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殺人魔——『国をつくるという仕事』特選連載9(西水美恵子)

元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年。分野や立場を問わない様々な方たちから、「本気のリーダーシップ精神に火が付いた」という感想をいただいてきた本書から、10周年を機に特選した10のエピソードを順次公開いたします。
今回は、インドのある村における「かまどの煙のリスク」をめぐる気づきを綴った「殺人魔」をお送りします。

(注)本文中の漢数字は、WEB掲載に際し読みやすさを考慮して算用数字に改めた部分があります。また、数値データはすべて執筆当初のままとなっています。


2000年9月、国連総会がミレニアム宣言を決議採択した。加盟国191カ国が、そろって、一連の社会・経済開発目標と達成期限を誓った。その筆頭、貧困削減目標は、「2015年までに1日1ドル未満で生活する世界人口の割合を半減する」と謳う。

国連決議のニュースを読みながら、「15年とは無茶なことを……」とつぶやいていて、ふと『不思議の国のアリス』の一編を思い出した。チェシャ猫とアリスの会話だったと覚えている。

別れ道にさしかかったアリスが、木の枝に座るチェシャ猫を見つけて「どちらの道をとればいいの」と尋ねた。「どこへ行きたいのかね」と聞き返され「知らないわ」と答えたアリスに、猫は言った。「それなら、どっちでもいいのさ。どこに行くのか知らないのなら、どの道でも行き先に連れて行ってくれる」

国家指導者が本腰を入れて貧困と戦えば、15年で「半減」どころか、貧しさを知らぬ世の中さえ無茶ではない。それでも、貧困削減が世界各国の首脳を賛同させる課題になったことを、素直には喜べなかった。動機が気に入らなかったからだ。

当時、報道界の分析は、途上国から帰化した国民が欧米諸国の票となり、政治を動かしているとあるくらいだった。見当違いもいいところだ。

カネや情報、そのうえ企業まで国籍や国境などおかまいなしになった今日、先進国が抱える21世紀の課題は、移民問題につきる。地球人口の過半数を占める途上国との格差をなんとかせねば、空恐ろしいことになるというのが、北の本音だと見た。一方、途上国の権力者の多くは、国連宣言により政治的に動く安易な援助が増大し、よりいっそう甘い汁を吸うことを期待する。南北の私利私欲が合致するからこそ「ミレニアム宣言」なのだと考えた。

政治家や官僚は、民衆の悩みや苦しみを肌で感じることが不得意だ。どん底の生活に喘ぐ貧民のことなど、数字と頭でとらえていればましなほうだろう。先進国でも途上国でも違いはなく、我が国も例外ではない。

貧しさを知らなければ、不思議の国のどこへ行きたいのかを知らないアリスと同じ。しかし、チェシャ猫のように、貧しさを削減する術など「どっちでもいいのさ」とは笑えない。社会・経済的な格差は、いつか必ず国家の安定を脅かす。それは、ひとつの国でも地球全体でも、同じことなのだ。

世界銀行時代、部下と共に頻繁にした貧村ホームステイの日記が、手もとに残っている。世銀の顧客は、貧しい人々。その顧客を知らずに、良い仕事はできない。貧村やスラム街の家庭に入り、たとえ1〜2週間でも家族の一員として生きる体験学習には、南アジア各国で活躍する多くの優秀なNGOに大変お世話になった。その日記をもとに、しばらく草の根の思い出をつづりたい。


インドのある村でのこと。(以下日記引用)

アマ(お母さん)の咳で目が覚めた。外は新月の闇。日の出までまだ2時間はあるだろう。台所附近の土壁がかまどの火の色に染まって、アマの影法師がゆらゆらしている。幼い妹の小さな咳が、アマの咳に重なってコンコンと聞こえた。あ、アマったらまたあの子を背負って……。飛び起きて、壁を手探りに台所へ急ぐ。

薪の煙がもうもうとたちこめる中、アマはかまどの前にしゃがみこんで、粟(あわ)のような雑穀を煮ていた。毛布代わりのドウパタ(インド民族衣装のショール)を口にぐるぐる巻いたのに、息をするたび、針を飲んだように痛い。肺を刺す煙に目も刺される。とにかく痛い。

妹を取りあげる私を振り返ったアマの目が笑った。真っ赤に充血して、涙が流れている。早く出ていけと、私のお尻をひっぱたいて笑う。ミエコはあそこで手伝いなさいと、あごをしゃくった。入り口近くの土間に、まな板とすり鉢が、数々の薬草や空炒りをすませた香辛料と共に、用意してあった。

アマの咳を聞きながら、台所から漏れるかまどの明かりを頼りに、カレー用の薬草をきざむ。肉も野菜も何も入れない水分だけのカレーだから、せめておいしくなるようにと、香辛料を潰してはすり、すっては潰す。食事は朝昼晩変わらず、灰色の大きな雑穀団子をちぎって、カレーにつけて食べる。団子でお腹は張っても、摂取カロリーが少ないから、いつもひもじい。

背中の妹が寝ついた。咳はおさまったけれど、小さな肺がぜいぜいと鳴っている。電気は無理でも、せめて無煙かまどさえあったらと思う。ワシントンに戻ったら、衛生部門に調査をさせねばならない。煙が人体に及ぼす害を調べなければいけない。

この村に来るまで、離村の電化は贅沢と見るような潜在観念が、どこかにあったのではと思えてならない。その驕ったエリート感覚に気付いたとき、心の奥に潜んでいた幽霊を見たような気がした。鳥肌が立った。何も知らずに「貧困解消」と意気込んでいた自分が恐ろしく、心底恥ずかしい……
画像3草刈りの帰り道、アマ(左)と共に


その後しばらくしてのこと。調査を終えた衛生部門の職員が報告に来た。「なぜ今まで気がつかなかったのか」と、真っ青な顔をしていた。結果を聞きながら、私も青くなった。

母親に背負われてかまどの煙にさらされる幼児は、急性呼吸器官炎症や、種々伝染病にかかる確率が、約6倍にもなる。インド農村地帯では、無煙エネルギーに転換すると、5歳以下の幼児死亡率が半減する。

妊婦への影響もひどかった。煙たい台所に入り浸りの妊婦の死産率は5割高。薪集めや水汲みの重労働に、女衆が1日平均6時間を費やすインド農村地帯の流産の率は約3割で、全国平均の5倍近くだった。農村地帯での発生率が異常に高い子宮脱出症の、ひとつの原因にもなっている。

インドの女性と子供の死因を洗い直した結果、かまどの煙による室内汚染が、第一死亡原因であると判明。インドのみではなく、発展途上国全体で推定すると、年間約200万人の女性と子供が、室内汚染で死亡している計算になった。

かまどの煙は、殺人魔だった……。

無煙かまどを備えるだけで、障害調整生命年(疾病で失われた生命や生活の質を包括的に見る指標で、人々が被る苦痛や障害を考慮して測定する生存年数)1年毎に、約5,000円から1万円の医療費が節約されると推測できた。無煙エネルギーを供給すれば、その倍の1万〜2万円の節約になった。この結果は、電気など無煙エネルギーを供給する開発事業の社会的利益に対する判断基準を大きく変えた。貧民人口世界一のインドはもとより、途上国すべての経済に与えうる影響は莫大だった。

ニューデリー事務所の部下に無煙かまどを買うお金を渡し、国内出張のついでにアマに会って調査結果を説明して、と頼んだ。数カ月後、無識字なアマの伝言が、メールになって舞い込んで来た。

「無煙かまどありがとう。ミエコのおかげで、この世の役にたてて、うれしい。咳は止まったから安心しなさい。村の女衆と無煙かまどの普及活動を始めた。男衆も手伝うようになった。だから、アマはいつでもあなたと一緒に仕事をしていると思って、励むように。アマより貧しい、不幸な人たちのために」

アマに幸あれと祈りつつ、あふれる涙が止まらなかった。


※著者の意向により本書の印税はすべてブータンのタラヤナ財団に寄付され、貧しい家庭の児童の教育費等に役立てられます。タラヤナ財団とそれを設立したブータン王妃(当時)について西水さんが綴った「歩くタラヤナ」もぜひご覧ください。

著者紹介

プロフィール写真

西水美恵子(にしみず・みえこ)
米国ガルチャー大学を卒業(経済学専攻)。ジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程(経済学)を卒業。プリンストン大学経済学部(ウッドロー・ウイルソン・スクール兼任)助教授に就任。1980年、世界銀行経済開発研究所に入行。諸々のエコノミスト職や管理職を歴任。IBRD(世界銀行グループ・国際復興開発銀行)のリスク管理・金融政策局長などを務めた後、1997年、南アジア地域担当副総裁に就任。2003年、定年を待たずに退職。以来、世界を舞台に様々なアドバイザー活動を続ける。2007年よりシンクタンク・ソフィアバンクのパートナー。著書に『国をつくるという仕事』、『あなたの中のリーダーへ』、『私たちの国づくりへ』(いずれも英治出版)などがある。

連載紹介

連載紹介バナー

元世界銀行副総裁・西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』を2009年に出版してから10年。一国の王から貧村の農民まで、貧困のない世界を夢見る西水さんが世界で出会ってきたリーダーたちとのエピソードが綴られる本書は、分野や立場を問わない様々な方たちのリーダーシップ精神に火を付けてきました。10周年を機に、ぜひもう一度西水さんの言葉をみなさんに届けたい——。そんな思いから、本書の全36章より特選した10のエピソードを順次公開いたします。徹底的に草の根を歩き、苦境にあえぐ一人ひとりの声に耳を傾け、彼らの盾となって権力者たちと戦い続けた西水さんの23年間の歩みをご覧ください。

連載:いまもう一度、『国をつくるという仕事』を読む。
第1回:はじめに
第2回:カシミールの水【インド、パキスタン】
第3回:偶然【トルコ、バングラデシュ、スリランカ】
第4回:雷龍の国に学ぶ【ブータン】
第5回:売春婦「ナディア」の教え【バングラデシュ、インド】
第6回:改革という名の戦争【パキスタン】
第7回:神様の美しい失敗【モルディブ】
第8回:ヒ素中毒に怒る【バングラデシュ】
第9回:殺人魔【インド】
第10回:歩くタラヤナ【ブータン】
特別回:「本気」で動けば、何だって変えられる——著書『あなたの中のリーダーへ』、「はじめに」より

~西水さんとの対話会レポート~
竹内明日香:いつの時代も、世界の変化は「草の根」から
宮崎真理子:組織拡大期のリーダーのあり方に光が差した夜
三田愛:勝負の10年。夢物語への想いを本気にさせてくれた言葉
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