「将来は欧州サッカークラブの監督になりたい」と本気で言える人(岩佐文夫)

「海外に住んでみたい」という願望を50歳を過ぎて実現させた著者。日本と異なる文化に身をおくことで、何を感じ、どんなことを考えるようになるのか。会社員を辞め編集者という仕事も辞めてキャリアのモデルチェンジを図ろうとする著者が、ベトナムやラオスでの生活から、働き方や市場経済のあり方を考える。
連載:ベトナム、ラオス、ときどき東京

「ラオスに行くか?」
この一言からここラオスに住み始めた人がいる。首都ビエンチャンでサッカーコーチとして働く鈴木慎吾さんだ。

鈴木さんは、それまでラオスについて何一つ知らなかった。「ラオスってどこ?」というレベルで、場所はおろか、どんな国なのか、どんな言葉を話しているのかも知らない。それでも、「はい、行きます」と即答した。

元々、鈴木さんはサッカー選手を目指していた。小学校では地元で目立つ存在で、卒業時には複数のクラブから誘いがあった。中学ではそのうちのあるクラブでプレーしたのだが、そこから選手としての自信が揺らぎ始める。

慢心だった自分もいたが、監督の要求するプレーができない。当然、試合に出られない。そしてクラブを移籍したのだが、状況は一向に変わらない。選手としての限界も認めざるを得ない状況だ。高校時代にはサッカー部にすら所属せず悶々とした日々を過ごした。

そんな鈴木さんが見つけた新しい目標は「サッカーの指導者になる」というものだった。プレーするばかりではなく、サッカーは観るのも大好き。テレビでイングランドのプレミアリーグを隈なく見ていた。世界最高峰のプレミアリーグでは、選手に感動する一方、チームを率いる監督の役割にも魅了された。監督をやる人の中には、英国人のみならず外国人もいる。

サッカー指導のプロフェッショナルとして、欧州の舞台に立つ。そんな夢を描いてからの鈴木さんの行動は早い。高校時代にアルバイトで貯めたお金を元手に英国に半年間の語学留学に行く。英語が出来なければ、海外で指導者など務まらない。まずは語学力とばかりに、英国に渡ったものの、毎週のようにプレミアリーグの試合を観戦していたら資金が尽きてしまった。

いったん帰国した鈴木さんは、それから3年間、アルバイトにまい進する。週7日、3つの仕事を掛け持ち。一人ブラック企業状態である。こうして貯めたお金をもって、次はサイパンに渡る。サッカー指導者の育成プログラムを3か月にわたって受講した。

「ロールモデル」からの誘い

サイパン(北マリアナ諸島)では無事、アジアサッカー連盟(AFC)が発行する指導者ライセンスを取得した。同時に、運命的な出会いもあった。

冒頭の発言をしたのは、現在湘南ベルマーレで育成の仕事に携わる関口潔さんである。関口さんは当時、北マリアナ諸島の代表チームの監督を務めていたが、それ以前にはラオスに在住しており、ラオスサッカー連盟の技術委員長などを務めていた。

ラオスを離れる際、関口さんはサッカー環境が悪いラオスで「何か自分にできることはないか」と考え、ベアーズラオスサッカーアカデミー(以下、ベアーズ)というクラブを創設された。

そして、鈴木さんが関口さんに今後の進路を相談していた際に出て来たのが、「ラオスに行くか?」だった。

鈴木さんの元には日本の大学からもオファーがあったが、「海外での経験」を優先した。そして何より関口さんへの信頼である。指導者になりたいと思っていた鈴木さんにとって、関口さんは一つのロールモデル。「こういう人になりたい」。そう思える人からの提案に、考える時間はいらない。

即決した鈴木さんは翌日、早速ラオス語の本を購入した。2016年の暮れであった。ちなみに、関口さんの口説き文句は「ラオスは食事は美味しいし、女性はきれい」だったそうだ。

鈴木さんがラオスにやってきたのは、2017年3月。当時22歳。関口さんらが創設されたベアーズのスタッフ兼コーチとして働き始めた。住む場所を確保して、指導者としての仕事を開始。言葉が通じないのは英国留学で慣れていたはずだが、片言の英語すら通じないラオスの子どもたちを前に愕然とする。「ゴー」「ライト」「レフト」「ラン」「キック」なども通じないのだ。

そのため最初はコーチとして戦力外。ラオスに来たのに仕事の割り当てがなく、その間、自宅でラオス語の勉強に専念した。まったく知らない言語は音声を聞いていても眠くなるだけ。学校に通うお金もなく、鈴木さんが編み出した勉強法は、家の中でラオス語を話しながら、ひたすら歩き回ること。一日10時間以上も、声を出しながら家の中を徘徊することもあったという。

ラオス語学習の成果は早くも5月には表れた。それまでたどたどしいラオス語で子どもたちに接していた鈴木さんだったが、子どもたちの練習態度にイライラがうっ積していた。そんなある日、不満は爆発し、子どもたちに強い口調で態度を改めるように語った。

すると自分でも驚くくらい言葉が口から出て来た。
「あれ、俺ってこんなにラオス語話せたっけ?」と。

以来、鈴木さんのラオス語の問題は解消されていく。まるで大相撲に入門したモンゴル力士が流暢な日本語を話すかのような学習スピードである。ちなみに僕がラオスに住むことになり、アパート探しとその契約交渉を担ってくれたのが鈴木さんだ。

夢は欧州クラブ監督。まずはラオスからJリーガー輩出だ

ラオスに来て1年半。鈴木さんの夢は変わらない。欧州の一流サッカークラブで監督をすることである。まだ日本人では誰も実現させたことのないその夢を、ここラオスで叶えるべく歩んでいる。

彼は、やりたい仕事があるからラオスに来た。待遇も決していいわけではなく、日本への帰国も我慢し15円の即席めんを食べて日々凌いでいる。日本にいる友達は社会人となり、安定した生活をはじめている。それが羨ましくなることもあるが、彼にとって「どういう生活をするか」「どこに住むか」は二の次だ。

やっていることはストイック。とはいえ、お会いした鈴木さんは、明るくてどこか抜けている、愛されキャラ。好きな女性のタイプの話しをすれば止まらないし、いまだに知らないラオス料理を見てはテンションを上げる。

そんな鈴木さんだが、グランドでは実に凛々しい。ゲーム形式の練習では、中学生相手に自身も厳しいプレーを見せる。練習を終えた鈴木さんは、いつもの様子と一変する。

「この子たちは、すぐ自分のレベルに満足しちゃうんですよ。だから、こうやってもっと上のレベルのプレーを見せてあげることも必要なんです」と。

鈴木さんが属するベアーズは、この秋、プロリーグ入りを目指したリーグ戦で戦う。「まずはベアーズがプロリーグに参入すること。その次は、ベアーズの子どもからラオス代表選手が生まれ、Jリーガーを輩出することが目標です」

鈴木さんにとってラオスは、やりたい仕事をするために訪れた地に過ぎない。それでも、ここで大きな目標を達成しようとしている。

岩佐文夫(いわさ・ふみお)
1964年大阪府出身。1986年自由学園最高学部卒業後、財団法人日本生産性本部入職(出版部勤務)。2000年ダイヤモンド社入社。2012年4月から2017年3月までDIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集長を務めた。現在はフリーランスの立場で、人を幸せにする経済社会、地方活性化、働き方の未来などの分野に取り組んでいる。ソニーコンピュータサイエンス研究所総合プロデューサー、英治出版フェローを兼任。
(noteアカウント:岩佐文夫

*編集部からのお知らせ

岩佐文夫さんの半年間の海外生活は間もなく終了。本連載もあと1回を残すばかりとなりました。ベトナム・ラオスという異文化に身を置くことで、岩佐さんは、仕事や働き方について、どのような考えを持つにいたったか。9月中旬に帰国する岩佐さんを交え、下記のイベントを開催いたします。詳細・お申し込みはこちらから。

10/11(木) 岩佐文夫トークイベント
仕事を原点から考え直す:ベトナム・ラオス滞在6か月の報告会

ゲスト:藤沢久美さん、小国士朗さん

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