく管理していかねばならない」
一方、村側の意見もラジオを通じて放送した。
「なぜ勝手に今までの暮らしを奪われなければならないのか。罰すべきは違法伐採者ではないか。むしろ我々こそがムラピの森の守り手である」
スキマンは他にも、さまざまなセクターの声を拾った。林業団体や研究機関、ガジャマダ大学の森林学部、森に関するNGO……やがて村人も、村役場も、そして政府も、リンタス・ムラピがヤギ小屋の音楽放送局ではなく、重要な「ムシャワラ」の場であると認識していった。
インドネシアの農村社会にはムシャワラの文化がある。すべての問題は寄り合いでの会議・相談・談合によって、「全員一致」を目指すべきという考えがあり、その話し合いをムシャワラと呼ぶ。そのために延々と、延々と話を続ける。
一つ、自分の意見を言うだけでなく、相手の意見を認めること。
一つ、どちらが勝ったのか負けたのか、白黒をはっきりさせないこと。
一つ、特に結論を出さないまま、なんとなくみんなの意見を丸めてまとめること。
これらがムシャワラを成立させるための大いなる秘訣だ。
スキマンは、国立公園の問題に関するムシャワラの議長としてふるまった。政府とムラピ山の人々との対話が繰り返され、たどり着いた結論は「国立公園は制定するが、ムラピの住人であればふだん通り森に立ち入ってよい」という折衷案だった。
この事件をきっかけに、リンタス・ムラピの役割は大きく知れ渡ることになる。ラジオを通じて自分の意見を発表することが、村の暮らしを変えることにつながっていくとわかったのだ。村役場に勤めるスキマンのかつての同僚たちも、ラジオ局のクルーとして参加するようになった。
(つづく)