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ヒ素中毒に怒る——『国をつくるという仕事』特選連載8(西水美恵子)

元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年。分野や立場を問わない様々な方たちから、「本気のリーダーシップ精神に火が付いた」という感想をいただいてきた本書から、10周年を機に特選した10のエピソードを順次公開いたします。
今回は、バングラデシュにおける地下水によるヒ素中毒の蔓延と、それでも動かない政治への怒りを綴った「ヒ素中毒に怒る」をお送りします。

(注)本文中の漢数字は、WEB掲載に際し読みやすさを考慮して算用数字に改めた部分があります。また、数値データはすべて執筆当初のままとなっています。


なぜか上司には恵まれにくいのが世の常。私もそうだったが、反面教師と思えばいいと気づいてからは、結構楽しい勉強になった。怒鳴る上司は特に嫌で心がけてはいたが、一度だけ雷を落としたことがあった。バングラデシュ担当局長になりたてのころだったから、ひと昔をとうに越えた話になる。

ことの起りは、ニューヨーク・タイムズ朝刊の記事だった。バングラデシュ各地で慢性ヒ素中毒患者が多発し「掘抜き井戸で汲み上げる地下水が原因か」とあったと覚えている。一瞬、国家絶滅の悪夢が、走馬灯のようにくるくる回って見えたのを思い出す。心臓が止まる思いとはあのことだろう。

即時、緊急会議を開いた。何事かと集まった部下たちは「古いニュース」と笑った。「そうなら、なぜ今まで問題として取りあげなかったの」と問うと、平然と答える。「掘抜き井戸のプロジェクト援助は国連機構の縄張りで、世界銀行の融資とは無関係だ」。臭い物には蓋をする官僚体質に、唖然とした。しかし「学校や病院など、世銀が融資したインフラ・プロジェクトに井戸はないのか」と反問。調べあげたほうがいいと、缶詰会議になった。

省エネで蒸し暑い夏の日のこと、ボトルの水を用意させた。喉が渇いていたと喜ぶ部下たちがボトルの封を切ったとき、待ったをかけた。「その水に多量のヒ素が溶けていたら、どうする」。はっと手を引いた彼らを見たとたん、堪忍袋の緒が切れた。思わず「馬鹿者!」と怒鳴りつけていた。

「縄張りとか、世銀の金で井戸を掘ったかなどと言っている場合ではない。ボトルの水を買う余裕などないほとんどの国民が、地下水に頼って生きているのだ。国土の大半は、氷河に削られたヒマラヤの沈泥が成す多孔質デルタ地帯。国民が負うリスクを案ずるなら、地下水脈がいたるところでつながっている可能性が高いと見るべきだ。もしもヒ素汚染が国家を破壊するほどの力を持っていたら、どうするのだ。そのリスクを見極めねば、世銀の信用に関わる。貸借対照表が悪化する。市場格付けに響く。もっと恐ろしいことがある。国体維持に関わりうる問題と知りつつ無視するのは、人道に背く。それでいいのか。自分の良心に聞いてみなさい!」

涙が止まらない、困った、どうしようと思いながらも怒っていたら、私の右腕、実務部門顧問を務めるファクラディン・アーメド君が、受けてくれた。

「自分の母国のことだから発言は控えていたが、国レベルの問題だとみな頭でわかっているだろう。人間、大儀なことにはそっぽを向く癖があるが、今そうしたら世銀で働く資格はないぞ。頭とハートをつなげて、考えなおそうではないか」。

部下の心の奥で何かが破裂した。

「たまにはボスが泣くのも、いいものだ」と、皆が笑った。

70年代、対パキスタン独立戦争直後のバングラデシュは、洪水と飢饉がくり返し、その貧しさは想像を絶したと言われる。乾期でも国中水浸しのようなデルタ地帯なのに、人々は飲み水に悩んだ。ヒマラヤ山脈からインドを通って流れ来る河川は汚染がひどく、下痢に伴う脱水症状が毎年数10万人の児童の命を奪っていた。

その悲劇から子供たちを救おうと、UNICEF(国際連合児童基金)は掘抜き井戸を支援した。70年代から始まった井戸事業は全国に広がり、児童死亡率は急速に下がっていった。

しかし、井戸は掘っても水質検査をしなかったことが、第二の悲劇を生んでしまう。WHO(世界保健機構)の水質基準値は、ヒ素含有量を水1リットルにつき0.01グラム以下と定める。バングラデシュの地下水ヒ素含有量は、所によってはその数百倍にも及ぶと言われる。科学的な原因はまだ確かではないが、ヒマラヤの岩石から溶け流れて来たとの説が有力らしい。

そして第三の悲劇は、民を想わぬ腐敗した政治だった。おとなりインド西ベンガル州の地下水も多量のヒ素を含み、早くから公衆衛生問題としての認識があった。85年、西ベンガル州の病院で検査を受けたバングラデシュ人の患者が慢性ヒ素中毒と診察された。同州はバングラデシュ政府に即時通達、対策を呼びかけたが、警報は無視されてしまう。80年代後半には、英国地質調査所が地下水水質調査を施行し、多量のヒ素を発見した。同調査所が90年に提出した報告書も、無視された。

政治がそっぽを向いている間、活躍を始めたのが、非営利団体ダッカ・コミュニテイ病院のカジ・カムルザマン院長だった。彼は広がりつつある慢性ヒ素中毒を「世界最大の集団毒殺問題」と名付け、自国の政府より海外に注目を呼びかけた。私が読んだタイムズの記事も、彼の尽力のおかげだった。

カムルザマン院長は、政治家の問題意識向上を目的に現地視察に入った私を「やっと世銀が来てくれた」と迎えてくれた。院長の笑顔に、部下を怒鳴りつけてよかったと、心底思った。

バングラデシュ報道界で活躍するジャーナリスト数人を道連れに、東部インド国境付近の農村地帯に入り、農家に寝泊まりしながら歩き回った。ヒ素に侵された村は、一歩入っただけでわかる。うっすらとニンニクのような匂いがする。ヒ素中毒の印だと教わった。

剥離性の皮膚炎や粘膜障害、骨髄障害、末梢性神経炎、黄疸、腎不全、末梢神経障害、肝障害、呼吸器障害、皮膚癌、肺癌……。医学書にある慢性ヒ素中毒症状の数々には、中毒患者と家族の苦労や悲しみは映らない。

醜い皮膚炎が原因で離婚された女衆は、実家に戻っても村八分に苦しむ。体力はあるのに、日光にあたると肌が刺されるように痛いから農作業ができない、どうやって食べていったらいいのかと、大の男が泣く。両親とも癌で亡くし、やはり癌に蝕まれる祖母の枕元に放心したように座り続ける女の子。毒だと知りながら飲まずにはおれない水が憎いと泣く老人……。

テレビのカメラが回り、新聞社のフラッシュが光り、記者たちのペンがさらさらと音をたてる中、死を待つだけの人々の姿はかげろうのように世離れしていた。こみ上げてくる涙をこらえ、笑顔をつくり、中毒患者に団扇で風を送りながら、足りぬ慰めの言葉を探し続ける毎日。自分の無力が憎かった。首都ダッカに戻って、民の苦しみを見て見ぬふりの政治家に、怒りをぶつけることだけを考えていた。

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慢性ヒ素中毒患者(右)に団扇の風を送りつつ、涙をこらえる


98年、ヒ素問題解決にむけての国際会議がダッカで開催。やっと援助界が動きだした。ヒ素は全国約300万ある井戸の最低半数を汚染、リスクを負う人口は約8,000万人という驚異的な調査結果も出た。戦争と違わぬ緊急事態なのに、リーダーシップをとる政治家は現れなかった。民を憂う指導者なしの援助活動は、はかどらなかった。

2006年秋、総選挙をふまえて選挙管理内閣が発足した。首相はあのアーメド君。世銀を引退して母国に戻り、バングラデシュ中央銀行総裁を務めあげた。アーメド内閣は、腐敗した政治を正さずに民主主義の意義なしと、汚職追放改革を開始。見通しのつく08年3月まで、総選挙は棚上げとなった。

私の怒りを真正面から受けてくれた友。彼は今、その大きな任務を終えて、ほっとしている。


※著者の意向により本書の印税はすべてブータンのタラヤナ財団に寄付され、貧しい家庭の児童の教育費等に役立てられます。タラヤナ財団とそれを設立したブータン王妃(当時)について西水さんが綴った「歩くタラヤナ」もぜひご覧ください。

著者紹介

新プロフィール写真(クレジット入)

西水美恵子(にしみず・みえこ)
米国ガルチャー大学を卒業(経済学専攻)。ジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程(経済学)を卒業。プリンストン大学経済学部(ウッドロー・ウイルソン・スクール兼任)助教授に就任。1980年、世界銀行経済開発研究所に入行。諸々のエコノミスト職や管理職を歴任。IBRD(世界銀行グループ・国際復興開発銀行)のリスク管理・金融政策局長などを務めた後、1997年、南アジア地域担当副総裁に就任。2003年、定年を待たずに退職。以来、世界を舞台に様々なアドバイザー活動を続ける。2007年よりシンクタンク・ソフィアバンクのパートナー。著書に『国をつくるという仕事』、『あなたの中のリーダーへ』、『私たちの国づくりへ』(いずれも英治出版)などがある。

連載紹介

連載紹介バナー

元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年。一国の王から貧村の農民まで、貧困のない世界を夢見る西水さんが世界で出会ってきたリーダーたちとのエピソードが綴られる本書は、分野や立場を問わない様々な方たちのリーダーシップ精神に火を付けてきました。10周年を機に、ぜひもう一度西水さんの言葉をみなさんに届けたい——。そんな思いから、本書の全36章より特選した10のエピソードを順次公開いたします。徹底的に草の根を歩き、苦境にあえぐ一人ひとりの声に耳を傾け、彼らの盾となって権力者たちと戦い続けた西水さんの23年間の歩みをご覧ください。

連載:いまもう一度、『国をつくるという仕事』を読む。
第1回:はじめに
第2回:カシミールの水【インド、パキスタン】
第3回:偶然【トルコ、バングラデシュ、スリランカ】
第4回:雷龍の国に学ぶ【ブータン】
第5回:売春婦「ナディア」の教え【バングラデシュ、インド】
第6回:改革という名の戦争【パキスタン】
第7回:神様の美しい失敗【モルディブ】
第8回:ヒ素中毒に怒る【バングラデシュ】
第9回:殺人魔【インド】
第10回:歩くタラヤナ【ブータン】
特別回:「本気」で動けば、何だって変えられる——著書『あなたの中のリーダーへ』、「はじめに」より

~西水さんとの対話会レポート~
竹内明日香:いつの時代も、世界の変化は「草の根」から
宮崎真理子:組織拡大期のリーダーのあり方に光が差した夜
三田愛:勝負の10年。夢物語への想いを本気にさせてくれた言葉
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