起業家たちの物語と分析の枠組みから、あなたに何が見えるだろう?──『ニューリテール進化論』監訳者による序文公開
「なぜ、中国の小売革命の本なんて読まなくちゃいけないのだろう?」
この問いは、
「なぜ、私は、この本を日本の読者に届けたいと思ったのか?」
という問いに隣接している。
そして、その答えは、三つの考えと一つの願いから成り立つ。
私は、日本の読者にとって、この本が「必要で」「面白く」「役に立つ」と考えた。
そして私は、あなたやあなたの組織に、変革を起こしてほしい、と願っている。この本の「物語」や「枠組み」を生かして。
では、これからその考えと願いについて、記していこう。
まずは「必要性」について、である。
小売の世界で大きな変化が続いていることを、あなたは知っている。
あなたが、日本に暮らす市民・消費者なら、個人的にモノやサービスを購買しようとしたときのあらゆる段階において、新たな機能や便利な選択肢が生まれ、よりパーソナルになったことを感じているはずだ。
あなたが送り手側、すなわち提供するモノやサービスをどう市民・消費者・利用者に届けるかを考える民間企業や行政組織などの一員であれば、別の角度からこの機能や選択肢を活用しているに違いない。時にそれらと「格闘している」かもしれない。
私たちの多くは受け手であると同時に送り手でもある。まさに私たちはデジタル小売革命の渦中に生きているのだ。
「ニューリテール」という概念は、2016年に、中国・アリババ創業者の馬雲(ジャック・マー)が提唱した。この概念は、世界的なパンデミックとそこからの脱出にともなう行動変容と、技術的革新や人々の経験の蓄積などが加わり、日々発展し、その実践は加速している。
著者たちは、本書のねらいを「中国が推進するニューリテール革命の秘密を解き明かし、(中略)他国にとっての教訓を見つける」こととしている。では、日本にとって、たとえばどんな教訓があるのだろう。
「初音ミク」は2007年に日本で生まれた、世界初のバーチャルアイドルで、永遠に16歳だ。さまざまなクリエイターが関与し、音楽・イラスト・動画・CGなどさまざまなジャンルで活躍している。その人気は世界的で、各地でのライブコンサートには数千・数万人が集う。
一方、中国には「洛天依(ルォ・テンイ)」がいる。こちらは2012年生まれで、永遠の15歳。彼女の人気は、「すぐに商業的価値へと変わった。ネスレや百雀羚(Pechoin)、ピザハット、ミリンダなど、多くの有名ブランドが彼女を宣伝に起用した」(本文より)。それだけでなく、「ライブコマースに挑戦した最初のバーチャルアイドル」となり、「配信枠に関しては、バーチャルセレブが本物のセレブよりも高い金額を要求しているよう」だという。
バーチャルアイドルに限らず、強いコンテンツ力を持つ日本の企業やクリエイターは、本書の示唆を受け止め、選択的に活用することで、より優れた「究極の小売体験」を実現したり、ビジネスの価値を高めたりできるかもしれない。
また本書では、ライブコマースの担い手に「役人」と呼ばれるタイプがあることを紹介している。「地方政府の役人で、ライブ配信を利用して地元の農産物を宣伝し、地域経済のテコ入れをしている人々」である。日本の「役人」も、自分のまちの観光地や移住先としての魅力や特産品のアピールなどに、どんどん応用できそうだ。
歴史的背景や政治的体系の違いなどもあり、日本の私たちは中国から学ぶことに消極的になりがちだ。実際、デジタル変革領域では、個人のプライバシーの取り扱いなど、日本との文化・思想的文脈の違いが強調されることも多い。闇雲に他国のやり方を取り入れるのは、教訓を得る対象が中国であれ、別の国であれ、賢いことではない。
一方で、ある部分で中国が日本を含めた諸国よりも進んでいる部分は確かにある。だからこそ「他国にとっての教訓を見つける」ことをねらいとする本書が生まれるわけだ。
本書の主著者2名と私が所属するIMDビジネススクール(本拠:スイス)は、「IMD世界競争力センター」という調査研究組織を持ち、毎年さまざまなランキングを発表している。
このうち、「世界デジタル競争力ランキング」2023年版では、中国が19位、日本が32位となった。これは、「行政の慣行、ビジネスモデル、社会全般の変革につながる形で、どの程度デジタル技術の活用や展開ができているか」を測るものだ。このランキングの主要因子三つ(知識、技術、未来への準備度)のすべてで、中国は日本に先行している。今後も、デジタル変革の先進事例が中国から生まれてくることは、間違いないだろう。
では、次の二つの考え、「面白い」と「役に立つ」について記そう。そのためには、著者たちについて触れる必要がある。
本書は、ウィンター・ニー(Winter Nie)とマーク・グリーヴェン(Mark J. Greeven)という2人のIMD教授が、中国人リサーチャー2人の手を借りてまとめたものだ。ウィンターは中国出身の黒髪の女性、マークはオランダ出身の金髪碧眼の男性だ。これだけ見かけの異なる2人もそういるわけではなく、世界の多様性を象徴するようだ。
この本が「面白い」のはウィンターの個性、幅広い知識と経験に、「役に立つ」のはマークの知性と高い構造化能力によるところが大きい、と私は思う。
ウィンターは長年米国で学び、もともとはサービス・マネジメントの研究や教育を行っていた。18年前にIMDに移籍後は、その礎の上に新たな塔を築き上げていった。タビストック人間関係研究所(英)、ユング派分析家協会(スイス)で訓練を受け、戦略と事業に関する洞察をリーダーシップに統合し、「リーダーシップと組織変革」の教授になった。成熟市場と成長市場の両方をよく知る彼女は、IMDに集う欧州やアジアの経験豊富な経営幹部に対し、鋭く、深い問いを重ね、彼らの規定概念に挑戦していく。彼女のセッションはダイナミックで、洞察に富み、かつ、ドライなユーモアの混じったもので、参加者は彼女にぐいぐいと引っ張られて、新しい発想をその場で生み出す。私は、彼女自身がひとつの「物語(ストーリー)」であり、そのことがこの本のいくつもの物語に人間味を与え、「面白さ」を作り出していると感じている。
この本には、さまざまな中国の男女の物語が記されている。Part 1で詳説される「ニューリテールの4つの基盤」を築き上げた馬雲(アリババ)、馬化騰(テンセント)、李彦宏(バイドゥ)を含む、開拓者たちの英雄譚。『三国志』を読むような迫力だな、と思っていたらPart 3の「3つの王国」という章では「三国志の歴史ドラマ」という言葉を用い、さらに「かつての三大王国」と「新たな三大王国」という物語を持ち込み、時の流れの中での変遷を印象付ける。
Part 2「ニューリテールの5つの段階」でも、魅力的な男女が登場する。あいにくその後、脱税などの容疑で表舞台から退くことになるような人物も登場するわけだが、それでも薇婭や「口紅王子」、李子柒といった起業家たちは、とんがっていて、どこか危うくて、読者も思わず彼らの動画を探してみたくなるだろう。
これらの「物語」が、「面白い」のだ。
マークはオランダ人で、名門ロッテルダム大学で経営学の修士号と博士号を取得した。中国に魅了され、言葉を覚え、10年にわたり現地で研究、教育、コンサルティングに従事した。彼は、革新的な中国企業(平安、アリババ、ピンドゥオドゥオ、ハイアールなど)と、起業家精神あふれる多国籍企業(バイエル、エボニック、ジョンソン・エンド・ジョンソン、ダイムラー、ネスレ、リシュモン、スイス再保険など)、その両方との仕事を重ねてきた。企業イノベーションを加速させ、デジタル・ビジネスの変革を可能にし、不確実性の中で成功するビジネス・エコシステムをどう築き上げていくか、が彼のテーマである。
経営学やリーダーシップにおいて世界的影響力を持つ思想家やビジネスリーダーを2年ごとに50名選ぶ「Thinkers 50」でも、「エコシステム専門家で、中国のイノベーションの権威」としてランク入りしている。
マークは、高度な知的興奮を与えつつ、すっきりと腑に落ちる教え方をする。その技量は天下一品だ、と思う。
2022年6月に、スイスIMDでの経営幹部向け公開短期プログラム「OWP」で彼が担ったデジタル・エコシステムとデジタル・プラットフォームに関する選択科目でのセッションは、強烈だった。20名の世界の経営幹部を相手に、東南アジアのスーパーアプリ・Grabに関して、90分の大激論を巻き起こしたのだ。しかも、使ったのは、パワーポイント1枚だけだった。欧州・中東・日本など各国から集った参加者は、Grabの何が革新的で、どう機能していて、かつ、なぜ自分たちの国や地域では同じものが生まれにくいのか、を深く省察することとなった。
また、2023年のセッションでは、既存の自動車大手(トヨタやBMWなど)、テスラ、そして中国の電気自動車メーカー(BYDやNIOなど)を比較し、エコシステムという視点から、なぜ既存大手にとってこの戦いが極めて不利なのかを語りつくした。それは、日本人である私にとって、鮮烈であり、戦慄であった。
この本は、Part 2で「ニューリテールの5つの段階」を定義し、Part 3で「ニューリテールの6つの教訓」を語る、といった「枠組み(フレームワーク)」で、極めて明確に整理されている。だからこそ、あなたやあなたの組織に、具体的に役立つ。ぜひ、展開可能性、応用可能性を、具体的に考えてみていただきたい。
最後に、私の「願い」ついて、記したい。
私は、あなたやあなたの組織に、変革を起こしてほしい、と願っている。この本の「物語」や「枠組み」を生かして。
コロナ禍の2年間を経て、2022年の初夏から私は再び世界各地へ出かけるようになった。その時に、 世 界が「 変 化(Changes)」 の時代か ら「 移 行(Transition)」の時代にシフトしたことに気づいた。外部環境が変化したので対応しないと、という水準ではない。人・組織・社会の根本的な意識変容や行動変革をともなう「移行」の時代に入ったのだ、と。背景には、さまざまな要素、たとえばグローバル化の変質、AI を含めた新技術の台頭、持続可能性の危機と、それらの要素の収斂(convergence)が挙げられよう。しかもこの移行は、一つの、あるいは一方向のものというより、さまざまな動きが錯綜し、せめぎ合い、矛盾を孕んでいるという性質のものだ。
一方、前述の「IMD世界競争力センター」が発表するものの中で最も総合的な「世界競争力ランキング」で、日本の順位は長期低落傾向にある。ビジネスでの姿勢、価値観、経営慣行に関する因子での順位の低さと低下が目立つ。企業の俊敏性、起業家精神、上級管理職の有能さや国際経験といった項目では、日本の企業経営幹部層の強いペシミズムが感じられる。この傾向は2014 年頃から加速していて、これは、中国を含めた北東アジア諸国の企業群に「日本が負けている感」が増してきた時期と符合する。しかし、移行の時代ならなおさら、悲観に陥るより、学び、考え、行動したほうがいい。この本を手にしているあなたは、それを知っているだろう。
ひと昔前なら、中国からビジネスのイノベーションが起こることは想定外だった。現在の中国は、世界のビジネスのイノベーションの中心のひとつだ。この本では、ウィンターやマークなど、中国と欧州にまたがる著者チームが、中国の小売の世界で起こった「革命」について詳説し、それを世界のビジネスパーソンへの示唆として提供している。
あなたは、小売企業の経営幹部かもしれないし、若手かもしれない。それ以外の業界でDXを企てているのかもしれない。また、起業家かもしれないし、それを目指しているかもしれない。この本の「物語」と「枠組み」から、あなたは何を感じ、考えるのだろう。「あてはまる」「使える」と感じるもの、感じないものは何で、それはなぜだろう。それらはあなたやあなたの組織の現状をどう揺さぶり、そのありうる形・なりうる姿をどう触発するのだろう。そしてそこからどのような持続的な価値創造の機会を、見つけ出すのだろう。
私は、それが楽しみでならない。
ウィンター・ニーは、IMDのウェブサイトでの自分のプロフィールで、こう語っている。
「世の中の絶え間ない変化のスピードに対応する唯一の方法は、常にオープンに、勇気と謙虚さをもって、学び、学びほぐし、学び直すことだと信じている」
さあ、勇気を持って、この本を開こう。謙虚さを持って、学ぼう。そして、それぞれの変革を、起こそう。