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映画からもらった夢に乗って、いま私は生きている(教来石小織)

6年間にわたり途上国の子どもたち向けに移動映画館を展開してきた著者。活動のなかで感じる葛藤や可能性と向き合っていく本連載ですが、そもそもなぜこの活動は始まったのでしょうか? 映画の力を信じる原点には、著者自身が映画に救われた体験がありました。
連載:映画で貧困は救えるか――「途上国×移動映画館」で感じた葛藤と可能性


心の貧困を知っている。

心がどんどん貧しくなるのはどんなときかということも。そしてそこから救われる方法も。

ここ数年で両方を、身をもって体験することができたから。

子どものときからずっと映画が好きだった

学校が嫌いだった。

途上国では学校に通いたくても通えない子もいるのに何を言うのかという感じだけれど、当たり前に学校に通える贅沢さのなかにいたくせに、私は学校が好きではなかった。

運動会も遠足もマラソン大会も大縄跳びも、割と地獄に近かった。ただでさえ子どもの時間の感じ方は長い。小学1年生の冬に、小学生をあと5年繰り返さなくてはいけないのかと思い愕然としたのを覚えている。

だからあの手この手でズル休みをしては、家でぬくぬく映画を観て至福の時間を過ごしていた。学校に行かない日は、映画が私の学校だった。

映画で主人公の生き方を見て人生を学び、映画を観るたびに世界を広げ、警察官やお医者さん、パン屋さん、弁護士、探偵、魔法使いなど、次々と夢の選択肢を増やしていた。

12歳のときにはスピルバーグに憧れて、夢を贈る側の映画監督になりたいと思い、大学では迷わず映画を専攻した。

大学3年時の実習では、チームで映画をつくらねばならなかった。だけど団体行動や人との関わりが滅法苦手だったので、私は逃げた。

逃げて逃げてケニアで一人、ドキュメンタリーを撮って課題を提出することにした。アフリカ大陸くらい遠くへ行けば、誰にも気兼ねせずに撮影できるのではと思ったのだ。

数ある遠い場所のなかでもケニアを選んだのは、何気なく観ていたテレビ番組がきっかけだった。テレビのなかで、紙切り芸人のおじさんの芸に目を輝かせていたマサイ族の子どもたち。

その表情に強烈に惹かれ、一人旅などしたことはなかったけれど、巨大なリュックにビデオカメラを携えて、一人ケニアへと旅立った。

知らない夢は描けない

滞在中に一番印象的だったのは、ビデオカメラを回しながら村の子どもたちに将来の夢を聞いたとき、彼らから出てくる将来の選択肢が少なかったことだ。日本の子どもたちに聞いたら、もっとたくさんの種類の夢が出てくるのになと思った。

後で気づいた。電気が通っておらず、テレビも映画もないこの村では、身近な大人の姿からでしか選択肢を描けないのではと。知らない夢は思い描くことができない。

日本に帰ってから、ジム・キャリー主演の『マジェスティック』という映画を観た。町の復興のために映画館を再建する話に感動し、相変わらず影響を受けやすかった私は、「私も映画館をつくりたい」と思った。

いつか途上国に映画館をつくりたい。もしもあの村に映画館があったら、子どもたちはどんな夢を見るのだろう。

けれどもその夢に1歩を踏み出すことはなく、才能のなさから映画監督の夢も諦めた。

卒業後は派遣の事務員になっていた。

給料泥棒のような仕事ぶりだったけど、会社の人たちの優しさに救われて、焼肉をご馳走してもらったり、給料日には洋服を買ったりした。

事務員の私は、密やかに脚本家を目指していた。

シナリオコンクールに作品を応募しては、発表日にそわそわと本屋さんに行き、高鳴る鼓動とともにページをめくり、自分の名前なんて1ミリも載っていない選考通過者のページを眺めた。才能のなさを補うだけの努力だってしてないくせに何様なのか、目頭に悔し涙をじわりとさせながら、選考通過者の人たちに、届かぬ嫉妬をしたりした。

気づいたらあっという間に10年近くが経っていた。

もう自分の幸せのために生きるのは嫌だ

10年の間にはいろいろあった。

結婚して、子どもが欲しい欲しくないが決定打となり離婚した。引っ越しは父が手伝ってくれた。荷物がたくさん積まれた帰りの車の助手席で、父の横顔を見ることができなかった。

娘の幸せを誰よりも願い、孫の顔を見る日を楽しみにしていた父に、なんてことをさせてしまっているのだろう。声が震えるのが怖くて何も話せなかった。おでこを窓につけたまま、絶対幸せにならなくてはと思った。

以来、私は自分が幸せになることに執着するようになった。私の思い描く幸せは、日曜日の昼下がりの公園で、旦那さんと子どもと手づくりのお弁当を食べることだった。

人は自分の幸せだけに執着すると心が貧しくなるのだということに、そのときはまだ気づいていなかった。

離婚からしばらく後にお付き合いをした人とは、お互いの親に挨拶をして同棲し、特に喧嘩することもなく仲良く暮らしていると思っていた。一方的に結婚するつもりでいたのだけれど、見事に振られてしまった。

理由は、私が派遣社員で年収が低いことだと言う。「私の年収が500万円になったら結婚してくれるの?」と言うと、彼が「そうだね」と言ったので真に受けた。もちろん他にもいろいろ理由はあっただろう。料理が下手だとかバツイチだとか頭が悪いとか。

言わないのは彼の優しさだったのだろうけど、私はお金さえ稼げば彼と結婚できるのかもしれないという希望にすがった。2度も相手に家を追い出される欠陥だらけの人間なのだと認めたくない。

努力不足でスキル不足の私が年収500万円を稼ぐのは難しかった。それでもいままでの自分を全否定して、自分を180度変えてでも頑張ろうと思った。そしてお金のことしか考えられなくなった。

そうなると、人はだいたい壊れる。

壊れて泣きながら過ごしていたあるとき、癌の検査に引っかかった。

検査結果が出るまで不安に押しつぶされそうで泣きながら過ごしていたとき、いままで自分のことしか考えてこなかった私が、おそらく生まれて初めて思った。

「もう自分の幸せのために生きるのは嫌だ。誰かのために生きたい」と。

明確にそう思った。

そして人生が動きだした

そんな気持ちが芽生えてからほどなくして、ある日、カタカタとデータ入力の仕事をしていると、急に言葉が降ってきた。

「カンボジアに映画館をつくりたい」

なぜケニアではなくカンボジアだったのかはわからなかったし、突然の啓示みたいなものだったが、思えば10年前にもそんなことを考えていたなと思い出した。当時と違ったことは、その想いに向けて1歩、2歩と動きだしたことだった。

そこから私の人生は変わり始めた。

団体行動が苦手だったのに、30歳を過ぎて初めての仲間ができていた。

そしてカンボジアでの初めての映画上映会。完全に私のエゴで始めたことなので、現地にとって迷惑であれば一度でやめようと思っていた。けれど子どもたちは目を輝かせて映画に観入り、最後には大きな拍手をしてくれた。

その光景を見たとき、この活動を一生続けようと決意した。なぜなら初めてだったのだ。私の人生でこんなにもたくさんの人たちに喜んでもらえたのは。自分のなかから幸せが溢れてきた。

シナリオコンクールでは2次審査も通ったことがなかったくせに、性懲りもなく自分の夢を語るコンテストに応募した。

「生まれ育った環境に関係なく、子どもたちが夢を持ち人生を切り拓ける世界をつくりたい。そのために子どもたちに映画を届けたい」

私が掲げたそんな夢は、1次、2次、3次と選考を通過して、最後は仲間たちに支えられ、日本武道館で数千人を前にスピーチをする決勝の舞台に立つことができた。そして、人生で初めての優勝を手にした。

思えばシナリオを書いていたとき、「作品に触れた人の人生がより良いものになればいい」なんて考えたことがなかったなと思う。ただ自分のために書いていた。大賞をとって自分がチヤホヤされることを目標に書いていた。

日本武道館のコンテストで優勝を目指したときの理由は、一人でも多くの子どもたちに映画を届けるために、賞金を得て活動を広げるためだった。私だけでなく誰かのための夢でもあって、何より仲間がいたからこそ優勝できたのだと思う。

部屋にテレビと洗濯機がなかったり、銀行残高はしばしば3桁になったりして、金銭的には決して豊かではなかったけれど、心の方はいつの間にか貧困を脱していた。


自分だけの幸せを目指して生きていたとき、私の心はどんどん貧しくなっていった。自分の存在を受け入れてもらうために、誰かの理想像にならなくてはと無我夢中で、やがて自分を見失っていった。もう死んでしまいたいとさえ思ったこともある。

「自分のため」を考えれば考えるほど、自分の人生の主導権を失っていくなんて、不思議で厄介な仕組みだなと思う。

けれど「誰かのため」に生きたいと願ってから、私の心は救われ豊かになった。そして人生は楽しくなった。

思えば映画の主人公たちも、たいてい誰かのために生きている。家族のために戦ったり、地球を守ったり、友のために路地を走り抜けたりしている。

そして、誰かのために生きる映画の主人公たちは、いつだってどん底から這い上がっていく。

映画好きだったくせに、そのことに気づくのが遅かったなとも思うけど、きっともう、忘れることはないだろう。

映画に救われ、映画からもらった夢に乗って、いま私は生きている。私の人生の主人公として。


連載紹介

映画で貧困は救えるか――「途上国×移動映画館」で感じた葛藤と可能性
途上国の子どもたち向けに移動映画館を展開する著者。カンボジアをはじめとした世界各国5万人以上に映画を届けてきた実績とは裏腹に、活動の存在意義を自問自答する日々。食糧やワクチンを届けるべきではないのか? 映画を届けたいのは自分のエゴではないのか? 映画は世界を変えられるのか? 本連載では、「映画で貧困は救えるか」をひとつの象徴的な問いとして、類を見ない活動をするNPO経営のなかで感じる様々な葛藤や可能性と真摯に向き合っていく。

第1回:夢だった活動が広がることで、新たに生まれる不安
第2回:ただ生きるためだけなら、映画なんて必要なかった
第3回:映画は世界を戦争から救えるか?
第4回:映画からもらった夢に乗って、いま私は生きている
第5回:スマホとYouTubeが普及しても、移動映画館を続ける理由
第6回:挑戦をやめたらそこで試合終了ですよ。(新年特別企画)
第7回:西日本豪雨に思う――NPO代表の私が無力を感じる瞬間と、支えにしている言葉。
特別回:【3つの動画で知る!】途上国で移動映画館を行うWorld Theater Projectの活動
第8回:映画で少数民族が抱える課題に挑む――代表の私には見えなかった新しい活動の可能性
第9回:オフ日記「いつでも歩けば映画に当たる」
第10回:「ネパールで生まれた僕は夢を持てない」
第11回:「生まれ育った環境」とは何か。——ネパールで考えた問いと、移動映画館の新しい可能性。
第12回:【最終回】映画で貧困は救えるか

著者紹介

教来石小織(きょうらいせき・さおり)
NPO法人 World Theater Project 代表。日本大学芸術学部映画学科卒業。2012年より途上国の子どもたちへの移動映画館活動を開始。カンボジアをはじめとした世界各国5万人以上の子どもたちに映画を届けてきた。俳優・斎藤工氏の呼びかけで製作した世界中どこででも上映できる権利フリーのクレイアニメ『映画の妖精 フィルとムー』(監督:秦俊子)は、世界各国の映画祭で高く評価され、「2018年度グッドデザイン賞」を受賞。日本武道館で行われた「みんなの夢AWARD5」優勝。第32回人間力大賞文部科学大臣賞受賞。著書に『ゆめの はいたつにん』(センジュ出版)。(noteアカウント:教来石小織

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