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偶然——『国をつくるという仕事』特選連載3(西水美恵子)

元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年。分野や立場を問わない様々な方たちから、「本気のリーダーシップ精神に火が付いた」という感想をいただいてきた本書から、10周年を機に特選した10のエピソードを順次公開いたします。
今回は、トルコ、バングラデシュ、スリランカの小学校へ飛び入り訪問、そのなかで気づいた現地教育の現状を綴った「偶然」をお送りします。

(注)本文中の漢数字は、WEB掲載に際し読みやすさを考慮して算用数字に改めた部分があります。


春や秋、所によっては真冬にも、新学年の始まる時期は国々の気候風土に左右されるが、よくその時期をめがけて出張したものだった。早朝、ホテルを抜け出して、登校する子供の姿を探し歩く。運良く出会ったら「英会話の練習」ですぐ仲良しに。校門まで付き合って、宿題の文句から授業の批評、果ては先生の悪口までと話は尽きない。

変な趣味と笑われても仕方ないけれど、先生の悪口は、年金目当てに教職を賄賂(わいろ)で買う「幽霊教師」の存在を気づかせた。鞄の中に真新しい教科書が収まっていればひと安心。無ければ無いで「なぜ」と聞く。数カ国で、教科書配布には賄賂が要る、と子供たちから教わった。お弁当の中身を聞いたら、給食はどうして「お客さん」の来る日にしか出ないのと逆に聞かれて、某国文部省役人らの給食詐欺を発見する糸口になったこともあった。いつでも、どこでも、子供たちは正直で、物怖じせずに貴重な知識を授けてくれた。


きっかけは約20年昔、トルコでの偶然だった。すでにそのころからヨーロッパ連合(EU)参加をめざしていたトルコは、西欧にかぶれていた。特にイスタンブールがそうだった。ある日、空港に向かう車窓から、ヨーロッパ的な町並みをぼんやり眺めていたら、頭をスカーフで覆った女生徒の登校姿が突然視界に飛び込んできた。ドキリとした。イスラム原理主義が秘める危険性を本能的に感じ取った瞬間だった。

翌朝、何か見えない力に背中を押される思いがして、首都アンカラの路上に出た。地図を片手に貧民街を歩いていたら、心配したのだろう、登校する娘たちに付き添ってきた母親に声をかけられた。家でお茶でも飲んでから帰りなさいと誘われて、そのまま半日居座ってしまった。

学費稼ぎよと微笑んでせっせとレースを編むその人に散歩の理由を説明すると、彼女は手を止めて大きくうなずいた。イスラム教の真髄は「普遍の愛」と「大いなる寛容」だと前置きして、片言の英語で教えてくれた。原理主義どころか、この街ではイスラム過激派の洗脳活動が活発。だから毎日娘たちを学校まで送り迎えする。コーラン(イスラム経典)は、礼拝の場では男も女も頭をかぶって謙虚にと諭す。それだけの当たり前のことが、無知なイマーム(導師)に曲げられてしまう。原理主義に染まる人間はコーランを読んでいない。非識字イマームが多いのにも呆れてしまう。教祖モハメッドの奥さんはやり手の実業家[1]、イスラムが女を卑下するわけがないでしょうと笑って、彼女は、ぜひコーランを読みなさい、英訳があるはずだからと勧めてくれた。

それからすぐ、まるで申し合わせたように、パキスタンのあるNGO会長が知る人ぞ知るユスフ・アリ訳のコーラン(1934年出版)を贈ってくれた。美しい英語にリズム感のあふれた訳はとても馴染みやすく、コーランは詩、吟詠するものと初めて知った。

すっかり病みつきになった朝の散歩に学校訪問を加え、コーランも好きな部分は暗唱するほど読んだ。みなどれほど仕事に役立ったことか計り知れない。


旅程無視の飛び入り学校訪問が癖になったのは、確か1995年、バングラデシュを初めて訪れたときだった。イスラム教国では稀に開放的な文化だから、原理主義や過激派など心配無用とのブリーフィング(事前の状況説明)に安堵して、東西南北ひと月余り、草の根巡りの旅だった。

貧しいバングラデシュでも最も貧しい北西部を、インド国境にそってドライブしていたときだった。国道からその晩泊まる村に向かう田舎道に乗り入れた途端、雲一つない真昼の熱天下に幕が下り、その影に頬をなでられた気がした。熱帯のまぶしい光によく似合う原色とりどりのサリー姿が、路上に田畑にあふれるように見えていた働き者のバングラ女性が、かき消えていた。

思わず車を止めてと騒ぐ私に仰天した部下たちは、バナナ畑の奥深くに学校らしき建物を目ざとく発見、独り合点してしまった。パーダ(イスラム原理主義社会に見られる女性外出禁止の習慣)を説明しようとすると、心配するなと遮って、時間はあるから大丈夫、訪問してみようとさっさと下車してしまった。しかし、校庭に近づいた途端、彼らもハッと棒立ちになった。女子教育に熱心なお国柄、昼休みの校庭にあふれているはずの女の子が一人も見当たらなかったのだ。

村人が共同出資してつくった小学校だった。変な外国人が来たとの知らせに、村の有力者が駆けつけた。「敬虔(けいけん)なるイスラムの村にようこそ」と歓迎された部下たちは、慌てて「ボスは彼女です」。女の私とは視線など合わせもせず、もちろん握手はもってのほかのイマームだった。透明人間とはこういう気分かと思わず笑ってしまった。

お茶をいただきながら女子教育はと尋ねると、女に教育は無駄と冷たい。なぜですかと問うと、コーランの教えだと胸を張る。しめたとばかり、どのスーラ(章)にそう書いてありましたっけと、手提げから取り出したコーランの頁を繰りはじめた。実は自分は読んだことがないと白状してくれるまで、時間はかからなかった。歴史的な観点から見れば、まるで女性解放革命宣言ともとれるコーラン。仏教徒だから深くは知りませんが、と断って女子教育や女性の地位に関した部分を拾い読みしながらのイスラム談議となった。

日が西に傾くころ、ふと気がついた。女子校をつくると言い出したイマームが、もう私の目を避けずに話しかけている。「夕食をご馳走しよう。妻と娘に会ってほしい」。黙って差し出した私の手を強く握り返す彼の手は、ゴツゴツ荒れた農夫の手だった。

それ以来、どこに旅しても頻繁に、慌てる同行の役人たちをなだめすかしては飛び入り訪問のわがままをさせてもらった。普通、途上国の教師たちは田舎の学校が大嫌い。大枚を積んでまで政治家に取り入って、都会に転勤してしまう。最もひどいのは、そうでなくても不足がちな英語や数学の教師。事前通告なしの視察をするたびに見た、来ない先生を辛抱強く待つ幼い顔は、教育制度改革なしには援助融資拒否という姿勢を保つ源動力となった。

スリランカの辺鄙な村では、もうひと月も待っているのと堪こらえきれずに泣き出した小学一年生の教室で、じゃあ今日だけでもと臨時英語教師になりすましたこともあった。ABCを歌い、童話を読み、感想文の発表会をし、楽しい一日を過ごさせてもらった。

それを「変事」と聞いて飛んできた、土地の政治家の慌てた顔に、堪忍袋の緒が切れた。明日も来てとすがりつく子供たちの前で、私腹を肥やすより国の将来を思え、君はそれでも政治家か、人の親か、と激怒した。「先生ありがとう、もういいから」と、一生懸命なだめてくれたあの子たちの澄んだ瞳を忘れることなどできやしない。

画像3スリランカの村の小学校を飛び入り訪問。1年生の臨時英語教師になりすます


トルコの偶然から通算して2,000日近くの出張を重ねた計算になる。出会った生徒も親たちも何人になるのか、もう数え切れない。名前や顔はいつの間にか忘れてしまっても、皆そろって「恩師」と敬う心に変わりはない。

アンカラの散歩で出会ったあの人は、編み上げたレースの敷物を譲ってくれた。その宝物を出すたびに、あの朝の貴重な教えを思い出して頭が下がる。

[1]モハメッドの最初の妻ハディージャは富裕な交易商人であった。


※著者の意向により本書の印税はすべてブータンのタラヤナ財団に寄付され、貧しい家庭の児童の教育費等に役立てられます。タラヤナ財団とそれを設立したブータン王妃(当時)について西水さんが綴った「歩くタラヤナ」もぜひご覧ください。

著者紹介

新プロフィール写真(クレジット入)

西水美恵子(にしみず・みえこ)
米国ガルチャー大学を卒業(経済学専攻)。ジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程(経済学)を卒業。プリンストン大学経済学部(ウッドロー・ウイルソン・スクール兼任)助教授に就任。1980年、世界銀行経済開発研究所に入行。諸々のエコノミスト職や管理職を歴任。IBRD(世界銀行グループ・国際復興開発銀行)のリスク管理・金融政策局長などを務めた後、1997年、南アジア地域担当副総裁に就任。2003年、定年を待たずに退職。以来、世界を舞台に様々なアドバイザー活動を続ける。2007年よりシンクタンク・ソフィアバンクのパートナー。著書に『国をつくるという仕事』、『あなたの中のリーダーへ』、『私たちの国づくりへ』(いずれも英治出版)などがある。

連載紹介

連載紹介バナー

元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年。一国の王から貧村の農民まで、貧困のない世界を夢見る西水さんが世界で出会ってきたリーダーたちとのエピソードが綴られる本書は、分野や立場を問わない様々な方たちのリーダーシップ精神に火を付けてきました。10周年を機に、ぜひもう一度西水さんの言葉をみなさんに届けたい——。そんな思いから、本書の全36章より特選した10のエピソードを順次公開いたします。徹底的に草の根を歩き、苦境にあえぐ一人ひとりの声に耳を傾け、彼らの盾となって権力者たちと戦い続けた西水さんの23年間の歩みをご覧ください。

連載:いまもう一度、『国をつくるという仕事』を読む。
第1回:はじめに
第2回:カシミールの水【インド、パキスタン】
第3回:偶然【トルコ、バングラデシュ、スリランカ】
第4回:雷龍の国に学ぶ【ブータン】
第5回:売春婦「ナディア」の教え【バングラデシュ、インド】
第6回:改革という名の戦争【パキスタン】
第7回:神様の美しい失敗【モルディブ】
第8回:ヒ素中毒に怒る【バングラデシュ】
第9回:殺人魔【インド】
第10回:歩くタラヤナ【ブータン】
特別回:「本気」で動けば、何だって変えられる——著書『あなたの中のリーダーへ』、「はじめに」より

~西水さんとの対話会レポート~
竹内明日香:いつの時代も、世界の変化は「草の根」から
宮崎真理子:組織拡大期のリーダーのあり方に光が差した夜
三田愛:勝負の10年。夢物語への想いを本気にさせてくれた言葉
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